日々徒然なるままに

日々感じたことを書いていきます、よろしくお願いします

あちらの世界

2017-06-23 22:34:15 | ちょこっとスピリチュアル
こんばんは。
夏至も過ぎ、これから本格的な夏に向かうのでしょうけれど、もう少しまともな梅雨が欲しいとろです。
そんな今日は、かなり蒸し暑さを感じる日でした。
朝日は、此方。
この時は、まだどこにも雲はなく、暑いだけの日となりそうでしたけれど。
季節は確実に移ろっていくのかもしれませんね。

                               


そういう今日は、何故か別々の方や、或いは拝読させて頂いているブロガーの方が書かれた事柄等が重なったり、これもある方から
頂いていたDVDが目の前に出てきたりしまして、これはこのことを題材に書かせて頂くのがよいのか、とも思い取り上げさせて頂く事に
致しました。

とはいえ、話題は自分如きが軽々と述べられるような事でもなく、あくまでも自分自身が感じている、思っていることを書かせて頂くに
過ぎません。
当然といえば当然なことではありますけれど、そこはご承知頂ければと思います。

                               
                                

書こう、書かせて頂こうかと思うことは、「あの世」や「来世」はあるのか、ということです。
こう書くと、神主している人間が何言ってんだ?と咎められそうですけれど、自分がこの仕事の中で感じたことも色々とありますし、それとは
また別の世界もあるのでは、と感じたこともあります。
具体的にといわれると、言葉を濁さざるを得ないのですけれど、亡くなった方の声を聞くこと、これは耳元でということではなく、あることを
通してその方の思いやら気持ちを聞くことが出来ます。
既にこの世に居ない人のことをどうしてわかるんだと言われそうですけれど、そう出来るからとしか言いようのない話ではあります。
その意味では、「あの世」といわれる処はあると言えるかと思います。

今風に言い換えると、それこそこれもある種のパラレルワールドの中の一つなのかもしれない、とも思います。
ただ、そのパラレルワールドは、自分達がそうなるまでは経験し得ない「死」というものを通してしかわからない、ある種、より特殊な世界と
いえるかもしれません。

今現在は、この「死」というもの、或いは死後の世界というものがとてもタブー視されているように思いますが、本当はもっと身近にあるもの、
世界なのではと、自分自身は考えております。

                                

よくここで主人の話を書いておりますが、その主人が「あの世」とやらへ行って今年で六年になります。
普通なら、亡くなった人と会ったりとか会話とか出来ないのは当然と考えますが、どうしてか自分の場合は、未だによく夢に出てきたり、頭の
中で、その亡き主人と会話したりしております。
こう書くと、それは自分の気のせいだ、思い込みでしかないと呆れられるかもしれません。
確かに自分だけにしかその事はわかりませんし、他の方からは全く認知というのか認められない事だと思います。
実際、主人の身体自体は既に「この世」からは消滅しており、肉体、物質ともいう形では存在し得ておりません。
しかし目に見える形では無くとも、「魂」といわれる、核となる部分、芯である一番重要な部分は消滅しないのではないのか、そう思います。
ここの部分は神道においても、御霊(みたま)という言葉で表されるように思います。
ただし、その捉え方は自分が感じておる感覚と同一であるかは自分でも釈然と致しません。
ですけれど、御霊そのものが全く無くなってしまう、消滅してしまうという事としては、やはり捉えられていないのではと思います。

                               

卑近な例、とうよりもこれまた自分でしか感じておらないことですけれど、それについて書いて見たいと思います。

主人が亡くなる一週間ほど前のことでした。
その当時は、というよりも晩年の一年程は病状が悪化し、自宅ではとても介護も看護も出来かねる状態でしたので、病院を転々としておりました。
お正月も過ぎて四日の日だったと思います。
暮れの三十日に見舞いに行ったのが最後で、年が明けてからはまだ行けておりませんでした。
入院していたところが車で一時間ほどかかるところでして、自分自身は次の日の五日からはお祓いにあちこちを回らねばなりませんし、主人の
所へ見舞いに行くのもどうしょうかと迷っていた時でした。
何故か無性に会いたくなり、これはこれからでも行かねばならないかな、とかなり逡巡したのですけれど、結局その日は行くこともせず、先ほど
書いたように次の日からの仕事に備えて、三日間の初詣の疲れも取ろうと家でじっとして過ごしておりました。
十日の日にある信者さんのお宅にお祓いに伺い、そこで大いに楽しく時を過ごさせて頂いて帰宅しました。
その晩に、入院先の病院から危ないという知らせが届きました。
次の日には自分が休みなので見舞いに行こうとしていた矢先のことでした。

元々、その最後の一年というのは主人自身、気管切開をして声も出ない状態でしたので、見舞いに参りましても話も出来る状態ではありません
でした。
他にも胃ろうであったり、また既に左半身不随でもあり、その最後の病院に移ってからはこれまで以上に動かしてもらうこともなく、寝たきり
状態でもありましたので、参る度毎に本人が衰弱していくのは目に見えておりました。
なんとかこの状態をよくさせてあげたいというのは重々考えておりましたが、とてもそのようにもさせてあげられない、そんなもどかしいまま
過ぎた一年でもありました。

そのような状態の主人が、先だっての四日の日に、枕元に立つというのか元気な頃の顔でニコニコしながら戻ってきたような、そんな夢を見て
いたのでした。
あの時を思い出しても、今ならまだ間に合う、一度見に来てくれとそれこそ魂で、御霊の部分で呼びに来たのかもしれないと思っております。
こう申しましても、これも自分だけしか知りえない、感じ取っていない事ですし、感覚でしかないと言われると何とも反論のしようもありません。
ですけれど、あの主人ならやりかねないな、と茶化すわけではありませんが、そうも感じたことでした。

もう一つ、つけ加えるのではありませんけれどその三日後、息子のセンター試験があり、それまでの間に主人の通夜葬儀が執り行えたことは、
これもまた、おおそうじゃった、息子の試験があったんじゃ、と考えた主人がその日には被らない様、あの世で神様と先に取り決めてきた事?
だったのかもしれません。


もう少し真面目に、またもっと突っ込んで書こうと思っておるのですが、どうにも自分が書くとこうなってしまいますね、すみません。
あと二、三回、回を重ねて、もうしばらくこのことについて書かせて頂こうかと思います。


                             
                              



今日、小林麻央さんの訃報がニュースで伝えられました。
つい三日ほど前にご自身のブログにて
   「 皆様にも、今日 笑顔になれることがありますように。」
と記しておられたといいます。
最高の笑顔と共に、その言葉を最後に逝かれました。
ですけれど、彼女のその御霊はいつまでも此処へあり続けておられるのではないのか、そうも思わせて頂いております。
安らかに、と申し上げるのではなく、いつも一緒に居て欲しい、そう願う思いです。


                              



今日も、この拙いブログにお付き合い頂きまして、本当に有難うございました。    

コメント
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