笑いがからだの免疫力や抵抗力を高めるとも言われています。笑えない状況にあって、あえて笑いを演じる気持ちを、私たちはいつもそっと携帯していたいと思います。
日野原重明著 死を越えて「生きかた上手」の言葉150より
笑いがからだの免疫力や抵抗力を高めるとも言われています。笑えない状況にあって、あえて笑いを演じる気持ちを、私たちはいつもそっと携帯していたいと思います。
日野原重明著 死を越えて「生きかた上手」の言葉150より
先日、鳥取に行った時、忘れ物をしてしまった。昨日は、その忘れ物を取りに再び鳥取へ。そのついでに孫も連れていってサービス。その忘れ物とは、なんと「入れ歯」。昼食を食べた後、入れ歯をはずし、ケースに入れた後、忘れてしまった。残念ながら、最近忘れ物が多くなったような気がする。
齢をとると、白内障を患ったかのように周囲が曇って見えてきます。世のなかの流行、書物や音楽、ファッションに疎くなり、ものごとを新しい視点で見られなくなります。だから私はみなさんに、自分のなかの曇りを取り去り、新しい光を入れることをお勧めします。
日野原重明著 死を越えて「生きかた上手」の言葉150より
現役を退くということは、ひとり大海に小舟でこぎ出すこと。あなたの人生の本番なのです。
日野原重明著 死を越えて「生きかた上手」の言葉150より
あなたの柔和はわたしを大いなる者とされました。(詩篇一八・三五 英訳)
小さな子供の魅力は、自分自身を全く意識していないところにある。そして、それは神聖な魅力である。それは、朝、芝生に置く露の玉のようであり、また、山の中の湖の表面の静寂さのようである。
おお、私たちはあまりにもごう慢です。主イエスよ、お願いします、私たちを 低地の緑のこけのようにして下さい。高ぶることなく、あなたの御前に平静を保ち、十字架の上で痛ましく傷つけられた 御足を冷やすものとして下さい。
露の玉のようになりなさい。しおれているばらの花を見いだし、その花びらの中に沈下し、自らを滅ぼしながらもその疲れた花をよみがえらせる、そのような露の玉となりなさい。そのように善をなし、あなたの祝福を必要とする人々に祝福を与えることをもって満足する人、あなたがなした行いによってのみ覚えられる人となりなさい。
「私はあなたを中心に置くことをどんなに願っていることでしょう----私が自分自身では意識しないまでにあなたを中心とすることを----自我が一かけらもなくなり、すべてがあなたとなることを」。 オズワルド・チェーンバーズ
L・Bカウマン著む「山頂めざして」より
今日は、赤小学校の終業式。小2と小4の孫が一時頃帰ってきた。家内が外出していたので、インスタントラーメンを作って食べさせる。私に出来るのはインスタントラーメン位なもの。明日から春休み、育爺も忙しくなる。
・・・・あなたはわたしから実を得る。ホセア一四8
私が年をとって 人生がすべて耐え難く思われ 悲しくて、ひとりぼっちだと感じる時 人々が、全然かまってくれないと思う時 主よ、私に安らかな心をもたせて下さい
年月が、かって強かったこの身体をうなだれさせ 苦しみや痛みがやって来る時 私に安らかな心をもたせて下さい
私が年をとって、騒々しさや物音を気にらするようになった時 私に安らかな心をもたせて下さい 少女や少年たちの騒々しい遊びを見ている時も 微笑みがもてるよう助けてください
私が今より若かった時 命と健康と喜びに満ちて 楽しい遊びの中で私がどんなにはしゃき回り 叫んでいたか思い出すのを助けてください
私の心を日々、訓練してください 優しさだけを持つことができますように 年月が経って、年をとっても 私が優しさを保つことができますように
私をどうか、優しい者にしてください 人生に当然あるいらだちを越えて 楽しい永遠の喜びを見ることができるようにしてください そうです。年をとっていく中にあっても、私を優しい者にしてください 私たちの信仰は、共に生きることを容易にさせてくれる。
カウマン夫人著 「日の出に向かって」より
老人になってありがたいことのひとつは、社会規範や上下関係などの束縛がなくなって、他人の思惑などに気兼ねすることなく、自由にものごとを考えられるようになることです。ですから、歳をとった人はもっと勇気をもって、私のように大胆に行動し、この人生を生き切ってやるという気持ちで、最後の人生の仕事に取り組んでください。
日野原重明著 死を越えて「生きかた上手」の言葉150より
マイナンバーカードが必要となった為、前に送られてきていた交付申請書を探し出し、申請方法を確認。パソコンにて申請。必要事項を入力し、デジカメにて顔写真を撮り、それを添付して送信。これで申請完了。後はカードが届くのを待つだけ。パソコンの便利さを再認識。しかし添付した写真がOKかどうかが心配。
「人を恐れるとわなにかかる。」箴言二九・二五
私は、キリスト者であるということが、何か、「弱々しい」ことと見る人々の心情を全く理解することができない。
男性の中には、「男らしい」と呼ばれることに誇りを持ちたがって、宗教を離れ、教会行きを妻や子に任せている者がいる。
しかし、私は、夫が一度も教会に来たことのないある婦人をかつて訪問した日のことを忘れることができない。
その婦人は、夫が一度も教会に来ない唯一の理由は、彼がそうする勇気を持ち合わせていないからだと、と確信するに至ったというのである。
教会へ行ったことが分かったら、友人が何というだろうかということを恐れていたのである。
かなり多くの方々を訪問し、またあらゆる種類の人々とお会いした結果、結論として言えることは、臆病ということが、
おそらく、今日多くの人々がささげきったキリスト者になれないでいる、もっとも一般的な理由であるということである。
ほとんどの者が耐えるのに難しいことは、みんなに笑われたり、人と違っていると言われたりすることである。
この臆病が私たちを支配して、心の底では本当にやりたいと望んでいても、また、正しいことと知りながらも、それをなすことをちゅうちょさせているのである。
聖書は、「人を恐れるとわなにかかる」と警告しているが、まさに、そのものずぱ゛りを言っている!
ジョージ・B・ダンカン著 「日ごとの恵み」より
長寿をまっとうする人がある一方で、不慮の事故や病で足早に人生を終える人もいます。人生の長さに長短があるのは理不尽で不公平に思えることさえあります。けれど、死で終わる一度きりの生が与えられていることにおいて、私たちはみな平等なのです。
日野原重明著 死を越えて「生きかた上手」の言葉150より