こんばんは。
朝から良いお天気、加えてこのところずっと拭い去れないように感じていた湿気を感じられず、暑くてもカラッとした気候に
なった分だけ多少は(そう多少ですよ;)ましに感じられました。
(遠方はしかしこんな感じの厚い雲に覆われていたようで山頂は見えませんでした)
こんな暑い日、昨日我が家へ来た弟は朝からまた多くのお客さんの荷物を携えて配送へ回っていると思うと、弟ながらもご苦労様
と思わず頭が下がる思いです。
うちのご近所へも朝夕問わず宅配業者さんが日に何度も配送に来ておられるようですし、やはり今年はお盆を過ぎても荷物が落ち
着くどころか全く捌けないというのは見ていて感じます。
頼む方はボタン一つポチッと押せば済む訳ですが、最終的にそれを配る側は人数も限られている分負担は益々増えていくんだろうな
と思うところです。
だからどうした、といつものように突っ込みが入りそうですが、便利と感じるのは依頼者のみで所謂現場と呼ばれる場所はいつの
時代も変わりがない、代わりが効かないものなのかなということですね。
より時が経てばそんな配送も何かのロボット風な物とか、はたまたドローン等に載せて運ばれるようになるのでしょうか。
便利な世の中になったと言われて久しいですが、結局はその中間にも人の働きがあるということをすっぽ抜かして考えているだけで
実際には以前にも増して忙しくなっているのが実状なのかなと思ったりもします。
そう言いながらも所詮は自分もその末端でポチッと押す側の人間であることには相違ありません。
我が弟ながらそういった意味では私からすれば尊敬に値する人、そう思った朝の考察でした、いやはや;。
今朝も祝詞奏上させて頂きました。
今日は仏陀の香りをつけて奏上致しました。
仏陀
〝 盆と呼ばれる頃 古の先祖が戻るとされるな
本来それらの者とは いつも在るのだが
常にそれらを偲んでばかりでは 今との境が曖昧になろう
ならばと日を設け この頃にしたのよ
偲ぶそなたらの体も暑さの頃に一時休ませ
古の人々と共に過ごそう
そう思う心が作ったものとも言えよう 〟
このような言葉でした。
普通に考えておられるお盆の捉え方とは全く違う感じですけども。
何故この暑い夏の最中にあちらの世界へと旅立った方々を偲ぶのか、確かに何故だろうと思えました。
元々日本は以前にも申したように旧暦で月日は数えられていました。
そう考えると本来のお盆は今のグレゴリオ暦とは隔たっているのではと思います。
昨年であったかさとうみつろうさんという、知ってる人は知っている(当たり前だけど;)方が沖縄は今でもお盆は旧暦でしますと
いうことを仰っておりました。
うろ覚えで申し訳ないのですが;おそらくお盆は満月になるまでの3日間だったのではと思います。
それが上の言葉とどう関係あると、これまた言われそうですが。
満月になるのと地球と太陽の関係とか地軸の傾きとか、凡そ我々がお盆とイメージする事柄とはかなりかけ離れた事が関連して
それがいつの間にかあちらの世界の人々が此方へ戻って来れる日と変遷してきたのではということです。
(まだ言葉とは繋がりませんが;)
本来はもっと天文学的なことが言われていたのではということですが、それが何故かしら目に見えぬ世界の人々とも通じる門、
ゲートが開くようなイメージで一般には認識されたのかなと感じます。
本来はあちらの世界へ行かれた人はいつでも会える、けれどいつもそれを感じていては、人によっては現実とそうでない世界が
入り乱れてしまうと考えられたのでしょうか。
実際にそうであるかは分かりません;。
けれど日々を生きる人達にとっては日を限り、この日にご先祖様と呼ばれる方々が戻ってこられると認識した方がより濃厚に感じ
取れると思われたのかもしれませんね。
お盆の行事、本来は神道としての考え方のようですが、仏教が伝来してからはそちらが主流と捉えられておるようです。
ご先祖様とはこの限られた日でしか会えないことはまずないと思います。
しかし、このお盆に事寄せて日頃会えないでいる遠く離れた家族などに会いに行くというのは、やはり日本の一つの慣習でもあり、
暑い時期に一休みするという意味においては案外理に適っているのかなとも思います。
(現実に移動する方々にとっては一大事な程のイベントでしょうけどね;)
今年は疫病でそれどころではなくなりました、ならばこそご先祖様は何処であっても偲べるもの、そう気持ちを切り替えてしばし
己が心で感じてみるのも良いのではと思います。
出雲の話、いい加減書いとかないと自分が忘れそうです;。
というか書く必要あるの?とも思ってるんですけどね;。(笑)
まぁあの日のことは一応最後まで書き終えてしまいたいと思います、はい。
出雲大社を後にし、そこから2キロ程走ったところでしょうか、大社教の墓地があります。
我が家のお墓はそこへ設けてあります。
元来主人は大阪の人間で、お墓も大阪府池田市という所に主人の父が建立しておりました。
明治の頃にそこの寺院の墓所を購入し、そこへ設けたものがあります。
つまりは2か所あるということです。
なんで?と思われますよね。
これはまぁ嫁の自分が言うのもなんですが;お姑さん、我が家では常におばあちゃんと呼び習わしておりましたが、その人が
「私はあの人と同じ墓に入りとうない!」
とどうやら主人が神主になってからごねたそうです。(いや、そう聞いておりますんで;)
それは何故か、要するに大阪のお墓を建てたこのお舅さん、義父が結構派手な女遊びをしていたと聞いておりました。
(あ、主人からです、聞いたのは;)
で、それならあんたのお墓は出雲へ建てようやないかと当時のダンナ(という呼び方にいつの間にかなってる 笑)が感じたのか
どうか、私が嫁いできた時には既にこの2か所へ墓があるという状況でした。
ですので結婚して間なしの頃には割と大阪のお墓へも参り、出雲はやはり同様に参っておりました。
2か所の墓を一つにすればええやないか、と義姉からは散々言われていたらしいうちのダンナ、しかし(神主のくせして;)ノラリ
クラリとかわしていたようですね。(困ったもんだよ;)
結局主人が大病で倒れる寸前に大阪のお墓はその寺院へ土地ごと返すように義姉が取り計らってくれたようで、それ以降は向こうは
納骨堂のような場所へ義父の骨は安置されたようです。
その結果、我が家の墓はこの出雲の地となり、此処へは義母と主人、また我が娘が眠っている場所となっております。
ま、なんだか複雑ではありますな;。
ともあれそんなことで、主人も向こうの世界の人となり、今はこうして訪れるのは私と息子となっておる訳です。
この墓所、この辺りはその昔、と言っても万年がつく昔ですが浜辺であったらしく土地は砂地です。
生えている草もそれほど労なく抜き取れるのですが、逆にいえば放っておけば草ぼうぼうになるのは必然でもあり、なかなか訪れ
られない自分達からすると困ったものでもありますね。
そんなことを思いながらも息子と二人、汗流しながら取れるだけの草は取っておきました。
本来はそれなりの箒やらも持参せねばならないのですが今回全く忘れており;せいぜいが持って行った軍手をしてその辺りを
曲りなりにも綺麗にしたという程度でした。
全くもって罰当たりな子孫ではあります;。
最後は二人して静かに手を合わせ、そこを後にしました。
出雲の話、まだ終わりそうにありません;。
本っ当にすみませんです。
往生際が悪いですよねぇ;。
でもせめてあともう一回、お伝えしたいことがありますのでお付き合い願えればと存じます。
本日もこのブログへのお付き合い、真に有難うございました。
感謝申し上げます。
朝から良いお天気、加えてこのところずっと拭い去れないように感じていた湿気を感じられず、暑くてもカラッとした気候に
なった分だけ多少は(そう多少ですよ;)ましに感じられました。
(遠方はしかしこんな感じの厚い雲に覆われていたようで山頂は見えませんでした)
こんな暑い日、昨日我が家へ来た弟は朝からまた多くのお客さんの荷物を携えて配送へ回っていると思うと、弟ながらもご苦労様
と思わず頭が下がる思いです。
うちのご近所へも朝夕問わず宅配業者さんが日に何度も配送に来ておられるようですし、やはり今年はお盆を過ぎても荷物が落ち
着くどころか全く捌けないというのは見ていて感じます。
頼む方はボタン一つポチッと押せば済む訳ですが、最終的にそれを配る側は人数も限られている分負担は益々増えていくんだろうな
と思うところです。
だからどうした、といつものように突っ込みが入りそうですが、便利と感じるのは依頼者のみで所謂現場と呼ばれる場所はいつの
時代も変わりがない、代わりが効かないものなのかなということですね。
より時が経てばそんな配送も何かのロボット風な物とか、はたまたドローン等に載せて運ばれるようになるのでしょうか。
便利な世の中になったと言われて久しいですが、結局はその中間にも人の働きがあるということをすっぽ抜かして考えているだけで
実際には以前にも増して忙しくなっているのが実状なのかなと思ったりもします。
そう言いながらも所詮は自分もその末端でポチッと押す側の人間であることには相違ありません。
我が弟ながらそういった意味では私からすれば尊敬に値する人、そう思った朝の考察でした、いやはや;。
今朝も祝詞奏上させて頂きました。
今日は仏陀の香りをつけて奏上致しました。
仏陀
〝 盆と呼ばれる頃 古の先祖が戻るとされるな
本来それらの者とは いつも在るのだが
常にそれらを偲んでばかりでは 今との境が曖昧になろう
ならばと日を設け この頃にしたのよ
偲ぶそなたらの体も暑さの頃に一時休ませ
古の人々と共に過ごそう
そう思う心が作ったものとも言えよう 〟
このような言葉でした。
普通に考えておられるお盆の捉え方とは全く違う感じですけども。
何故この暑い夏の最中にあちらの世界へと旅立った方々を偲ぶのか、確かに何故だろうと思えました。
元々日本は以前にも申したように旧暦で月日は数えられていました。
そう考えると本来のお盆は今のグレゴリオ暦とは隔たっているのではと思います。
昨年であったかさとうみつろうさんという、知ってる人は知っている(当たり前だけど;)方が沖縄は今でもお盆は旧暦でしますと
いうことを仰っておりました。
うろ覚えで申し訳ないのですが;おそらくお盆は満月になるまでの3日間だったのではと思います。
それが上の言葉とどう関係あると、これまた言われそうですが。
満月になるのと地球と太陽の関係とか地軸の傾きとか、凡そ我々がお盆とイメージする事柄とはかなりかけ離れた事が関連して
それがいつの間にかあちらの世界の人々が此方へ戻って来れる日と変遷してきたのではということです。
(まだ言葉とは繋がりませんが;)
本来はもっと天文学的なことが言われていたのではということですが、それが何故かしら目に見えぬ世界の人々とも通じる門、
ゲートが開くようなイメージで一般には認識されたのかなと感じます。
本来はあちらの世界へ行かれた人はいつでも会える、けれどいつもそれを感じていては、人によっては現実とそうでない世界が
入り乱れてしまうと考えられたのでしょうか。
実際にそうであるかは分かりません;。
けれど日々を生きる人達にとっては日を限り、この日にご先祖様と呼ばれる方々が戻ってこられると認識した方がより濃厚に感じ
取れると思われたのかもしれませんね。
お盆の行事、本来は神道としての考え方のようですが、仏教が伝来してからはそちらが主流と捉えられておるようです。
ご先祖様とはこの限られた日でしか会えないことはまずないと思います。
しかし、このお盆に事寄せて日頃会えないでいる遠く離れた家族などに会いに行くというのは、やはり日本の一つの慣習でもあり、
暑い時期に一休みするという意味においては案外理に適っているのかなとも思います。
(現実に移動する方々にとっては一大事な程のイベントでしょうけどね;)
今年は疫病でそれどころではなくなりました、ならばこそご先祖様は何処であっても偲べるもの、そう気持ちを切り替えてしばし
己が心で感じてみるのも良いのではと思います。
出雲の話、いい加減書いとかないと自分が忘れそうです;。
というか書く必要あるの?とも思ってるんですけどね;。(笑)
まぁあの日のことは一応最後まで書き終えてしまいたいと思います、はい。
出雲大社を後にし、そこから2キロ程走ったところでしょうか、大社教の墓地があります。
我が家のお墓はそこへ設けてあります。
元来主人は大阪の人間で、お墓も大阪府池田市という所に主人の父が建立しておりました。
明治の頃にそこの寺院の墓所を購入し、そこへ設けたものがあります。
つまりは2か所あるということです。
なんで?と思われますよね。
これはまぁ嫁の自分が言うのもなんですが;お姑さん、我が家では常におばあちゃんと呼び習わしておりましたが、その人が
「私はあの人と同じ墓に入りとうない!」
とどうやら主人が神主になってからごねたそうです。(いや、そう聞いておりますんで;)
それは何故か、要するに大阪のお墓を建てたこのお舅さん、義父が結構派手な女遊びをしていたと聞いておりました。
(あ、主人からです、聞いたのは;)
で、それならあんたのお墓は出雲へ建てようやないかと当時のダンナ(という呼び方にいつの間にかなってる 笑)が感じたのか
どうか、私が嫁いできた時には既にこの2か所へ墓があるという状況でした。
ですので結婚して間なしの頃には割と大阪のお墓へも参り、出雲はやはり同様に参っておりました。
2か所の墓を一つにすればええやないか、と義姉からは散々言われていたらしいうちのダンナ、しかし(神主のくせして;)ノラリ
クラリとかわしていたようですね。(困ったもんだよ;)
結局主人が大病で倒れる寸前に大阪のお墓はその寺院へ土地ごと返すように義姉が取り計らってくれたようで、それ以降は向こうは
納骨堂のような場所へ義父の骨は安置されたようです。
その結果、我が家の墓はこの出雲の地となり、此処へは義母と主人、また我が娘が眠っている場所となっております。
ま、なんだか複雑ではありますな;。
ともあれそんなことで、主人も向こうの世界の人となり、今はこうして訪れるのは私と息子となっておる訳です。
この墓所、この辺りはその昔、と言っても万年がつく昔ですが浜辺であったらしく土地は砂地です。
生えている草もそれほど労なく抜き取れるのですが、逆にいえば放っておけば草ぼうぼうになるのは必然でもあり、なかなか訪れ
られない自分達からすると困ったものでもありますね。
そんなことを思いながらも息子と二人、汗流しながら取れるだけの草は取っておきました。
本来はそれなりの箒やらも持参せねばならないのですが今回全く忘れており;せいぜいが持って行った軍手をしてその辺りを
曲りなりにも綺麗にしたという程度でした。
全くもって罰当たりな子孫ではあります;。
最後は二人して静かに手を合わせ、そこを後にしました。
出雲の話、まだ終わりそうにありません;。
本っ当にすみませんです。
往生際が悪いですよねぇ;。
でもせめてあともう一回、お伝えしたいことがありますのでお付き合い願えればと存じます。
本日もこのブログへのお付き合い、真に有難うございました。
感謝申し上げます。