こんばんは。
今日は雨は降りませんでしたけれど、こうスカッと晴れたという感じにもなりませんでした。
夕方散歩に出ると、それでも青空が見えておりました。
秋晴れ、そういうお天気に早くなってほしいものですね。
そんな朝は、此方。
昨日の写真と比べても違いがわかりませんでした;。
昨日、勢い勇んで龍について書かせて頂きます、なぞと申しましたけれど;。
さて、どないして書こうか、書けるんかいな、と思いながら夕方歩きに出てみました。
外へ出ると、何日かぶりの青空が広がって来ておりました。
気持ち良いなぁ、とズンズンといつも如く歩いて行き、ふと空を見上げると。
あれ?あの雲、龍の横顔に見えるんじゃね?と感じて直ぐ撮ってみたのですけれど。
以前も申しましたけれど、自分の肉眼で見たものと撮ったそれとでは隋分差がある感じで、見ようによってはそう見えなくもないよね、という
程度のものですね。
それでも、そのような雲に出会えたこと自体嬉しく、やはりこれは龍を書かねばいけない、書けということだよね、とこれまた自分で自分に言い
聞かせた次第です。
どこが龍よ?という感じですけれどね;。
一枚目の方、下の龍と共にもう一頭、上にいるように思えたのですけれども;。
それでもこのように写真を撮っておりますと、頭の中へ
「 いい加減に観念して信ぜよ 」
そんな言葉が入ってきたように思います。
これとて、毎回申す如く、自分の思い込みでしかないのかもしれません。
ですけれど、こうして雲で現れてくるというのは自分自身の心を反映しておるのかも、これまたしれません。
様々な人が龍について考え、絵に描き、しかもその姿は実際には目には見えない。
それでも干支の中にはしっかりと組み込まれていたりもします。
この干支の十二支に入っていることはカタカムナの吉野信子さんであったかが書かれておられましたけれど、入るべくして入っていると説明
しておられたように思います。(もし人間違いであれば大変、すみません;)
目に見えないものであるにもかかわらず、こうして自分達の身近にも多くその姿をさらして?おります。
見えないけれども、感じるものなのでしょうか。
ヘミシンクにおける日本での第一人者といえば坂本政道氏ですけれど、彼自身が龍の姿と認識出来る宇宙人に、宇宙船の中で出会ったと彼の
著した本の中で書いておられます。
この姿を見て古代の人々は、その宇宙人を龍である、神である、あるいはその遣いであるとしたのではないのかとも述べておられます。
確かにそれもあるのかもしれません。
或いは、龍にせよ、西洋でいうところのエンジェルにせよ、彼ら全て、これ地球における現場作業員の一員ですよ、とおっしゃるのはやはり
ヘミシンクをされておられる、あのまるの日さんですね。
現場作業員って;、とつい身も蓋もない言い様にも聞こえますけれど、そういわれれば確かにそれも一理あるかも、とも感じます。
エンジェルと呼ばれる存在も、姿こそ見えませんけれど、人々に多くの事を伝えてくれる存在として古から認識されておりますね。
それと同様に、この龍もそのような役割を担っているのかもしれません。
かと思えば、この龍を通して今まさに様々な恩恵を人々に授けようとして実際に活躍しておられる方も多くおられますね。
それは音を通して龍を感じさせておられたり、或いはその人の背後におるであろう龍を感じてその人自身に伝えたりとか、それこそ様々であろう
かと思います。
そうしてその際には、やはり写真を撮ると光として龍が写り込んでいたり、或いは人々の手のひらに金粉を出現させてみたり、はたまた香りで
降ってきたりと、いわば自分達三次元にいる者にとり、非常にわかりやすい形で現れてくれているのでは、と思います。
この段階になると、もう信じるとか信じないとかではなく、あるのが当然、居るのが当たり前ということになるのでは、と感じます。
そうなると、龍とは自分達の目には見えないけれど、次元の違うところへ確かに存在しておるものなのでは、と思えてきます。
よく言われるように、三次元ではなくちょっと上の次元に居る、いわば一種のエネルギー体なのではないのかな、そう思います。
後はその人にとり、どのように感じ取れるかでその見え方、感じ方が違ってくるだけの違いではないのかな、とも。
最近、いわゆるスピ系といわれている方々が各地の神社や寺院にいかれ、そこで龍を感じたりするとご自身のブログ等で言われております。
これは、その地自体の持つエネルギーを龍として感じ取っておられるのではと思います。
龍を祀っておられるところは当然水の関係の神様も多く、そちらの方を感じ取られる方もいらっしゃいますね。
これもその人により、そのエネルギー自体を龍と捉えるか、或いは神様として感じるかの違いなのではとも思います。
湧き上がる様なエネルギーを感じるからこそ、それを龍と捉えるのでしょうし、そう思うからこそ、そのような姿として認識されやすくなって
いるのでは、とも思います。
実際のところはどうであるのか、此処まで書かせて頂いてきて甚だ失礼かもしれませんけれど、あくまで自分が考えたことですので、これが本当、
とは自分でも申せません。
ですけれど、今申したそのような社寺にはそういったエネルギーが渦巻いておるところであり、だからこそ古よりその地を神宿る場所として
社を設けていたのだろうと思います。
目に見えぬものを、此処であると定める事により万人にもその地を知らしめたのでは、とも感じます。
まぁ、このようなことを長々と説明するまでもなく、至極当然のことなのではありましょうけれど;。
自分で頭捻ってみても所詮はこの程度でしかありませんでしたね;。
なんともはや、な落としどころとなってしまいました。
それでも龍を思い感じるとき、なんとも言えず胸すくような清々しい思いを抱きます。
頭の中にその言葉が入るときには、その雄々しさを感じます。
やはり龍は自分とっては無くてはならない存在、そのように感じます。
また改めて取り上げてみたいと思います。
本日もこのブログへのお付き合い、有難うございました。
感謝申し上げます。
今日は雨は降りませんでしたけれど、こうスカッと晴れたという感じにもなりませんでした。
夕方散歩に出ると、それでも青空が見えておりました。
秋晴れ、そういうお天気に早くなってほしいものですね。
そんな朝は、此方。
昨日の写真と比べても違いがわかりませんでした;。
昨日、勢い勇んで龍について書かせて頂きます、なぞと申しましたけれど;。
さて、どないして書こうか、書けるんかいな、と思いながら夕方歩きに出てみました。
外へ出ると、何日かぶりの青空が広がって来ておりました。
気持ち良いなぁ、とズンズンといつも如く歩いて行き、ふと空を見上げると。
あれ?あの雲、龍の横顔に見えるんじゃね?と感じて直ぐ撮ってみたのですけれど。
以前も申しましたけれど、自分の肉眼で見たものと撮ったそれとでは隋分差がある感じで、見ようによってはそう見えなくもないよね、という
程度のものですね。
それでも、そのような雲に出会えたこと自体嬉しく、やはりこれは龍を書かねばいけない、書けということだよね、とこれまた自分で自分に言い
聞かせた次第です。
どこが龍よ?という感じですけれどね;。
一枚目の方、下の龍と共にもう一頭、上にいるように思えたのですけれども;。
それでもこのように写真を撮っておりますと、頭の中へ
「 いい加減に観念して信ぜよ 」
そんな言葉が入ってきたように思います。
これとて、毎回申す如く、自分の思い込みでしかないのかもしれません。
ですけれど、こうして雲で現れてくるというのは自分自身の心を反映しておるのかも、これまたしれません。
様々な人が龍について考え、絵に描き、しかもその姿は実際には目には見えない。
それでも干支の中にはしっかりと組み込まれていたりもします。
この干支の十二支に入っていることはカタカムナの吉野信子さんであったかが書かれておられましたけれど、入るべくして入っていると説明
しておられたように思います。(もし人間違いであれば大変、すみません;)
目に見えないものであるにもかかわらず、こうして自分達の身近にも多くその姿をさらして?おります。
見えないけれども、感じるものなのでしょうか。
ヘミシンクにおける日本での第一人者といえば坂本政道氏ですけれど、彼自身が龍の姿と認識出来る宇宙人に、宇宙船の中で出会ったと彼の
著した本の中で書いておられます。
この姿を見て古代の人々は、その宇宙人を龍である、神である、あるいはその遣いであるとしたのではないのかとも述べておられます。
確かにそれもあるのかもしれません。
或いは、龍にせよ、西洋でいうところのエンジェルにせよ、彼ら全て、これ地球における現場作業員の一員ですよ、とおっしゃるのはやはり
ヘミシンクをされておられる、あのまるの日さんですね。
現場作業員って;、とつい身も蓋もない言い様にも聞こえますけれど、そういわれれば確かにそれも一理あるかも、とも感じます。
エンジェルと呼ばれる存在も、姿こそ見えませんけれど、人々に多くの事を伝えてくれる存在として古から認識されておりますね。
それと同様に、この龍もそのような役割を担っているのかもしれません。
かと思えば、この龍を通して今まさに様々な恩恵を人々に授けようとして実際に活躍しておられる方も多くおられますね。
それは音を通して龍を感じさせておられたり、或いはその人の背後におるであろう龍を感じてその人自身に伝えたりとか、それこそ様々であろう
かと思います。
そうしてその際には、やはり写真を撮ると光として龍が写り込んでいたり、或いは人々の手のひらに金粉を出現させてみたり、はたまた香りで
降ってきたりと、いわば自分達三次元にいる者にとり、非常にわかりやすい形で現れてくれているのでは、と思います。
この段階になると、もう信じるとか信じないとかではなく、あるのが当然、居るのが当たり前ということになるのでは、と感じます。
そうなると、龍とは自分達の目には見えないけれど、次元の違うところへ確かに存在しておるものなのでは、と思えてきます。
よく言われるように、三次元ではなくちょっと上の次元に居る、いわば一種のエネルギー体なのではないのかな、そう思います。
後はその人にとり、どのように感じ取れるかでその見え方、感じ方が違ってくるだけの違いではないのかな、とも。
最近、いわゆるスピ系といわれている方々が各地の神社や寺院にいかれ、そこで龍を感じたりするとご自身のブログ等で言われております。
これは、その地自体の持つエネルギーを龍として感じ取っておられるのではと思います。
龍を祀っておられるところは当然水の関係の神様も多く、そちらの方を感じ取られる方もいらっしゃいますね。
これもその人により、そのエネルギー自体を龍と捉えるか、或いは神様として感じるかの違いなのではとも思います。
湧き上がる様なエネルギーを感じるからこそ、それを龍と捉えるのでしょうし、そう思うからこそ、そのような姿として認識されやすくなって
いるのでは、とも思います。
実際のところはどうであるのか、此処まで書かせて頂いてきて甚だ失礼かもしれませんけれど、あくまで自分が考えたことですので、これが本当、
とは自分でも申せません。
ですけれど、今申したそのような社寺にはそういったエネルギーが渦巻いておるところであり、だからこそ古よりその地を神宿る場所として
社を設けていたのだろうと思います。
目に見えぬものを、此処であると定める事により万人にもその地を知らしめたのでは、とも感じます。
まぁ、このようなことを長々と説明するまでもなく、至極当然のことなのではありましょうけれど;。
自分で頭捻ってみても所詮はこの程度でしかありませんでしたね;。
なんともはや、な落としどころとなってしまいました。
それでも龍を思い感じるとき、なんとも言えず胸すくような清々しい思いを抱きます。
頭の中にその言葉が入るときには、その雄々しさを感じます。
やはり龍は自分とっては無くてはならない存在、そのように感じます。
また改めて取り上げてみたいと思います。
本日もこのブログへのお付き合い、有難うございました。
感謝申し上げます。