主よ、わたしの言葉に耳を傾け
つぶやきを聞き分けてください。詩篇5篇2節
真実辛いときには、祈りが言葉にならないのです。
顔を神に上げることもできません。
そのようなときの「つぶやき」さえも聞き分けてくださる方がいる、それがわたしたちのなぐさめであります。
小島誠志著 「疲れたものに力を・聖句断想4」より
主よ、わたしの言葉に耳を傾け
つぶやきを聞き分けてください。詩篇5篇2節
真実辛いときには、祈りが言葉にならないのです。
顔を神に上げることもできません。
そのようなときの「つぶやき」さえも聞き分けてくださる方がいる、それがわたしたちのなぐさめであります。
小島誠志著 「疲れたものに力を・聖句断想4」より
主よ、今こそあなたはお言葉どおり
この僕を安らかに去らせてくださいます。
わたしはこの目であなたの救いを見たからです。ルカによる福音書2章29、30節
信仰の喜びの究極はなんでしょうか。
多くの物が与えられていることでしょうか。思いどおりにことが運ぶということでしょうか。
そうではありません。人生の総決算として、「安らかに去る」ことができるということであります。
自分の正しさや清さのゆえに、ではありません。
罪人のために与えられた救い主イエス・キリストのゆえに、であります。
小島誠志著 「疲れたものに力を・聖句断想4」より
めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい。フィリピ信徒への手紙2章4節
自分のことで頭がいっぱい、多くの人はそういう思いで生きています。
自分のことは考えてはならない、といわれているのではないのです。
ただ、「他人のことにも注意を払」うのです。
「注意を払」えば、他人は他人でそれぞれの重荷をかかえていることがわかります。
共感が生まれます。他者との共感が祈りの輪をつくり、交わりを深めます。
小島誠志著 「疲れたものに力を・聖句断想4」より
園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのですか。創世記3章1節
「どの木からも」食べるなとは、神はなんと残酷で意地の悪い方ではありませんか、と蛇はささやきます。
事実はまったく違います。「園のすべての木から取って食べなさい。」(2章16節)と言われたのです。
ただ一本の木からだけは食べてはいけない、と。
与えられていないものを拡大して見せ、与えられている多くのものを見えなくさせる、サタンのやり口です。
小島誠志著 「疲れたものに力を・聖句断想4」より
愛には偽りがあってはなりません。ローマ人への手紙12章9節
愛は作りものであってはならないというのです。
なぜなら、わたしたちの受けている愛は真実なものであるからです。
神の独り子の十字架において、さし出されているものであります。
自分がいっさい苦しむことも傷つくこともない行為は愛ではありえないことをわたしたちは知っています。
小島誠志著 「疲れたものに力を・聖句断想4」より
思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。
神があなたがのことをこころにかけてくださるからです。ペテロの手紙1、5章7節
自分のことは自分で守らなければと思うから、疲れ果てるのです。
自分が自分のことを心配するよりももっと深く、神が心配していてくださいます。
人はどんなに心配しても、自分の手で自分をにぎりしめることはできません。
わたしをにぎりしめることのできる方は、神だけです。
小島誠志著 「疲れたものに力を・聖句断想4」より
主は人の一歩一歩を定め
御旨にかなう道を備えてくださる。詩篇37篇23節
見とおしの効く道を歩ませていただけたら、どんなに嬉しいことでしょう。
しかし、神はそんな道を備えてくださいません。
ただ今日一日、目の前の一歩を備えてくださる。
神が開いてくださる一歩一歩を踏みしめて、命に向かうのです。
一気に駆け抜ける、というわけにはいきません。
小島誠志著 「疲れたものに力を・聖句断想4」より
わたしは直き心をもって、わが家のうちを歩みます。詩篇101篇2節
王は家の中に安らぎをもっているというのであります。
彼は外に出て、外で人々をうまく治めようというのではありません。
わが家の中が殺伐としていて、外をうまく治めることはできないのであります。
仕事は家の中から始まっています。
小島誠志著 「愛に根ざして生きる・聖句断想2」より
順境の日には楽しめ。逆境の日には考えよ。伝道の書7章14節
幸福なときには、それが失われることを恐れます。
不幸なときには平穏だった日を思って悔みます。
くよくよ考えて、人は与えられたすべての時を、つまらないものにしてしまっているのです。
深く考えなければならない日もありますが、素直に喜んでいい日もあるのです。
いつも悩んでいてはいけません。「空の鳥を見よ」であります。
小島誠志著 「愛に根ざして生きる・聖句断想2」より
主よ、朝ごとにあなたはわたしの声を聞かれます。詩篇5篇3節
自分の思いや決意から一日を始める、というのではありません。
神に呼びかけることからいっさいを始めるのであります。
ひとりで始めるのではなく、
神とともに始めることが出来る――――
それがわたしたちのさいわいであります。
小島誠志著 「愛に根ざして生きる・聖句断想2」より
世と交渉のある者は、それに深入りしないようにすべきである。
なぜならこの世の有様は過ぎ去るからである。コリント人への第一の手紙7章31節
世と交渉なしに生きることはできません。
しかし抜き差しならない程の深い関りを作ってはならない、と申します。
この世に自分の運命をあずけてしまうような。
この世の有様は過ぎ去りつつあり――――神の時はしだいに来たりつつある。
そういう時間をわたしたちは生きているからであります。
「後のものを忘れ、前のものに向かってからだを伸ばしつつ」ピリピ人への手紙3章13節
小島誠志著 「愛に根ざして生きる・聖句断想2」より
つげ口する者は親しい友を離れさせる。箴言16章28節
つげ口は秘密の中に行われるものであります。
しかし、それは水がものにしみこむように、かならずなんらかの形であらわれてきます。
そして人と人との関りを断絶させてゆきます。
そのようにして人は日常的に、いかなる争いよりも深く、広く、不信の毒を流しつづけるのであります。
小島誠志著 「愛に根ざして生きる・聖句断想2」より
朝には「ああ夕であればよいのに」と言い、
夕には「ああ朝であればよいのに」というであろう。申命記28章67節
神なき生活は「今」を喜べない生活であります。
朝には夕をしたい、夕には朝をなつかしむという具合です。
信仰者は神に出会いつつ、「今」という時を前向きにうけとめてゆくのであります。
小島誠志著 「愛に根ざして生きる・聖句断想2」より
言葉が多ければむなしい事も多い。伝道の書6章11節
言葉には限界があります。
言葉が正しければ理解してもらえる、というのは幻想であります。
逆に、語れば語るほど人間の本来的な孤独があらわになります。
言葉にではなく、祈りこそ、自分自身の存在の支えを求めなければなりません。
小島誠志著 「愛に根ざして生きる・聖句断想2」より