人はパンだけで生きるにあらず、神の言葉により生きる

イエス・キリストの福音をぜひ知って頂きたい

最近の畑仕事

2011年11月25日 | 畑仕事

 

 結構広い土地を借りている。枯れ草、枯れ木を燃やして綺麗にしている、ついでに焼き芋。

            

 最近は、ひたすら、クワで耕している。小さな耕運機もあるが、枯れ草や蔓が、からまってうまくいかない。毎日少しづつやるしかない。来春、草ボウボウにならぬ様に、今から思案中。

ブロッコリーが良い具合にできた、感激。

 

 


百倍の実を結んだ

2011年11月14日 | 畑仕事

 

 

我が畑で収穫したピーナツ。わずか一粒のピーナツからこれだけたくさん(一粒でひと束)のものができて感動。殻を割ると中からふっくらしたピーナツ。乾燥させて少しづつ食べている。ただし他にも種をまいたが収穫できたのはわずか。イエスのたとえ話を思い出す。実を結ぶ良い地でありたい。

  ルカによる福音書8:5-8 11-15

「種を蒔く人が種蒔きに出て行った。蒔いている間に、ある種は道端に落ち、人に踏みつけられ、空の鳥が食べてしまった。ほかの種は石地に落ち、芽は出たが、水気がないので枯れてしまった。ほかの種は茨の中に落ち、茨も一緒に伸びて、押しかぶさってしまった。また、ほかの種は良い土地に落ち、生え出て、百倍の実を結んだ。」イエスはこのように話して、「聞く耳のある者は聞きなさい」と大声で言われた。・・・・・・・「このたとえの意味はこうである。種は神の言葉である。道端のものとは、御言葉を聞くが、信じて救われることのないように、後から悪魔が来て、その心から御言葉を奪い去る人たちである。石地のものとは、御言葉を聞くと喜んで受け入れるが、根がないので、しばらくは信じても、試練に遭うと身を引いてしまう人たちのことである。そして、茨の中に落ちたのは、御言葉を聞くが、途中で人生の思い煩いや富や快楽に覆いふさがれて、実が熟するまでに至らない人たちのことである。良い土地に落ちたのは、立派な善い心で御言葉を聞き、よく守り、忍耐して実を結ぶ人たちである。


たとえの名人?

2011年09月09日 | 畑仕事

今年の5月末から畑を借りて、色々なものを植えてみた。元来短気なせいか早く育つように苗を買ってきて植えた。種から植えるというような発想はなかった。家内がトウモロコシとピーナツツの種(これは殻付きのピーナッツを割って取り出したものでそのまま食べられる)を用意し、植えるように言った。あまり気が進まなかったが植えたみた。ところがびっくり一週間もすると小さな苗程度になった。今では大きく成長し、感動した。

イエスのたとえ「一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、一粒のままである。だが死ねば、多くの実を結ぶ」ヨハネの福音書12-24 これはイエス自身の十字架の死を言われたものだが、今回の畑仕事をとうしてイエスのたとえの素晴らしさ?言葉使いの妙を感じた。

ちなみに植えられなかった殻の中のピーナッツはそのままである(少しづつ食べている)