明日のことを誇るな。
一日のうちに何が生まれるか知らないのだから。 箴言27章1節
今日一日だってわたしたちの手の中にはないのです。
予想外のことが起こり、足もとが崩れます。
「明日はこうする」などといってはなりません。
与えられた今日をせいいっぱい生きればいいのです。
明日が与えられたら、感謝して受けとるのです。
人間の善い働きはそういう姿勢から生まれます。
小島誠志著 「疲れたものに力を・聖句断想3」より
明日のことを誇るな。
一日のうちに何が生まれるか知らないのだから。 箴言27章1節
今日一日だってわたしたちの手の中にはないのです。
予想外のことが起こり、足もとが崩れます。
「明日はこうする」などといってはなりません。
与えられた今日をせいいっぱい生きればいいのです。
明日が与えられたら、感謝して受けとるのです。
人間の善い働きはそういう姿勢から生まれます。
小島誠志著 「疲れたものに力を・聖句断想3」より
おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう。 ルカ一八・14
「さらに高く!」は有名なモットーです。どの時代にも使われてきたものです。
これをどのように判断するかに、よく注意して下さい。
「おおよそ、自分を高くする者は低くされる」神の国のルールに従って生きようとするならば、
高くされるためには、まず低くされなければならないことを知るでしよう。
今、天国でもっとも高い所に座しておられる方は、地上でご自身から喜んで、もっとも卑しいところまで下ってくださったお方です。
人間のさげすみ、あざけりを、
あなたのように
謙虚に忍ばれた人があるでしょうか。
低くされ、卑しい、空しい者とされながら、
気高く、輝かしく。
ひとりの百万長者(公共の利益のために多くの事をした)の夕食の席で、祈りの価値について話し合われた。
百万長者は、祈りを信じていませんと言った。欲しいものは何でも手に入ったので、恵みを祈り求めたことはありませんと。
同席したスコットランドのある大学の学長がいった。
「あなたが祈り求めて良かったものがひとつありますよ。」
「何ですか」「謙遜を祈り求められると良かったのではないでしようか。」
「神のもろもろの憐れみを感謝できるような、謙遜な心」を祈り求めるならば、財産の多い少ないに関係なく、私たちはさらに幸福な者となるでしょう。
サンデー・スクール・タイムズ
チャールズ・E・カウマン夫人著 「荒野の泉Ⅱ」より
わたしは知った
人間にとって最も幸福なのは
喜び楽しんで一生を送ることだ、と。 コヘレトの言葉3章12節
実に簡単なことが言われています。そんなことでいいのか、と思います。
しかし、「喜び楽しんで、一生を送る」なんて、望んでできることではありません。
ちょうど波が海辺に打ち寄せるように、不安や恐れが人の足もとを間断なく洗っているからであります。
思いわずらいに捕らえられて、楽しめないのです。
ただ明日のことを神にゆだねる信仰によってのみ、与えられている今という時を楽しむことができるのです。
「明日のことは明日自らが思い悩む」(マタイ福音書6章34節)
小島誠志著 「疲れたものに力を・聖句断想3」より
今年は、雪が降らなくて嬉しい。
タイヤ交換もしなくて良かったと思うくらい降らない。
今日のソフトバレーには16名の参加あり。
久しぶり2コートに分かれて楽しむ。感謝。
わたしを呼ぶがよい。苦難の日、わたしはお前を救おう。そのことによって
お前はわたしの栄光を輝かすであろう。詩篇50篇15節
神の民であるしるし、それは特別な能力持っているということではありません。
ただ単純に、神の名を呼んでいるということであります。
熱心だからそうするのではありません。
弱くてつまずき多い民だから、神を呼ばないでは生きていくことができないだけなのです。
そうやって、日々この民を救い出しながら、神はご自身の栄光をあらわされるのです。
小島誠志著 「疲れたものに力を・聖句断想3」より
今日は 生えていて、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこのように装ってくださる。
まして、あなたがたにはなおさらのことではないか、マタイによる福音書6章30節
明日は炉に投げ込まれる野の花も、今日ただいまは美しく咲いています。
明日は灰になるかもしれないけど、今日は精一杯、花を咲かせています。
「生きる」ということは与えられている今日の命を存分に生きることであります。
明日のことを思い悩んで生かされている今日をしおれてしまってはならないのです。
まして、わたしたちの命は「明日は炉に投げ込まれる」ものではありません。
永遠に向かって、神のみ手にみちびかれている命であります。
小島誠志著 「疲れたものに力を・聖句断想3」より
わたしは自分の罪に捕えられ
何も見えなくなりました。 詩篇40篇13節
外からさえぎるものが入って見えないということもあるでしよう。
しかし、神の真実が見えないのは、だれのせいでもありません。
自分の中にある罪のせい。
小島誠志著 「疲れたものに力を・聖句断想3」より
軽率ななひと言が剣のように刺すこともある。
知恵ある人の舌は癒す。 箴言12章18節
軽率なひと言とは思わず口を突いて出る言葉であります。
そういう言葉が人の心をグサッと刺すのです。
なぜなら反射的に口から出るのは自己防衛的ななまの言葉だからであります。
知恵ある言葉とは考慮された言葉であります。
自分の発する言葉に一拍おくのです。
相手のことを思うのです。残念ながら人間は反射的にいい事はできないのです。
いつでも自分の中に一拍おく心がまえが必要であります。
小島誠志著 「疲れたものに力を・聖句断想3」より
神に従う人は待ち望んで喜びを得る。箴言10章28節
はじめは納得できなくても、神のみこころを信じて待つときに(待つという行為は受け身ではありません、前向きです)
すべてのことは、いつか忽然とわかるときがきます。
霧が晴れて、過去のすべての出来事の一つ一つに、思いもかけない意味が込められていたことがわかります。
「すべてはそれでよかつたんだ」と涙ながらに神を讃えないではいられない、そんな日が必ず来ます。
小島誠志著 「疲れたものに力を・聖句断想3」より
互いに相手からの誉れは受けるのに、唯一の神からの誉れは誉れは求めようとしないあなたたち・・・・。ヨハネによる福音書5章44節
人から誉めてもらおうと躍起になっている、これが人間のつくり出す世界であります。
しかしそのような人から受ける誉れに満足しているかぎり、神からの誉れを受けることはできません。
へりくだって、ただ神からの憐れみを求める者だけ神の誉れは与えられるからであります。
小島誠志著 「疲れたものに力を・聖句断想3」より
人間は栄華のうちに悟りを得ることはない。詩篇49篇21節
成功、栄達、繁栄。自信、満足、おごり。
高い所に立てば何もかも見渡せます。人がみな小さく見えます。
なるほど、世の中こういうものかと思います。爽快です。
しかし、そのとき、彼には何も見えていないのです。
真実は何ひとつ見えていません。
目が眩んでいるからです。
砕かれて、低くされてはじめて見えるもの、それが真実です。目のくもりがとれて。
小島誠志著 「疲れたものに力を・聖句断想3」より
主よ、わたしの力よ、わたしはあなたを慕う。
主はわたしの岩、砦、逃れ場 詩篇18篇2,3節
岩といい、砦といい、逃れ場といいます。
いずれもそれは、人が難を避ける場所であります。
神は、なによりも人がそのもとに逃れるべき方だといわれています。
人生は困難に満ちた旅であります。
そして人間はもろい。強がる必要はありません。
ことあるごとに主のもとに逃れ、主の守りをいただきながら荒野を行くのです。
小島誠志著 「疲れたものに力を・聖句断想3」より
御名を畏れ敬うことができるように
一筋の心をわたしにお与え下さい。詩篇86篇11節
ひとすじの心とは神に向かう心です。
試練の時も悩みの日も神に向かうのでする
誘惑にさらされた時も罪に落ちた日も逃げないで神に向かうのです。
熱い雲のはざまから、光はやがて射し初めます。
苦難のヨブは嘆きましたが、神に向かって嘆きました。
怒りましたが、神に向かって怒りました。
涙は神の前で流しました。気が付くと神の大きな手の中に、彼はいました。
小島誠志著 「疲れたものに力を・聖句断想3」より
かつてあなたは大地の基を据え、御手をもって天を造られました。
それらが滅びることはあるでしょう。
しかし、あなたは永らえられます。詩篇102篇26、27節
古来人間は、悠久の天地の中で人間の生命といとなみのはかなさをうたいつづけてきました。
天を仰ぎ地を眺めて過ぎゆく己が存在を慨嘆しました。
しかし、その天も地も滅びるというのです。それらを創造された神の下では。
神の中にだけ永遠は存在する。それが聖書のメッセージです。
神という人格との出会いの中で人間は永遠を味わいます。永遠を呼吸します。
神を礼拝すること、祈ること、讃美することの中にこそ人間の至高の喜びがあるのです。
小島誠志著 「疲れたものに力を・聖句断想3」より
訴えごとを最初に出す人は正しく見えるが
相手方が登場すれば問いただされるであろう。箴言18章17節
先に言う方が勝ちという考え方があります。機先を制するというわけです。
そうすれば事態は有利に展開する。しかし事実はそんなに甘くはありません。
相手方が現れれば真実は明らかになります。
いたずらに策や計算に走ってはならないのです。
あとには必ず神が登場されるという畏れをもって行動しなければなりません。
小島誠志著 「疲れたものに力を・聖句断想3」より