今日で、仕事を辞めてから、一年経った。
ほとんど一年間、毎日が日曜日状態で、畑仕事をしながら、好きなことをして暮らした。
新しく始めたものでは、ブログ、登山、ソフトバレー、スポンジテニスなど
再開したものでは、囲碁、太極拳などで、ただいま囲碁に夢中。
まだもう少し読書もしたいが、時間がとれない。
仕事をしている時に比べ、一年が短く感じた。
一年間、健康で、好きなことができて感謝。
日の出に向かって カウマン夫人著より
キリストは死を滅ぼし、福音によっていのちの不死とを明らかに示されたのである。
Ⅱテモテ一10
あなたはまた若くなりたいか
私はそうは思わない
思い出して一粒涙をこぼし
私は前に急ぐ
人生の暗い洪水を渡り切って
岸に休んでおりながら
天の家がすぐ近くにあるのに
もう一度飛び込ませようというのか
もしできたら
来た道を引き返したいか
嵐の荒野をさまよって
力弱り、迷いたいのか
暗い夜の夜回りたちは去っていって
朝が赤く光を放つ
私たちの周りに希望の笑みが注がれて
天に向かうのだ
神は永遠に始め続けられる。
古い夜から新しい朝を生み出し、
ゆううつな終わりから美しいはじめに導かれる。
シスター鈴木秀子の愛と癒しの366日より
夫婦喧嘩の効用とは?
人間関係をよくするにはどうしたらよいでしょう。
よく「夫婦喧嘩は犬も食わない」といわれます。
夫婦喧嘩は、お互いが自分をコントロールできずに、見えも体面も忘れて本音をさらけ出すときに起こります。
二人の大人が対等な関係にたって、自分をさらけ出せる稀有の場合でもあります。
犬には無縁かもしれませんが、ここで夫婦喧嘩の効用を学ぶことができます。
もしあなたが「喧嘩せずに」人と対等に本音を分かち合うことができれば、
人間関係は今よりずっとよくなるはずです。
荒野の泉 カウマン夫人著より
あなたは全き平安をもって、こころざしの堅固なものを守られる。
イザヤ二六・3
幸福な生活は外国旅行や楽しい休日を過ごすようなものではなく、
神の平和と愛を心に持っている人にしか見られない一面があります。
長く続いた小さな喜びの輪、霊の世界からの小さなささやきなど、
毎日の歩みにさしこむ太陽の小さな光の上に、
幸福な生活がたてあげられます。エドワード・ウィルソン
荒野の泉 カウマン夫人著より
だれでもかわく者は、わたしのところにきて飲むがよい。ヨハネ七・37
ただ単に泉のそばに行き、キラキラ光る水をながめるだけで、
水を飲まなければ、だれも渇きをとどめることはできません。
そのように、キリストをながめるだけで、
私たちの生活の中にイエスをお迎えし、イエスの霊が心の中に満ちるようにならなければ祝福はありません。
キリストは大いなる砂漠の井戸として与えられています。
水は岩の裂け目からふき出ます。
私たちは裂け目の意味を知っています。
ーーすなわち、イエスは私たちの魂の渇きをとどめる水となるために死なれたのです。
J・R・ミラー
山頂めざして カウマン夫人著より
信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、
走ろうではないか。(ヘブル十二・二)
信仰は、あなた自身の信仰から目を離し、イエスを仰ぎ見る。
ある人々は、イエス・キリストを信ずる信仰ではなしに、自分自身の信仰を信ずる信仰を持とうとしている。
主観的な条件を探求し続けているのである。
彼らは、客観的なキリストを仰ぎ見なければならない。
真の信仰は、その信仰自身に対しては全く注意を払わない。
それはキリストに注意を集中する。なぜなら、信仰は私たちの救い主ではないからである。
信仰は、単に魂のとる態度にすぎないのであって、その態度を通して、イエスが救って下さるのである。
サタンは、他の方法によっては私たちを欺くことができないとき、私たちにキリストを仰ぎ見させる代わりに、
私たち自身の信仰を吟味させる。
最も堅固な心を持っている人は、その心の存在を最も意識していない人である。
また、最も強い信仰は、信仰それ自身に対して全く注意を払っていない信仰である。
あなたは、憂慮して心に注意を集中することによって、心を弱めるであろう。
そのように、絶えず信仰を見いだそうとして努めることほど、すみやかに信仰を弱めるものはないのである。
それはちょうど、子供が種を掘り起こしてその成長を調べるのに似ている。
種に害をもたらすのは好奇心である。人を救うのは、彼の信仰ではなく、キリストを信ずる彼の信仰である。
キリストを仰ぎ見ることが信仰なのである。キリスト以外のものを見つめることはーーたとえ信仰を見つめることであってもーー
魂にわざわいをもたらす。それゆえ、あなたの信仰について、思い悩んではならない。
あなたの信仰を常に精査してはならない。あなたの信仰から全く目を離し、イエスを見つめなさい。
なぜなら信仰そのものは無価値だからである。価値のあるのは、イエスを信ずる信仰だけである。
あなたが救い主イエスに常により頼んでいる状態にあるように注意しなさい。
そうすれば、あなた自身の信仰に注意を払う必要はないのである。
ご両親へ。
子どもたちが
自分たちのお父さんとお母さんから、
どのように互いに愛し合うかを学ぶことは
とても大切なことです。
学校ではなく先生からでもなく、
あなた方から。
あなた方が、子どもたちと
ほほ笑みを交わす喜びを共有することも
とても大切です。
意見の相違はあるでしょう。
どんな家庭にも、
辛い時や苦しい時があります。
そんな時は必ず、ほほえんでゆるすこと。
いつも朗らかで幸せでありますように。
シスター鈴木秀子の愛と癒しの366日より
身内とは、なかなか、やっかいなものです。
身内に対して愛情が深いと同時に、結構わがままなものです。
相手に対して要求することも多く、とても無心になれないものです。
身内とうまくやっていかれる人は、誰とでもよい関係を築けます。
先日、孫らと海遊びに、「波しぐれ三度笠」ある菊港に行った。
カニや貝を少し取った。海岸は綺麗に整備されているが、足を浸けて遊ぶところはなくなっている。
子供の頃、海べりで、貝取りなどしていくらでも遊べた頃がなつかしい。それでも孫はカニ取りに夢中になっていた。
マザー・テレサ 日々のことばより
与えるために
どれだけ“持っているか”
が問題なのではなく、
私たちがどれだけ空っぽであるか
ということが大切なのです。
空っぽなので、
日々、十分にいただくことができるのです。
自分自身を見つめることをやめ、
何も持っていないこと、何者でもないこと、
何もできないことを喜びましょう。
あなたの無があなたを脅かす時はいつでも、
イエス様に、大きなほほえみをささげましょう。
荒野の泉 カウマン夫人著より
悲しみはその手をなが肩におき
静かになれとともに歩むべかりなり
輝かしき友なる喜びは冷たくなり
日に日になれに遠ざかるや
悲哀の友となることを恐るるな
彼女はなれに遣わされし神の使いなり
やがてなれは神の大いなる明日のために感謝せん
今知らざることもやがてなんじこれを知らん
彼女は夜の雑草を着たる神の使いなれば
「われらは見ゆるところによらず信仰によりて」
ともに歩むべきなり
今日は、鳥取県立大山自然歴史館主催の「一枚岩渓谷リバートレッキング」に参加。
コースは、鱒返しの滝入口→滝見台→鱒返しの滝→一枚岩渓谷遡行
→炭窯跡・水車小屋跡(昼食)→復路は杉林を通り、鱒返しの滝入口。
渓谷歩きは、登山道と違って決まった道がなく歩くのに工夫がいるが涼しくて気持ち良かった。
私は、水に浸からないように気を使って歩いているのに、全身浸かりながら川を滑って、はしゃいでいる人にはビックリ。
渓谷歩きと杉林歩きは初めてで新鮮で気分爽快であった。
鱒返しの滝
全身を浸かりながら水の中を滑る人
娘一家が、家を建てることになった。
ローコストで建てる為、手伝っている。
今、している仕事は、外壁として使用する杉板の塗装である。
酸化鉄と竹酢液を混ぜたもの塗っている(腐食防止と外観を良くする為)。
10枚塗るのに3時間位かかる。
300枚位ある。毎日10枚塗って約一ヶ月かかる。猛暑の中、頑張っている。
マザー・テレサ 日々のことばより
最も自然なことは家庭の生活です。
何が家族を一緒にするのでしょう、
何が、一緒に過ごす家族を育てるのでしょう。
それは、お互いに譲り合うこと
忠実であること、そしてお互いに受け入れ合うことです。