あと7年生きていれば、2度目の日本でのオリンピックを見ることができる。
一生の内に、自国で2度のオリンピックにお目にかかれるというのは幸せというべきか。
前回(49年前)のオリンピックの時は、中学生だった。
我が赤碕中学校にも聖火台が設けられ、家の前を聖火が通った。
家族そろってテレビ中継を見たなつかしい想い出がある。
昭和の想い出がまた一つ消える。
大学に入学した年(1970年)に「圭子の夢は夜ひらく」がヒットしていた。
「歌は世につれ世は歌につれ 」と言われるがその当時の世相を反映していたように思う。
大学に行けば学園紛争の真っ最中、世の中は高度経済社会で皆仕事に一生懸命。
なぜか「この暗い歌」が大ヒット。
「十五、十六、十七と私の人生暗かった、過去はどんなに暗くとも夢は夜ひらく」
そのころ私は、空手部に入り空手ばかりしていた右翼系学生であったが。
右翼、左翼の両方の学生に親しまれた歌か?。
昨夜は、仕事でミスをした夢を見た。
会社を辞めて2年になるが、いまだに仕事でミスをした夢を時々見る。
大学を卒業した後、しばらく(5年位)単位所得に苦労した夢を見た。
まだ、しばらく仕事の夢を見るのか。
自動車事故を起こす夢もよく見ていたが、最近はあまり運転しないせいか、見なくなった。
最近よく見る夢、囲碁。夢の中でも碁を打っている。
世間を驚かせる仕事をする人びとが多く必要なのではありません。
かえって、普通の仕事をしながら全てを神に委ねる人が必要なのです。
彼らはたといすべてが終わり、走ることもできず、他人の助けにもならなくなり、
ついに最後の祈りをすら祈れなくなったとしても、まだ残されている未完成のままの部分があることを知り、
主のあわれみなしにはなにもできなかったことや、主の目にかなわないことが多かったことを悟るのです。
ジョージ・マクドナルド
荒野の泉 カウマン夫人著より
人は永遠に生きようか。墓穴を見ずにすむであろうか。
人が見ることは
知恵ある者も死に
無知な者、愚かな者と共に滅び
財宝を他人に遺さねばならないということ。
自分の名を付けた地所を持っていても
その土の底だけが彼らのとこしえの家
代々に、彼らが住まう所。
人間は栄華のうちにとどまることはできない。屠られる獣に等しい。
これが自分の力に頼る者の道
自分の口の言葉に満足する者の行く末。
陰府に置かれた羊の群れ
死が彼らを飼う。朝になれば正しい人がその上を踏んで行き
誇り高かったその姿を陰府がむしばむ。
しかし、神はわたしの魂を贖い
陰府の手から取り上げてくださる。
人に富が増し、その家に名誉が加わるときも
あなたは恐れることはない。
死ぬときは、何ひとつ携えて行くことができず
名誉が彼の後を追って墓に下るわけでもない。
命のある間に、その魂が祝福され
幸福を人がたたえても
彼は父祖の列に帰り
永遠に光を見ることはない。
人間は栄華のうちに悟りを得ることはない。屠られる獣に等しい。
詩篇49:10-21
あなたは、できるだけ手を伸ばしなさい。
そうすれば後は残りの分、
神が身を低くし、手を伸ばして下さいます。
ビィンセント卿
谷間の泉 カウマン夫人著より
私のところに来なさい。
私はあなたを再び元気づけてあげよう。
マタイ一一28(現代訳
・・・・・・・豊かな人生とは、人間自身の責任というよりも、
神の力にどれほど信頼するかという点にかかっている。
日の出に向かって カウマン夫人著より
東の空の下
やじ馬たちの叫びの中に
ひとりの人が死ぬために来た
私のために!
いばらの冠をかぶせられた
イエスのやさしいみかしら
行くところはどこでも血の跡がしたたり
イエスはカルバリーに連れていかれた
私のために!
かつて、このような愛と悲しみが一つになったことがあるだろうか。
茨がこんなすばらしい冠をあんだことがあるだろうか。
イエスをカルバリーに導いたのは愛である。
愛は尊い犠牲をともなわせるものである
荒野の泉 カウマン夫人著より
「わが心はそこにあり」
わが愛する者の住む所は永遠の岡
ゆりの花と水仙とにかこまる
大いなる白きみ座の輝きと
その上に座したもうお方の微笑みに包まる
栄光はその御髪に飾られし富に輝き
不滅のみ顔を更に美わしからしむ
そこにこそわが宝とわが心はあるなり
「わが心はそこにあり」
この世の生活を甘美ならしむる主
共に生き 共に死ぬるにふさわしき主
いともやさしく いとも偉大 いと柔和また勇ましく
つねにゆるさんとて待ち 力づよく救いを施したもう
そのうるわしき清き霊は 天を更にうるわしからしめ
すべてのわが願いはそこにのぼりゆく
そこにこそわが宝とわが心はあるなれ
C・E・カウマンの愛誦
荒野の泉 カウマン夫人著より
神の時に決して間違いはない。
早過ぎることも、遅過ぎることもない。
惑星は変わらない速度で動く、
幾世期が訪れ、また過ぎ去る間も。
星たちは、その時に従って昇る。
几帳面な彗星たちは戻ってくる、
一秒の狂いもなく、
その目に見えない軌道の巡りから。
人は太陽によって一年の長さを決め、
月によって月々を数える。
決して訪れるのに遅過ぎることもなく、
また過ぎ去るに早過ぎることもない。
神の時計に私たちの時計を合わせよう。
彼の方法で、わたしたちの人生を定めよう。
わたしたの一日で早く来るものは何もなく、
遅く来過ぎるものも何もない。
アニー・ジョンソン・フリント
谷間の泉 カウマン夫人著より
神は、私たちが気持ちよくなるために、私たちを慰めるのではなく、
私たちが慰めるものとなるためです。
J・H・ジョウエット
荒野の泉 カウマン夫人著より
信仰の導き手であり、またその完成者であるイエスを仰ぎ見つつ、走ろうではないか。
(ヘブル一二・二)
信仰は、あなた自身の信仰から目を離し、イエスを仰ぎ見る。
荒野の泉 カウマン夫人著より