神の言は生きていて、力があり、もろ刃のつるぎよりも鋭くて、精神と霊魂と、関節と骨髄とを切り離すまでに刺しとおして、心の思いと志とを見分けることができる。
そして、神のみまえには、あらわでない被造物はひとつもなく、すべてのものは、神の目には裸であり、あらわにされているのである。(ヘブル四・一二―一三)
人間はあくまでも人間であって、それ以上に出ることはできない。最高に優れた人間であっても、実は取るに足りない存在なのである。それを、何か特別な存在であるかのように考え違いをする。相対的な人間同士だけではこの事実は分からない。地球上の混乱と悲劇は、みなこの人間の分をわきまえない考えと行動から起こるものである。自分は賢いと人に思われたいから、無理解な冷たい批判をされると、自負心のゆえに怒りにも誘われ、自分の愚かさと無知をさらけ出してしまう。馬鹿は死ななきゃ治らないと言われる張本人は、実は自分自身なのである。この自負心から解放されて本来の人間に帰る道は、天地の創造者にして人間の罪を贖い、赦す十字架の神の前に、一切の自負心を投げ出すこと、ただこの生ける真の神のふところに回心、悔改めの真心をもって立ち返ることである。
中村彊著 「神は愛なり」より