こんばんは。
朝晩、随分と気温が下がるようになってきましたね。
九月の終わりではありますが、こんなに急激に涼しくなっていたかなぁとつい考えてしまいます。
昨日も書きましたけれど、空気自体が既に秋ですね。
そのうちに本格的に秋の気配が漂って来るのでしょうか。
今朝は曇っていた分、そこまでは冷え込んだようではありませんでした。
昨日、また今日としばらくしていなかった散歩をしてきました。
して来たというほどのものでもありませんけれど、夏は午後六時半頃にようやく涼しい風が吹くようでしたけれど、最近は五時前にはこの辺りは
山が近いこともあり、日が陰ります。
そのようなこともあり、歩きに出るのも自然と時間が早まって来ます。
風も涼しいというよりも、これくらいの時間帯になって来るとむしろひんやりと感じるようになります。
秋分の日を過ぎたわけですので、そのようになって来たとしてもおかしくないのかもしれません。
道を歩きながら、ふと甘い香りが漂ってきたりします。
あ、これは、と思うと近くに金木犀が咲いていたります。
今の時期ならではの香りですね。
以前住んでいた家にもこの金木犀が植わっており、季節になると周辺にあの何ともいえぬ甘い香りを庭先一杯に香らせていたように思います。
懐かしい香りと言えるのかもしれません。
そんな花を香ったり姿を眺めたりしながら、空を見上げると、これは自分に自分で言い聞かせている言葉なのかもしれませんけれど、頭に聞こえる
声があります。
『 暗いところばかりを好んでみているから、そのように暗いものしか見えてこないのだ
あれがどうだ、これがどうだとどうしてそこばかりを覗き込んでしまうのか
そこばかりを敢えて見ようとしてばかりいるから、それしか見えて来ないのだ
光を求めれば、必ずそこには光が現れる
求めていさえすれば、自ずと光は射してくる
よしんば、暗いほうへばかり見ていたとしても究極にはそこを突き抜け、終いには光が誕生するのだ
宇宙の大きなブラックホールですら、あの闇の中から光が、星が誕生しているではないか
恐れず、光ある方へ進むのだ
我が方へ参れ 』
そんな感じの言葉が頭に浮かんできたように思います。
またもや自分の頭の中での妄想にしか過ぎないのだと、これもまたいつもの如く感じておるのですけれど。
それでも、自分で考えたものなのかどうかはわかりませんが、そのような言葉に自分で自分に励まされる気がします。
光はどこにでもある、必ずある。
求めること、それさえあれば必ずあるんだということ。
これは何よりの希望のように感じます。
たまたま時間があるのをよい事に、ついネットで色んな物を検索しては余計にそのようなもの(良からぬ)ばかりを続けざまに見ていたからかも
しれません;。
ある事ない事なのかどうか、根も葉もない事に惑わされず、より高い地点で、高い視点で物事を見よということなのかもしれません。
そんな風に考えていますと、西の空に綺麗な彩雲が見えたりしておりました。
あながち自分の頭の中の事だけではなく、上の方からの言葉を頂いたのかもしれません、穿った見方かもしれませんけれど。
雲なのに、なんだか太陽の表面のプロミネンスのようにも見えたりしておりました。
上からの言葉、存在といえば自分にとっては(?)やはり龍となります。
そんなことを感じさせてくれるような雲も幾つかありました。
ただ、やはり写真に撮るとどうしてもぼやけて写るようですけれど;。
今日は自分自身が空と対話?しながら見上げたその空を撮ってみました。
まるっきり他愛もない日常を綴ったものでしかありません。
そんな、これまたいつものオバサンブログとなりましたけれど;。
お付き合い頂きました皆様、いつも本当に有難うございます。
感謝申し上げます。
朝晩、随分と気温が下がるようになってきましたね。
九月の終わりではありますが、こんなに急激に涼しくなっていたかなぁとつい考えてしまいます。
昨日も書きましたけれど、空気自体が既に秋ですね。
そのうちに本格的に秋の気配が漂って来るのでしょうか。
今朝は曇っていた分、そこまでは冷え込んだようではありませんでした。
昨日、また今日としばらくしていなかった散歩をしてきました。
して来たというほどのものでもありませんけれど、夏は午後六時半頃にようやく涼しい風が吹くようでしたけれど、最近は五時前にはこの辺りは
山が近いこともあり、日が陰ります。
そのようなこともあり、歩きに出るのも自然と時間が早まって来ます。
風も涼しいというよりも、これくらいの時間帯になって来るとむしろひんやりと感じるようになります。
秋分の日を過ぎたわけですので、そのようになって来たとしてもおかしくないのかもしれません。
道を歩きながら、ふと甘い香りが漂ってきたりします。
あ、これは、と思うと近くに金木犀が咲いていたります。
今の時期ならではの香りですね。
以前住んでいた家にもこの金木犀が植わっており、季節になると周辺にあの何ともいえぬ甘い香りを庭先一杯に香らせていたように思います。
懐かしい香りと言えるのかもしれません。
そんな花を香ったり姿を眺めたりしながら、空を見上げると、これは自分に自分で言い聞かせている言葉なのかもしれませんけれど、頭に聞こえる
声があります。
『 暗いところばかりを好んでみているから、そのように暗いものしか見えてこないのだ
あれがどうだ、これがどうだとどうしてそこばかりを覗き込んでしまうのか
そこばかりを敢えて見ようとしてばかりいるから、それしか見えて来ないのだ
光を求めれば、必ずそこには光が現れる
求めていさえすれば、自ずと光は射してくる
よしんば、暗いほうへばかり見ていたとしても究極にはそこを突き抜け、終いには光が誕生するのだ
宇宙の大きなブラックホールですら、あの闇の中から光が、星が誕生しているではないか
恐れず、光ある方へ進むのだ
我が方へ参れ 』
そんな感じの言葉が頭に浮かんできたように思います。
またもや自分の頭の中での妄想にしか過ぎないのだと、これもまたいつもの如く感じておるのですけれど。
それでも、自分で考えたものなのかどうかはわかりませんが、そのような言葉に自分で自分に励まされる気がします。
光はどこにでもある、必ずある。
求めること、それさえあれば必ずあるんだということ。
これは何よりの希望のように感じます。
たまたま時間があるのをよい事に、ついネットで色んな物を検索しては余計にそのようなもの(良からぬ)ばかりを続けざまに見ていたからかも
しれません;。
ある事ない事なのかどうか、根も葉もない事に惑わされず、より高い地点で、高い視点で物事を見よということなのかもしれません。
そんな風に考えていますと、西の空に綺麗な彩雲が見えたりしておりました。
あながち自分の頭の中の事だけではなく、上の方からの言葉を頂いたのかもしれません、穿った見方かもしれませんけれど。
雲なのに、なんだか太陽の表面のプロミネンスのようにも見えたりしておりました。
上からの言葉、存在といえば自分にとっては(?)やはり龍となります。
そんなことを感じさせてくれるような雲も幾つかありました。
ただ、やはり写真に撮るとどうしてもぼやけて写るようですけれど;。
今日は自分自身が空と対話?しながら見上げたその空を撮ってみました。
まるっきり他愛もない日常を綴ったものでしかありません。
そんな、これまたいつものオバサンブログとなりましたけれど;。
お付き合い頂きました皆様、いつも本当に有難うございます。
感謝申し上げます。