銀杏の紅葉も終わり、明日からは師走、明後日は、暴風雪予報。
いよいよ冬に突入。
イエスはオリーブ山へ行かれた。
朝早く、再び神殿の境内に入られると、
民衆が皆、ご自分のところにやって来たので、座って教え始められた。
そこへ、律法学者たちやファリサイ派の人々が、
姦通の現場で捕らえられた女を連れて来て、
真ん中に立たせ、イエスに言った。
「先生、この女は貫通をしているときに捕まりました。
こういう女は石で殺せと、モーセは律法の中で命じています。
ところで、あなたはどうお考えになりますか。」
イエスはかがみ込み、指で地面に何か書き始められた。
しかし、彼らがしつこく問い続けるので、
イエスは身を起こして言われた。
「あなたたちの中で罪を犯したことがない者が、
まず、この女に石を投げなさい。」
そしてまた、
身をかがめて地面に書き続けられた。
これを聞いた者は、年長者から始まって、
一人また一人と、立ち去ってしまい、
イエスひとりと、真ん中にいた女が残った。
イエスは、身を起こして言われた。
「婦人よ、あの人たちはどこにいるのか。
だれもあなたを罪に定めなかったのか。」
女が、「主よ、だれも」と言うと、
イエスは言われた。
「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。
これからはもう罪を犯してはならない。」
ヨハネによる福音書第8章1~11節
そこで、わたしはあなたがたに最高の道を教えます。
たとえ、人々の異言、天使たちの異言を語ろうとも、
愛がなければ、わたしは騒がしいどら、やかましいシンバル。
たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じて
いようとも、たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、
愛がなければ、無に等しい。
全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、
愛がなければ無に等しい。
全財産を貧しい人々のために使い尽くそうとも、
誇ろうとしてわが身を死に引き渡そうとも、
愛がなければ何の益もない。
愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。
愛は自慢せず、高ぶらない。
礼を失せず、自分の利益を求めず、
いらだたず、恨みを抱かない。
不義を喜ばず、真実を喜ぶ。
すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。
愛は決して滅びない。
預言は廃れ、異言はやみ、知識は廃れよう、
わたしたちの俊樹は一部分、預言も一部分だから。
完全なものが来たときには、部分的なものは廃れよう。
幼子だったとき、わたしは幼子のように話し、
幼子のように思い、幼子のように考えていた。
成人した今、幼子のことを棄てた。
わたしたちは、今は、鏡におぼろに映ったものを見ている。
だがそのときには、顔と顔とを合わせて見ることになる。
わたしは、今は一部しか知らなくとも、そのときには、
はっきり知られるようにはっきり知ることになる。
それゆえ、信仰と、希望と、愛、この三つは、いつまでも残る。
その中で最も大いなるものは、愛である。
コリント信徒への手紙1 第12章31節~第13章13節
キリストに対する畏れをもって、
互いに仕え合いなさい。
妻たちよ、主に仕えるように、
自分の夫に仕えなさい。
キリストが教会の頭であり
自らその体の救い主であるように、
夫は妻の頭だからです。
また、教会がキリストに仕えるように、
妻もすべての面で夫に仕えるべきです。
夫たちよ、キリストが教会を愛し、
教会のために御自分をお与えになったように、
妻を愛しなさい。
キリストがそうなさったのは、言葉を伴う水の洗いによって、
教会を清めて聖なるものとし、
しみやしわやそのたぐいのものは何一つない、
聖なる、栄光に輝く教会を
御自分の前に立たせるためでした。
そのように夫も、
自分の体のように妻を愛さなくてはなりません。
妻を愛する人は、自分自身を愛しているのです。
わが身を憎んだ者は一人もおらず、
かえって、キリストが教会になさったように、
わが身を養い、いたわるのです。
わたしたちは、キリストの体の一部なのです。
「それゆえ、人は父と母を離れてその妻と結ばれ、
二人は一体となる。」この神秘は偉大です。
わたしは、キリストと教会について述べているのです。
いずれにせよ、あなたがたも、
それぞれ、妻を自分のように愛しなさい。妻は夫を敬いなさい。
エフェソ第5章21~33節
いかに幸いのことか
主を畏れ、主の道に歩む人は
あなたの手が労して得たものはすべて
あなたの食べ物となる。
あなたはいかに幸いなことか
いかに恵まれていることか。
妻は家の奥にいて、豊かな房をつけるぶどうの木。
食卓を囲む子らは、オリーブの若木。
見よ、主を恐れる人はこのように祝福される。
詩編128編1~4節
あなたの水の源は祝福されよ。
若いときからの妻に喜びを抱け。
彼女は愛情深い雌鹿、優雅なかもしか。
いつまでもその乳房によって満ち足り
常にその愛に酔うがよい。
わが子よ
どうしてよその女に酔うことがあろう。
異邦の女の胸を抱くことがあろう。
人の歩む道は主の御目の前にある。
その道を主はすべて計らっておられる。
箴言第5章18~21節
主なる神は言われた。
「人が独りでいるのは良くない。
彼に命を助ける者を創ろう。」
主なる神は、野のあらゆる獣、空のあらゆる鳥を
土で形づくり、人のところへ持って来て、
人がそれぞれどう呼ぶか見ておられた。
人が呼ぶと、それはすべて、生き物の名となった。
人はあらゆる家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に
名を付けたが、自分に合う
助ける者は見つけることができなかった。
主なる神はそこで、人を深い眠りに落とされた。
人が眠り込むと、あばら骨の一部を抜き取り、
その跡を肉でふさがれた。
そして、人から抜き取ったあばら骨で女を造り上げられた。
主なる神が彼女を人のところへ連れて来られると、
人は言った。
「ついに、これこそ
わたしの骨の骨
わたしの肉の肉。
これこそ、女(イシャー)と呼ぼう
まさに、男(イシュ)から取られたものだから。」
こういうわけで、男は父母を離れて女と結ばれ、
二人は一体となる。
創世記第2章18~24節
息子と、似ているところは、魚料理好き。
これは、私が魚料理が好きだったので、その影響を受けたものと思う。
家内は、逆に魚嫌で、その食生活は野菜料理中心。
しかし、私が魚好きなため、魚料理をするようになった。
私が魚好き、家内が野菜料理中心。これが結果的には、良かった。
バランスよく食事できたので、現在も健康でいられるものと思う。
人の体は、「食べたものでできている」と言われるほど食生活は大切。
偏食を避け、できるだけ野菜を食べ、夫婦共々健康に暮らしていただきたい。
健康でなかったら仕事もなにもできないのだから。
息子は、小学生の頃、スズメを拾ってきたことがあった。すぐに死んでしまったが、そのとき悲しんで泣いていた。また猫やひよこをかわいがって飼っていたこともあった。
こういう生き物に対する感情は、人に対する優しさにも通じるものがあると思う。優しさを大事にしてもらい。
今も、子犬を飼っているようだが、子犬を可愛がるのも良いが、それ以上に奥さんには優しくして貰いたい。
私には、こういう生き物に対する感情はない。したがって動物嫌いである。
家内も、優しさの有無は別として、同じく動物嫌いである。
誰の背中を見て育ったかわからない。
息子は、社交的である。幼少の頃から挨拶や対話が良くできた。
私は、逆に挨拶などが苦手で人付き合いも良くない。
どうも、息子は家内の背中を見て育ったらしい。
金銭欲について。
会社、仕事の目的の一つは、利益(金銭)を得ること。
しかし、必要以上に、それを追求すると色々と問題が起きる。
金銭欲は悪の根である。
金銭欲には、節度を持って貰いたい。
次の聖書のことばを教訓に。
わたしたちは、何も持たずに世に生まれ、世を去るときは何も持って行くことができないからです。 食べる物と着る物があれば、わたしたちはそれで満足すべきです。 金持ちになろうとする者は、誘惑、罠、無分別で有害なさまざまの欲望に陥ります。その欲望が、人を滅亡と破滅に陥れます。 金銭の欲は、すべての悪の根です。金銭を追い求めるうちに信仰から迷い出て、さまざまのひどい苦しみで突き刺された者もいます。テモテへの手紙 一 6章7~10
昨日のNHKテレビのクローズアップ現代は、「ギャンブル依存症」の話題であった。
以下のような内容。
ギャンブルを続けるためにウソをつき借金を重ねることも厭わない「ギャンブル依存症」。
意志が弱いなど性格の問題ではなく、「やめられない」心の病気、精神疾患だという認識が広まっている。
今年8月、厚生労働省の研究班は疑いのある人は推計で536万人にのぼると発表。
福岡県の精神科医・作家の帚木蓬生(ははきぎ・ほうせい)さんが、患者100人を対象に行った実態調査からは、
投じた金額は平均1293万円にのぼり、また15%の配偶者がうつなどで精神科にかかっていたことがわかった。
家族や周囲の人びとにも深刻な打撃を与える「ギャンブル依存症」の患者たちを取材、心を蝕む病の実相をみつめる。
NHkONLINEより
息子のよいところ。
ギャンブルをやらないところ。
囲碁、将棋(昔は賭け碁、賭け将棋があった)をギャンブルとは言わないが、同じ勝負事と言えば似ているかもしれない。
息子が小学生の頃、将棋の相手をよくしてやったことを思い出すが、それ以後、息子が勝負事をしたということは聞いたことがない。
このまま、ギャンブルとは、無縁であって貰いたい。
私は、ギャンブル好きであった(これも私に似なくて良かったと思う)、パチンコ、競馬、競輪はよくやった。ただし借金をしてまでやったことはない。
また結婚を機会に止めてしまった。今、囲碁に夢中なのは、ギャンブル好きの延長線上にあるかもしれない。
息子の良いところ。
酒を必要としないところ、付き合いでは飲むようだが、普段は飲まないところ。
酒を好むのは、性格、人間の弱さ等々によるものと思う。酒にも良いところがあるが、
飲まないでおられるならそれにこしたことはないと思う。
良いところは継続して貰いたい。酒による失敗、悲劇は大変なもの。
私は、若いころ、好きで良く飲んだ(今は少しづつだが)。
私に似なくて良かったと思っている。
私が教会に行きはじめたのは、息子が生まれる前年から(今から28年前こと)。
家内が分娩室に行っている間、深夜病室で祈っていたことを思い出す。
女の子が生まれれば、長女次女に続き3人目女の子となるが、
「無時に五体満足で生まれれば、女の子でもよろしいです。願わくは男の子を」と祈っていたように記憶している。
生まれてからは、熱心に抱っこして日曜学校、礼拝へと連れていったものである。
6歳頃までは、日曜毎に連れていった。
普通、七五三は神社で行なうが、息子は、神社には行かずに、教会で祈って頂いた。
「人は環境の子である」と言われるが、息子は、その後、教会にも行っていないし、信仰心もない。
親の思い通りにはいかないもの。
しかし、将来、信仰を持ってくれることを祈っている。