わたしのために執り成す方、わたしの友、
神を仰いでわたしの目は涙を流す。
人とその友の間を裁くように、
神が御自分とこの男の間を裁いてくださるように。ヨブ記一六章二〇、二一節
「話せばわかる」という言葉があります。
行き違いや誤解は話し合いの不足から来ていると考えるわけです。
しかしどんなに話し合っても、理解し合えないことはあります。
どうしても解くことのできない対立はあります。
人間関係にはそういうのっぴきならないものが含まれています。
だからつらい。
のっぴきならない関係を裁くことのできる方がいてくださる・・その一事を信じて、ゆだねて信仰者は時を待ちます。切れないのです。
小島誠志著 「朝の道しるべ 聖句断想 366日」より
イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ 人たちも泣いているのを見て、心に憤りを覚え、興奮して、言われた。ヨハネによる福音書一一章三三、三四節
死に直面して、人間は悲しみ嘆くことができるだけです。どんなに深く嘆いたとしても、やがて諦めるほかありません。
しかし、イエスは諦めず、死に対して「憤り」、激しく「興奮」します。
イエスは死と闘われる救い主だからです。死と闘うために、その体をもって、全存在をかけて十字架への道を歩まれました。
「ラザロ、出てきなさい」(四三節)十字架の主に呼び出されて、わたしたちも死の墓から出ていきます。
小島誠志著 「朝の道しるべ 聖句断想 366日」より
その方(主)がお前の行く手に御 使いを遣わして・・・くださる。創世記二四章七節
人は行く手を心配します。行く手に何が待っているかわからないからであります。
しかし、神はその行く手にあらかじめ御使いを送ってくださる、というのであります。しっかり歩けるように。
わたしたちにとって初めての道であるとしても、御使いが整えてくださっている道であります。
小島誠志著 「朝の道しるべ 聖句断想 366日」より
主よ、今こそあなたは、お言葉 どおり この僕を安らかに去らせてくださいます。 わたしはこの目であなたの救いを見 たからです 。ルカによる福音書二章二九、三〇節
信仰の喜びの究極はなんでしょうか。
多くの物が与えられるということでしょうか。
思いどおりにことが運ぶということでしょうか。
そうではありません。人生の総決算として、
「安らかに去る」ことができるということであります。
自分の正しさや清さのゆえに、ではありません。
罪人のために与えられた救い主イエス・キリストゆえに、であります。
小島誠志著 「朝の道しるべ 聖句断想 366日」より
わたしたち強い者は 、強くない者たちの弱さをになうべきであって、自分だけを喜ばせることをしてはならない 。ローマ人への手紙一五章一節(口語訳)
強さとは何なのかを言っているのであります。
真の強さとは、弱い者の「上に立つ」のではなく、弱さを支えるため「下に立つ」ことができるということの中にあるのです。
小島誠志著 「朝の道しるべ 聖句断想 366日」より
キリストも御自分の満足はお求めになりませんでした。「あなたをそしる者のそしりが、わたしにふりかかった」と書いてあるとおりです。ローマ信徒への手紙一五章三節
濡れ衣を着せられる、という言葉があります。
わたしたちはこれを最大の不快とします。濡れ衣を晴らすために躍起になります。
しかし、キリストは濡れ衣を自ら着られたのです。人の負うべき「そしり」をその身に受けられました。
それが救い主の地上の生涯のすべてでありました。
だれの濡れ衣を。わたしたちの、です。
小島誠志著 「朝の道しるべ 聖句断想 366日」より
彼らはイエスを十字架につけた。またイエスと一緒にほかの二人をも、イエスを真ん中にして十字架につけた。ヨハネによる福音書一九章一八節
犯罪人のふたりが十字架につけられます。
彼らは自分の罪の生涯の結末を迎えているのであります。
その彼らの真ん中でイエスは十字架についています。
わたしたちもいつかこの体の死の時を迎えなければなりません。
罪の結末ですから楽ではないと思います。
しかし、その死にもはや呪いはないのです。
わたしたちの隣で、救い主がその呪いのすべてを受けてくださっているからであります。
苦しいけれど、それは命への入り口であります。
小島誠志著 「朝の道しるべ 聖句断想 366日」より
あなたがたはまだ、罪と戦って、血を流すまで抵抗したことがありません。ヘブライ人への手紙一二章四節
競技に勝つために、選手が自分の身を打ちたたくということはあります。
腕に針を刺して睡魔と戦い、受験に備えた人の話も聞いたことがあります。
しかし、自分の罪と戦うために血を流す人間はいない、というのです。
わたしたちの罪のために(わたしたち、ではなく!)、主イエス・キリストが自らの血を流して、まことに凄絶に戦ってくださったのです。
小島誠志著 「朝の道しるべ 聖句断想 366日」より
永遠の命とは、唯一のまことの神であられるあなたと、あなたのお遣わしになったイエス・キリストを知ることです。ヨハネによる福音書一七章三節
ここでは知的に「知る」ということが意味されているわけではありません。
人格的に知る、すなわち、出会う、交わりを持つという意味で用いられているのであります。
永遠の命の祝福はおわりがないというところにあるのではなく、しだいに深く、
いよいよ深く父なる神と子なるキリストに出会っていくということの中にあるのです。
小島誠志著 「朝の道しるべ 聖句断想 366日」より
主がわたしの味方でなかったなら・・・・・。詩篇一二四篇一節
もし「神が味方でなかったら」、流れに棹さすように神に逆らって生きていかなければならないとしたら、人生は耐えがたいものであったでしょう。
力尽きるまでの苦闘の連続ということになります。
しかし、神はわたしたちの味方であります。
神はあの手この手で、わたしたちを(さまたげるのでなく!)祝福の世界へと導こうとしていてくださるのです。
小島誠志著 「朝の道しるべ 聖句断想 366日」より
おおよそ、自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるであろう。 ルカ一四・一一
ある日イエスは宴会に招かれたまいました。そして、すすめられた席におつきになりました。・・・
イエスはこの宴会の席で、人々が上座につきたがっていることに気づかれたのです。
彼らは注目の的になろうという欲望にかられていました。
イエスがこの世界を見渡された時、その目の注がれる所には、どこにでもこのような人を見いだされたのです。
イエスを信じる者たちの間にさえも。
それは、いろいろな異なった形であらわされています。彼らがねらうのは上座だけではありません。
なみいる人々の注意を集め、賞賛をあびるとあれば、下座にもつきたいのです。
他人の注意を引きたいという欲望が、多くの人の行動を支配するものだということを、人がみな認めていることです。
そして又いっぽう、人にみとめてもらえそうにもない、と思った時には、有益でたいせつな行いさえも、遂行する事を私たちに思いとどまらせるのも、
この他人の注目を一身に受けたいという欲望のゆえにほかなりません。
熱心な信仰者の中にも、多くの人々の注目の的になり、賞賛の言葉をあびる快さを夢見て、これに刺激されて、
上座をねらう欲望を宿した結果、少しずつ知らぬ間に信仰がうすれ、冷たくなって来た人も少なくはありません。・・・・
私たちは、へりくだることによって、このあやまちからのがれる事ができるとイエスは教えておられます。
高慢な考えかたをしていた私たちの罪をゆるしていただける場所、キリストの十字架の下まで、私たちは降りて行かねばならないのです。
毎日、主の十字架のもとにぬかずく人は、同僚の間にあって、重要な地位を自分から要求するようなことは、決してしません。
彼にとって、世の中でいちばん不思議なことは、神が自分のような者を見捨てたまわないということであります。
そして、今一つ不思議でたまらないことは、彼の友だちが、彼を尊敬し、彼のもとに意見を求めにくるということであります。
O・ハレスビー著 「みことばの糧・365日の黙想」より
あなたには、やみも暗くはなく、夜も昼のように輝きます。詩篇一三九篇一二節(口語訳)
夢であってくれたらいい、と思う暗い日が人間にはあります。
しかし、人間にとってどんなに暗い日も、神にとっとは暗くはない、というのであります。
神の摂理の中では、深い意味の与えられた日であり、神の光の届いている日なのであります。
小島誠志著 「朝の道しるべ 聖句断想 366日」より