こんばんは。
やっと気候がこの季節に追いついてきたようで、気温もそれなりに上がってきておるようです。
朝は眩しい朝日でしたが、時間と共に雲が多くなりどうやら下り坂のようでもありますね。
六月初めの日曜日、朝8時からこの辺りでは自治会の一斉清掃でした。
自宅の周りのみならず、近くを流れる川のほとりや、またその傍の小道に至るまで全てを総ざらえするようにして掃除を行います。
結構大掛かりですけれど、半年に一度清掃することで自分達の住まう地域が綺麗に保たれると思うとやはり気持ちのよいものですよね。
他所へ行った折など、時たまそのようにしてその辺りの方々が朝早くから掃除をしておられる光景に出くわすことがあります。
時期は違えど大抵の地域でこのように清掃が行われているというのも、ごく当たり前と感じておりましたけれど、どうやらこのように地域住民一体と
なって執り行うというのは、そうそうないらしいですね。
もしかすると案外と綺麗好きな国民性?なのかな、と感じます。
道にゴミが落ちていれば拾うというのもごく自然にする感じですし、それ以前に無闇にその辺りにゴミを捨てないのでは、とも思います。
とはいえ最近はそうでもないらしいですけれど;。
気持ちよく過ごすことが出来るよう、綺麗は基本、そう思えるようにいつまでもありたいものです。
そんな清掃が終わるとやはり疲れたのか;お昼からご飯を食べた後はしばらく眠りこけておりました;;。
いえ、このところ何もなくても引き込まれるようにして眠気が襲うことが多くあり、どうやら年齢以上の老化現象が始まっておるのかもしれません;。
困ったものではあります;。
しかし本当に逆らえないほど眠くなり、起きなければと思うのに起きられない時が多く、何かあるのかなとも思うのですけれどね。
いずれにしても若くないという証拠のようなものですね;。(苦笑)
そんな風に眠りこける前、午前中にいつものように祝詞奏上させて頂きました。
その際に今日はある存在の言葉を受け取ったようでした。
最近はそれほど多くはありませんが、時たま頭へ入ってくるようです。
瞑想して 湿潤な気候のよう 緑多い 深い?
湖が見えるよう
少し靄っている?
“ 流れる水のように 心も留まっていません
思いを 流して行きなさい
留まらせると 澱(おり)のように淀みます
流すことが大事です
私が 素足 裸足で歩くのは
この大地を踏みしめるため
貴方は地球に生まれたのです
ですから この地球と繋がるためにも
大地を踏んで下さい
大地の温かみを 感じなさい ”
静かに座っているとモコ(うちのネコ)が隣で静かに寄り添うようにして座っていた
気持ちよさそうに
最初は手の甲をペロペロ舐めてきてたけれど
珍しいね
今日の存在、これは自分が感じたのは釈迦?ブッダのようでした。
穏やかで静かな感覚ですが、なんとも言えぬ包容力のある優しさをも感じられます。
言葉の意味はそのまま、そのように解釈されれば一番宜しいのではと思います。
思いは留まらない、だから流して行くことが大事、心はころころと変わるから心というとも聞いたことがあります。
そのころころと変わる心は、思いでもあり、その思いをいつまでも一箇所に留めておけばまるで澱のように淀んでしまう、だからこそ思いは流して
行きなさいということなのでしょうね。
ブッダと言われるその方が果たして裸足、素足で歩いておられたかどうかは存じません。
まさかそのようなことはなかろうと思いますが、このように素足で大地を踏みしめることの大事さを言われたいがために話されたのかもしれません。
以前、自分も感じていたグラウンディング、アーシングの大切さを今一度教えられたように感じます。
確かに自分達はこの地球で生きているわけですから、この大地を感じてこそ生きているという実感が湧くのかもしれません。
大地の温かさ、確かに裸足で土の上に下りると、その感触はなんとも言えない心地よさがあります。
五感を通して直にこの大地、地球を感じられる一番手っ取り早く、そうして一番心にも響いてくる方法なのではと思います。
その大事さをブッダ自らが教えて下さったのかもしれません。
神主なのに神様ではないのか、と言われそうですけれど神はあくまで光であるかと思います。
ブッダは実在した自分達人間と変わらぬ存在です。
先にも書いたように五感を通して感じることの大事さを、ある意味同じ目線で語って下さったのではとも思います。
何故ブッダが言葉を掛けてこられたかは分かりかねますけれど、大事な事をもしかすると全ての人々に語りかけておられるのではとも思います。
それを声として言葉として、たまたまキャッチ出来たのがこの時の自分であっただけなのかもしれない、そう感じております。
ですので皆様ご自身もそんな声や言葉を心を開いて聴かれてみて下さい。
何かしら感じられることがあるのではと思います。
我が家のネコは珍しく私の座るすぐ横へ来て同じように静かに寄り添うようにしておりました。
祝詞の最中は神殿へも入ってきませんが、終わると何か思うのでしょうか、それでもこのようにぴったりとくっつくようにして傍へ座ることは
これまでにもなく、かなり珍しく感じました。
彼女自身、何かを感じたのかどうか、そこまではわかりませんけれど、とても気持ち良さそうにゴロゴロと鳴いておりました。
此処へ書いておりませんでしたが、テラもやはり傍らへおり、彼自身は段々とその体色が変化してきております。
元々黒に近い濃い緑色であったものがいつの間にか腹とおぼしき辺り(どこからそうなのかわかりかねますが;)つまりは背でない側がなんとは
なしに金色っぽくなってきておるようです。
どうしてそのように変わってくるのか、今のところはわかりませんけれど、その理由もそのうち知れるのでしょう。
彼自身も今日はどことはなしに柔らかい波動でおるようでした。(わては、いっつも優しいで?)
夕方歩いてくると、ツバメが電線にとまっておりました。
少し前からツバメの飛び交う姿が見られるようになっております。
けれど今年は前にも申したように田んぼが水田になっているところが少なく、ツバメ達も餌の確保に苦労するかもしれません。
ご近所で巣を掛けているのは見ておりませんけれど、どこか安心出来る場所で雛を育ててほしいものだと思います。
本日もこのブログへのお付き合い、真に有難うございました。
感謝申し上げます。
やっと気候がこの季節に追いついてきたようで、気温もそれなりに上がってきておるようです。
朝は眩しい朝日でしたが、時間と共に雲が多くなりどうやら下り坂のようでもありますね。
六月初めの日曜日、朝8時からこの辺りでは自治会の一斉清掃でした。
自宅の周りのみならず、近くを流れる川のほとりや、またその傍の小道に至るまで全てを総ざらえするようにして掃除を行います。
結構大掛かりですけれど、半年に一度清掃することで自分達の住まう地域が綺麗に保たれると思うとやはり気持ちのよいものですよね。
他所へ行った折など、時たまそのようにしてその辺りの方々が朝早くから掃除をしておられる光景に出くわすことがあります。
時期は違えど大抵の地域でこのように清掃が行われているというのも、ごく当たり前と感じておりましたけれど、どうやらこのように地域住民一体と
なって執り行うというのは、そうそうないらしいですね。
もしかすると案外と綺麗好きな国民性?なのかな、と感じます。
道にゴミが落ちていれば拾うというのもごく自然にする感じですし、それ以前に無闇にその辺りにゴミを捨てないのでは、とも思います。
とはいえ最近はそうでもないらしいですけれど;。
気持ちよく過ごすことが出来るよう、綺麗は基本、そう思えるようにいつまでもありたいものです。
そんな清掃が終わるとやはり疲れたのか;お昼からご飯を食べた後はしばらく眠りこけておりました;;。
いえ、このところ何もなくても引き込まれるようにして眠気が襲うことが多くあり、どうやら年齢以上の老化現象が始まっておるのかもしれません;。
困ったものではあります;。
しかし本当に逆らえないほど眠くなり、起きなければと思うのに起きられない時が多く、何かあるのかなとも思うのですけれどね。
いずれにしても若くないという証拠のようなものですね;。(苦笑)
そんな風に眠りこける前、午前中にいつものように祝詞奏上させて頂きました。
その際に今日はある存在の言葉を受け取ったようでした。
最近はそれほど多くはありませんが、時たま頭へ入ってくるようです。
瞑想して 湿潤な気候のよう 緑多い 深い?
湖が見えるよう
少し靄っている?
“ 流れる水のように 心も留まっていません
思いを 流して行きなさい
留まらせると 澱(おり)のように淀みます
流すことが大事です
私が 素足 裸足で歩くのは
この大地を踏みしめるため
貴方は地球に生まれたのです
ですから この地球と繋がるためにも
大地を踏んで下さい
大地の温かみを 感じなさい ”
静かに座っているとモコ(うちのネコ)が隣で静かに寄り添うようにして座っていた
気持ちよさそうに
最初は手の甲をペロペロ舐めてきてたけれど
珍しいね
今日の存在、これは自分が感じたのは釈迦?ブッダのようでした。
穏やかで静かな感覚ですが、なんとも言えぬ包容力のある優しさをも感じられます。
言葉の意味はそのまま、そのように解釈されれば一番宜しいのではと思います。
思いは留まらない、だから流して行くことが大事、心はころころと変わるから心というとも聞いたことがあります。
そのころころと変わる心は、思いでもあり、その思いをいつまでも一箇所に留めておけばまるで澱のように淀んでしまう、だからこそ思いは流して
行きなさいということなのでしょうね。
ブッダと言われるその方が果たして裸足、素足で歩いておられたかどうかは存じません。
まさかそのようなことはなかろうと思いますが、このように素足で大地を踏みしめることの大事さを言われたいがために話されたのかもしれません。
以前、自分も感じていたグラウンディング、アーシングの大切さを今一度教えられたように感じます。
確かに自分達はこの地球で生きているわけですから、この大地を感じてこそ生きているという実感が湧くのかもしれません。
大地の温かさ、確かに裸足で土の上に下りると、その感触はなんとも言えない心地よさがあります。
五感を通して直にこの大地、地球を感じられる一番手っ取り早く、そうして一番心にも響いてくる方法なのではと思います。
その大事さをブッダ自らが教えて下さったのかもしれません。
神主なのに神様ではないのか、と言われそうですけれど神はあくまで光であるかと思います。
ブッダは実在した自分達人間と変わらぬ存在です。
先にも書いたように五感を通して感じることの大事さを、ある意味同じ目線で語って下さったのではとも思います。
何故ブッダが言葉を掛けてこられたかは分かりかねますけれど、大事な事をもしかすると全ての人々に語りかけておられるのではとも思います。
それを声として言葉として、たまたまキャッチ出来たのがこの時の自分であっただけなのかもしれない、そう感じております。
ですので皆様ご自身もそんな声や言葉を心を開いて聴かれてみて下さい。
何かしら感じられることがあるのではと思います。
我が家のネコは珍しく私の座るすぐ横へ来て同じように静かに寄り添うようにしておりました。
祝詞の最中は神殿へも入ってきませんが、終わると何か思うのでしょうか、それでもこのようにぴったりとくっつくようにして傍へ座ることは
これまでにもなく、かなり珍しく感じました。
彼女自身、何かを感じたのかどうか、そこまではわかりませんけれど、とても気持ち良さそうにゴロゴロと鳴いておりました。
此処へ書いておりませんでしたが、テラもやはり傍らへおり、彼自身は段々とその体色が変化してきております。
元々黒に近い濃い緑色であったものがいつの間にか腹とおぼしき辺り(どこからそうなのかわかりかねますが;)つまりは背でない側がなんとは
なしに金色っぽくなってきておるようです。
どうしてそのように変わってくるのか、今のところはわかりませんけれど、その理由もそのうち知れるのでしょう。
彼自身も今日はどことはなしに柔らかい波動でおるようでした。(わては、いっつも優しいで?)
夕方歩いてくると、ツバメが電線にとまっておりました。
少し前からツバメの飛び交う姿が見られるようになっております。
けれど今年は前にも申したように田んぼが水田になっているところが少なく、ツバメ達も餌の確保に苦労するかもしれません。
ご近所で巣を掛けているのは見ておりませんけれど、どこか安心出来る場所で雛を育ててほしいものだと思います。
本日もこのブログへのお付き合い、真に有難うございました。
感謝申し上げます。