(10of14)(7/17/2020)
娘が以前、大学のオープン・キャンパスで泊まったらしい、という話だけは聞いていた。1人での予約や遠出、ドミトリー形式の部屋が初めてだったからナーバスになっていたのか、それとも一人っ子だからか知らないが、他の宿泊客との物品の共用がまったくできずに、帰ってきてだいぶ消耗していたようだ。
今回、ホテルばかりではつまらないだろうと紹介してくれたが、なぜ自身が満足に泊まれなかった宿を人に勧めるのか。(娘)「紙コップが必要です。行けばわかる。そして、フフ。晩ご飯を買う所も決まってるよ。近所におにぎり屋さんが1軒しかない。味噌汁もついてくる。スーパーもあるから、そこの2階で靴下買いなよ。」苦しめようとしているにちがいない。
だいたい、HPで今は休止中となっているところを、問い合わせたら予約がある日は開けるという回答があったらしく、頼み込んでテキパキとブッキングしていた。この行動力を、他のことに活かせないか。夜中に帰ってきた同室者がスーツケースをバタンと閉じただの、使ったコップを戻したの、帰りの船の浴室にカビがあっただのと、とにかく良い思い出がなかったらしく(娘)「やんわりじゃなくて、げんなりだ」などと言うものだから、こっちは恐れて、17日が来るのが気が重い。
今までゲストハウスや旅館に泊まらなかった訳は、気取ったホテルが好きだからではなく、木造が怖いというヘタレな理由からだった。防犯面や霊ではなく、虫が苦手で、昼間は古民家カフェでも居られるが、夜にそこで眠れるかとなると、どうだかわからない。安全面でいえば木造の家は窓だらけなので、地震の際にどこからでも逃げ出せるから、その辺は便利だ。霊なんか勝手に出ればいい。
虫が怖くて、自分の実家でさえテントを広げるのに、毎週違った古民家で眠れるわけがない。南禅寺の宿坊も、昔の雑魚寝相部屋ではなく、鉄筋の新築ホテル風だった。
夜中に起きだしてロビーをうろうろしたり、部屋を替えても備品の白い浴衣のまま宿の高下駄をつっかけて走りだし、髪を振り乱して自宅マンションまで帰ってしまうかもしれない(何しに来たのか)。多分どこも対策はしていると思う。そうでなければ商売などしていられないだろうから。しかし、大人になってから初めて西日本の害虫を見た者としては、今さらピアノを弾いてみろと言われたぐらい無理な話だ。むしろ、お化けが出ますと言われた方がましだ。
それに、古い家の実情をよく知っているからこそ、家のあちこちに開いた隙間の恐ろしさが身に沁みてわかる。何も知らない高層マンション育ちの方が、新鮮な興味で泊まってみようと思えるだろうから、自分もそうであったら良かったのか。しかし古い家と深く触れ合った縁が、なかったらよかったとは思わない。非常に悩ましい問題だ。
昼間の古民家レストランにはよく行く。舞鶴の松栄館にも九州の三宜楼にも行き、この桟の造りがどうだとか、雨どいの受けが洒落ているね、ワハハ!などと嫌味なコメントを連発し余分にお金を落として帰ってくる。仲間達がいつまでも残りますようにと願いながら。だから、頼むからゲストハウスだけは。テント持ってっていいかな。テントは・・・うわあ実家に置いてきた。
前日に、はかったように実家の(下宿人)「部屋にム○デが出ました」ぎゃああぁぁ。リフォームしたばかりの部屋になぜ?逃げ遅れたのか。それとも入ってきたのか。う~~ん。おのれ。完璧なはずの結界が破られた。かくなるうえは、撒いてくれるわ!お清めの粉を。(きの)「もしもし、管理の○○さん?もう一度殺虫粉を撒いてください」 結! 滅! (下宿)「小さいので捕まえました」えっ!?猛者か?さらに(下宿)「つぶしてゴミ箱に」おうまいガーッシュ。何を言っているんだろうこの人は。夕方(娘)「お知らせメール。明日はやんわりです」
地獄。
急に太宰の人間失格のフレーズが出てきてしばらく落ち込んでいたが、気を取り直して家にあるスプレー缶を出してきて、映画「タクシー・ドライバー」のロバート・デニーロばりの的確さで組み立て、ガムテープで貼りリュックに淡々と詰める。
翌日(きの)「行ってきます!」武器も持ったし、いざ出陣。何しに行くのか、もうわからない。行きのバスの中で気づいたが(きの)「リュックになぜかてんとう虫が乗っている!」これはいけない。今このリュックには、虫にとってのリーサル・ウエポンが入っている。動かさないようにそっと持って、スーパーの近くでバスを降り、手近な堀川の川べりに下りていって茂みに放す。(きの)「長生きするんだぞ~」害虫も可愛ければ、このように落ち着いていられるんだ。お勧めの弁当屋は(貼り紙)「手洗い!絶対!!」折れたブラインドの向こうを覗いても誰もいないし、店内に食べ物があるように見えない。
歩いて宿を探す。HPのエキストラの顔がうさんくさいという理由で却下された近代的なホテル・リブマックスを、横目でうらめしく見ながら通り過ぎる。有名な酒屋を越えて角を曲がると、地理的には二条城の近くなのに、これは住人以外通らないだろうと思われる完全に昔ながらの住宅街の一角に(きの)「あ!あった。」すぐ見つかった。狭い町だ。
のれんをくぐり(きの)「以前泊った娘が予約を。こんな時に無理に押しかけたようで。どうも」出てきた胡散臭い長谷川なんたらいう役者のような(男)「ドミトリーの値段でいいですよ」(きの)「そんなわけには。シングルルームを予約したんだからシングルの値段を払います」(宿)「いいです」(きの)「受け取ってくださいよ」(宿)「いいや」何の押し問答だ。
玄関の帳場のようなところで、宿帳に名前を書いて説明を受ける。検温なし。マスクあり。アメニティーは耳栓のプレゼントがあった。(宿)「飲み物はご自由にどうぞ。タオルはここに置いておきますから。wifiもあります。朝食はパンがつきます。人数分置いておきますから。本来なら、ここに来ている外国人たちとの異文化交流があるんですが、今日はおひとりなので。ええ」
(きの)「あの、晩ご飯を買ってきたら、部屋じゃなくて下のロビーのようなところで食べるのでしょうか」(宿)「さぁ?特に。今日は他の人もいないし、どっちでもいいです。ははは。ロッカーのカギも・・・別にいらないか」あまりにも “一人” を強調しすぎ物騒だと思ったのか(宿)「あと、通いの者がいます」通いの者?なんだそれは。掃除の人?通ってくる宿泊者ってのも変だしな。まぁいい。貸し切りは大好きだ。
1階のロビーみたいな部分は、ネオ和風な感じに改装してあって、入り口のところに受付の小窓がある守衛室のような堅牢な小部屋があり、カギもかかって厳重だ。2階は、80年代の部屋を適当に改装しただけのベッドルームが数個。奥に仕切りのない怪しげな2段ベッドの空間が。
なんか中学生の時の自分や友人の家がそのまま古くなったようで、物悲しい気持ちがした。あの頃新築だと喜んでいたものが、全部古びて安っぽい合板にしか見えなくなっている。時代遅れのブラインドや角をナナメに切った丸い白木の階段の手すりが、日曜夕方の相撲中継の掛け声の記憶と共に重くのしかかってきて、個人的に非常に落ち着かない。今の世代から見れば、昭和家電みたいにレトロの美があるのかもしれないが、まだ愛着を持って眺めることができないでいる。
おそらく掃除はきちんとしているのだろうが、要所要所の詰めが甘く、全体にきたならしい印象を醸し出してしまっている。努力に見合ってないのが非常に残念だ。例えば、布団も干してシーツやまくらカバーも一応オシャレな無地のものを用意し、折り目がついた洗濯したてのものを今日出してきたのだろうに、肝心の枕自体が埃っぽいので古着屋のような匂いがする。布団は、最近は丸洗いできるセットが通販で安く買えるから、全部洗ってしまえばいいのだ。洗面所も風呂も、平面を一生懸命ゴシゴシやって隅の黒ずみに目がいかないらしい。カビキラーひと吹きでだいぶ印象も違うだろうに。ピントのズレた掃除はいけないと、しみじみ思った。
自由に飲んでいい飲み物や、安い料金で朝食まで付けようというサービス精神は見上げたものだが、ベタベタするテーブルがそのすべてをぶち壊しにしている。そういうシンデレラの継母のようなことを気にしない、大らかな人たちが泊まる分には問題ないのかもしれないが、どうにも惜しい。何にしろ、一旦離れて他人の目線で見てみることは大切だ。
部屋に入ってまず四隅を見回し、クーラーをつける。なぜコンバットが家中に置いてあるのか。リュックから殺虫剤の缶を取り出す。(メール)「翻訳の依頼が」今ノズルをはめてるんだ!
嵐山や南禅寺の教訓を経て、夕食は早めに確保した方がいいという結論に達した。4:30pm、近くにあった洋食屋に電話してみる。(きの)「ちょっとおうかがいします。今お店やってますか」(洋食)「う~~ん。今はちょっとやってないけど、後でなら開ける」開店前か。(きの)「持ち帰りはできますか」(洋)「量にもよるかなぁ」(きの)「1人分です。メニューは」(洋)「どうも。いろいろと。」
どうしたのか、しどろもどろで要領を得ない。取材ではないのだから、柔軟に答えてほしい。洋食屋なんだからあるだろうということで、無理やりハンバーグ定食というメニューを引き出し、それにエビフライがいいだろうということで、エビフライを一緒に詰めたものを後で取りに行くと一方的に宣言し、慇懃無礼な標準語でたたみかけるようにして礼を言って、電話を切った。
用事を済ませ5時半になり(きの)「(扉)ギイッ。お電話した者です。おいくらになりますでしょうか」食糧を売って下さいよ。頼むから。汚れたシェフの白衣を着た店主が出てきて、ひぃぃとばかりに何度もレジを打ち間違え、10%の税率を課してくる。
それを大事に宿に持って帰って開けてみると、大きな弁当容器にハンバーグが半身と、その横に巨大なエビフライがナナメに入っていた。ライスは別容器で、どんな量の定食なのか。ハンバーグのソースもタルタルも自家製のようだし、サラダのドレッシングも凝っている。地元の食堂か。こちらの何が苦手なのか知らないが、なかなかの腕前だ。と思ったら、後で聞いたら有名な洋食屋だった。
ロビーのテーブルで食べていると、誰か奥から出てきた。(きの)「こんにちは」赤のTシャツに黒ジャージの(学生)「こんにちは」この者が通いの者か?それにしては中学生みたいだ。入り口のカギ付き守衛室に入ってガサガサ荷物を取り出し(宿)「おう、行って来いよ」というようなことを言って送り出していた。息子?部活に行くような感じで出て行った。その後、夜に1階に下りて行って宿の主と近くの池の場所を確認していると、帰って来て納豆を食べていた。いいなぁ。それにしても、今日は客は1人のはずでは??
そもそもwifiはどれだとか聞きたいことがあって1階に下りていくと、主は一日中その鉄壁の守りの守衛室の中に入ってパソコンの前に座って出てこないが、何をしているのか。客が1人ならすることもないはずだが。たまに外に出ていく音がするが、15分ぐらいすると戻ってくる。律儀な性格なのか、己の担当部署に常駐している。夜は10時までとなっているが、10時までそこにいるつもりなのか。ゲストハウス経営もなかなか大変ではある。夜は護身用の缶を、枕の下に入れて眠る。強くなるんだ。明日はトーストだって食べてやる。負けない。
なぜか目が冴えて全然眠れないので、ネットフリックスで「本能寺ホテル」を見た。映画に出てくる京都を巡る主人公たちは、空飛ぶ車でも持っているのだろうか。四条→鴨川→祇園→清水→今宮神社→嵐山→鴨川→五条坂などを1日で移動。いくら狭いといっても超人的だ。あれ?あのタイムスリップするドアは、この前見た南禅寺の、あの不思議な板戸では?
夜の11時すぎに、2人ぐらいがごそごそと歩き回り、家の中や外の階段を上り下りしている音が聞こえた。泥棒が入ろうとしているのでないかぎり、各所の戸締りを見て回っているようだ。雨が降ってきた。この感じどこかで覚えがある。わかった。門司のビジネスホテルだ。明日は池を見に行こう。少し安心して寝た。
翌朝、起きて誰もいない台所に降りていくと、勝手に食べろとばかりにパンとバターとジャムが置いてあった。透明ビニールに8枚切りが2枚入っている。オシャレな白の箱型ポップアップ型トースターで焼く。きっとイギリス風なのだろう。昨日の夜はあまり見なかったが、コップはDuralex、湯飲みは萩焼で揃えている。こだわりがあるのか。何でもいいという訳ではないらしい。
冷蔵庫には「中身に名前とチェックアウト日を書け。でないと捨てるぞ」という注意が、英語と中国語で書いてあった。使った皿は自分で洗うらしい。
昨日、確かパンは人数分置いておくと言ってなかったか。1人1枚ということなのだろうか?(貼り紙)「パンは1袋が1人分です」ということはやはり2枚なのか。では、あのジャージの者の分はどうした。しかし、7時より前に起きて食べて出て行ったのでない限り、起きてきて(ジャージ)「食われてる(ムンク)!」となっては良くない。
そもそも、薄切りのパンはあまり好きではない。前から厚切りが好きだったが、アメリカで薄切りしか売ってないことに嫌気がさして以来、ますます意固地になり、厚切りの奉信者となってしまった。小さい頃、店で売ってるパンは6枚か8枚切りが普通だった。うちは6枚だったが、喫茶店の4枚が好きだった。幼馴染の家は8枚で、その家の弟と共に薄いパサパサのトーストを食べさせられて、どうしても好きになれない。大人になって好きなものが買えるとばかりに、肉厚のパンを毎日食べて幸せを噛みしめていた。
そこへ来て久しぶりの8枚だ。食べきれないと困るし。やはり1枚だけにしよう。不慣れなトースターで焼き加減がわからず、何度も試しているうちに案の定ラスクのようなものが出来上がってきた。コーヒーにスープ、グレープジュースと飲み物を3杯用意し、ジャムをつけてガリガリいただく。
食べている最中に池が気になり、食事もそこそこに外に飛び出す。昨日、晩飯を買いに行く時にちらっと見えたあの交番は、いつかアーバンホテルから古都の暗闇に這い出て、歩いていた時に見た突き当たりのデルタ地帯ではないのか。そうすると、あの池が近くにあるに違いない。もう一度、いつか明るい昼間に見に来れたらと思っていたが、こんなに早くその機会が巡ってこようとは。
見ると、(きの)「いるいる」健康そうなコイが泳いでいる。なんと美しいあの動き。池は狭いが、水車から流れる水が来ている。どこか庭の奥の池に抜けられる道があるらしい。それなのに、この手前の狭い空間に密集しているのは、単にここが好きだからなのだろう。橋の上にしゃがみ込んで、しばらく蚊に刺されながらうっとり見ていた。この池は、隣にある古そうな油屋の敷地らしく、ホウキを持って掃いているオジさんがいたが、そのうち店に入って行った。
宿に帰ってみると、既に帳場はオープンしていて、食いかけの朝食を残して忽然と消えた謎の客の皿やカップが、ロビーのテーブルにまだ置いてあった。何事もなかったように座り直し、食べ始める。(宿)「池見えました?」(きの)「ええ」くそ。見透かされてる。9時半にチェックアウトするまで、ジャージの者の気配はしなかった。寝ていたのか。一体あいつは何だったのだろう。
サマーキャンプという名の強化合宿を終え、帰ってひと回りも二回りも大きくなった姿を見てもらう。(きの)「パンが。パンがね。」(娘)「ああ、あのトースター」知っているのか。そういえば、さっき買い物に行った時に、カゴに入れていた8枚切りは何だろう。(きの)「このパン何に使うの?」サンドイッチかな。(きの)「まさか朝に焼いて出てくるの!?せっかく帰ってきたのに!」(娘)「そのトーストは、こ~んなトーストでしたか~?ひひひひ」
怪談だったのか。