不思議なことがあった。一昨日の夕方、我が家の前で家内が蛇を発見。
家内から聞いて、そこに行ってみると、道の端にいた。
同じ所に、まだ居たのでびっくり。
しばらく見ていたが動かない。
昨日、何度か見たがやはり動いていない。
誰か道を通った人が見つけて片付けてくれないかと期待したがそのまま。
まるでおもちゃの蛇の様、しかしあまりにもリアル。
車にはねられたような外傷もなく、不思議な死骸である。
まるで、夏バテ、突然死の様。気味が悪い。
今朝、我が家の責任と思い覚悟して片付ける。
スコップですくい近くの草むらへ。
私は木陰からこのことを学びました。
木陰は、木が直接届かない所にまで、
左右に揺れ動いて、その蔭を落としていました。
私自身の影、私の感化力という蔭も、
私の及ばない所、私の存在できない所にまで、届きますように。
ドワイト・M・キッチ
荒野の泉 カウマン夫人著より
八月の暑さの中で、人々は驚く。
すべてのものが渇ききって
静かに横たわっているとき
小さな流れが甘い音楽をかなで
ほこりだられの道を静かに流れることを。
毎朝、立ちどまって考えるものはいない。
こけむすところで、山の水たまりで
あくまでも甘く、透き通って、涼しげに
キラキラ輝く、新しい流れができることを。
いつも静かで、喜ばしい人生は
ひとつのメロディとメッセージを持っている。
移り変わる空とともに、
私が変わらなければならないとき、
どうやってそれを保持していけるかと人は問う。
ああ、人が毎日、毎時間、
楽しくさせてくれることのできる秘密の力を知りたければ、
人生の悩みを歌に変えることのできる
イエスを見いだせばよいのだ。
J・バックハム
荒野の泉 カウマン夫人著より
幸福な生活は外国旅行や楽しい休日を過ごすようなものではなく、
神の平和と愛を心に持っている人にしか見られない一面があります。
長く続いた小さな喜びの輪、霊の世界からの小さなささやきなど、
毎日の歩みにさしこむ太陽の小さな光の上に、
幸福な生活が建てあげられます。
エドワード・ウィルソン
荒野の泉 カウマン夫人著より
天は喜び、地は楽しみ、海とその中に満ちるものとは鳴りどよめき
田畑とその中のすべての物は大いに喜べ。
そのとき、林のもろもろの木も主のみ前に喜び歌うであろう。
詩篇九六・11、12
私は森の中に主の足跡をたどった。
こけとつぼみのただ中に
私が立ちどまったそのところに
私の心を静める神のみわざがあった。
主は天のシンフォニーを聞かせてくれた。
何とすばらしいハーモニー。
木々の間をさらさらと吹きぬけるそよ風
無数の翼のような音
さらさら流れる川
羽をつけた春の小鳥
遊んでいる子供たちの笑い声
すべては、神がそこを通られたことを確信させてくれた。
M・ハミルトン
荒野の泉 カウマン夫人著より
神のみ旨の中にわれはたつ
ここには神のみ旨のほか とどくことなし
すべての事は愛のみ手より来るなれば、はなはだ善し
そはわが生涯を計画せしはわが父にいませば
悲哀の波の中を通らんか
われはこのことの最善なるを知る
われはその理由を知らざれど寄り頼みて祝福せらる
神は愛にして真なれば全き平和の中にわれはいこう
蔭にも ひなたにも 歓喜にも 苦痛にも
主よ われなんじに頼る
わがままなる子は訓練され
地上の損失はしばしば天上の益となる
荒野の泉 カウマン夫人著より
初めて知った恵まれた日。
そこに私をいやす流れがあった。
私はかがんで、水を飲む
かくて私は自由の身となり
私の魂はイエスを賛美する。
そこは岸もなく、底もない。
澄み切った生命の水が
私の魂に喜びを満たすまで
その流れで私は泳ぎ、飲んだ。
外にも内にも水はうねり、
人生のことごとくの波は充満した。
二つとないこの川が私に与えた祝福は
語りつくすことができない。
アビー・ミルズ
荒野の泉 カウマン夫人著より
神の息よ、私のもとに来て、
私の心をきよめて下さい、
神の息よ、私のもとに来て
私を全くあなたのものとして下さい。
私のうちにあるすべての世的なものを
あなたのきよい火で輝かして下さい。
山頂をめざして カウマン夫人著より
今日の夕方は、我が団地のグループホームきらりの夏祭りに参加。
家内が参加しているボランティアグループ(ひまわり会)の合唱(サザエさん)を孫たちと観賞。
ビール、焼きそば、カレーなどを食べる。
ある人は天国へ行けるかも知れない
丈夫な体でなくても
名誉がなくても
学問がなくても
友だちがいなくても・・・・・・。
しかし、キリストなしでは
天国には行けない。
荒野の泉 カウマン夫人著より