『かれは自分の羊をみな出してしまう』ヨハ十ノ四
東方の牧羊者はいつも羊の先にゆく。
彼は全く先にゆきたもうた。
羊を襲おうとする者はまず彼と戦うことを計算に入れねばならぬ。
神は事実さきに立ちたもう。
彼は明日の中に居たもう。
人間を恐れさせるものは明日である。
しかし神はすでにそこにおいでになる。
わたしたちの生涯のすべての明日は、
わたしたちに届く前に彼を通過する。
-F・B・M
荒野の泉 カウマン夫人著より
『かれは自分の羊をみな出してしまう』ヨハ十ノ四
東方の牧羊者はいつも羊の先にゆく。
彼は全く先にゆきたもうた。
羊を襲おうとする者はまず彼と戦うことを計算に入れねばならぬ。
神は事実さきに立ちたもう。
彼は明日の中に居たもう。
人間を恐れさせるものは明日である。
しかし神はすでにそこにおいでになる。
わたしたちの生涯のすべての明日は、
わたしたちに届く前に彼を通過する。
-F・B・M
荒野の泉 カウマン夫人著より
苦しみにあったことは、わたしに良い事です。詩篇一一九・71
神は、天国への旅をしている私たちに、徐々に深いところを経験させて下さるように思われます。
最初、試みの水の深さは、くるぶしまでです。
それから膝までになり、やがて腰までになり、泳げるようになるのです。
くるぶしまでの人には、試みを乗り越えて、泳ぐことはとてもできません。
主が私たちの試みを加減して下さるとは、何と恵み深いことでしょう。
試みはどんなに厳しくても、すべて善をもたらすのです。
W・H・ワーズワース
荒野の泉 カウマン夫人著より
見よ、あなたがたは散されて、それぞれ自分の家に帰り、わたしをひとりだけ残す時が来るであろう。
いや、すでにきている。わたしはひとりでいるのではない。父がわたしと一緒におられるのである。(ヨハネ伝一六・三二)
人類のためにつくさんと欲して、世に交際を求むるの必要は一つもない。
われらは単に独りありて人類のためにつくすことができる。
人は何人(なにびと)も人類の一部分である。
ゆえに己れにつくして人類のためにつくすことができる。
ひとり真理を発見することができる。
独り神と接することができる。
独り霊性を磨きて完全の域にむかって進むことが出来る。
われらは人類のよき標本として己れを世に提供することができる。
単独は決して無為の境遇ではない。
一日一生 内村鑑三著より
今日は、赤碕地区公民館で行われている「元気になる体操教室」に初参加。
一時間半、ストレッチと筋トレに汗を流す。先生の丁寧な指導に感激。
心身ともに心地良い時を過ごす。
一日は貴い一生である、これを空費してはならない。
そして有効的にこれを使用するの道は、神の言葉を聴いてこれを始むるにある。
一日の成敗は朝の心持いかんによって定まる。
朝起きてまず第一に神の言葉を読みて神に祈る、
かくなしてはじめし日の戦いは勝利ならざるをえない。
よし敗北のごとく見ゆるも勝利たるやうたがいなし。
そしてかかる生涯を終生継続して、一生は成功をもって終るのである。
一日一生 内村鑑三著より
『見よ、わたしはすべて定まった日の間あなたと共にいる』マタ二十八ノ二十(別訳)
この世の変化と機会に対し、恐れをもって眺めてはならぬ。
むしろこれらの事が起こる度毎に、十分な希望をもってそれを眺めなさい。
あなたを所有なさる神は、あなたをこれらのものから救い出しなさる。
彼はこれまでも守りたもうた。
あなたはただ主の愛の手にすがりつきなさい。
そうすれば神はすべての事を通じて、あなたを安全に導きたもう。
もし、あなたに耐えきれないことがあったら、彼はその腕にあなたを負いたもうのである。
明日何事が起るだろうと、心配しながら前方を眺めてはならぬ。
今日あなたをおもんばかりたもう主は、また明日、また毎日あなたを顧みて下さる。
彼はあなたを苦難から守りたもうか、さもなければこれを忍び通す力を与えたもう。
さらば平安なれ、すべての不安の思念と想像をすてよ。-フランシス・デ・サーレ
荒野の泉 カウマン夫人著より
両親やその他の保護者が、子供たちや自分に託された者らに向って、
自分の当然の義務の事柄、たとえば扶養や病気のときの看護や教育や、
ささやかな楽しみなどを与えたのに対して、感謝するよう求めるならば、
それはかえって彼らの目的を全く失ってしまう。
子供らがそのような要求に気づいたら、心のなかでひどく不快にされよう。
まして、それがたびたび露骨な言葉で口に出されるならば、なおさら気を悪くする。
そのため子供らは恩知らずの性格になりがちであって、保護者たちはあとになってそれを嘆くが、
彼ら自身が子供らをそのような性格に育てあげたことには気づかないのである。
眠られぬ夜のために ヒルティ著より
人生の幸福は、困難に出会うことが少ないとか、全くないとかいうことにあるのではなくて、
むしろあらゆる困難と戦って輝かしい勝利をおさめることにある。
力というものは、弱点にうち勝つ習練から生じるのである。
「あなたがほろぼしたすべての罪の、その霊が、力に変じて、あなたの内に入ってくる」(ロバートソン)
眠られぬ夜のために ヒルティ著より
定年前の59歳頃、仕事中での出来事。
米子から北栄町にトラックで納品に出かけた時の事。
途中で荷崩れを起こし製品(1kgの鉄塊)1000個を交差点に散乱させてしまった事故。
イオン(日吉津)近くの国道431号と9号の交差する大きな交差点を左折した直後、サイドミラーを見たら荷が大きく傾き落下寸前。
左折によって荷崩れを起こしたらしい。すぐに停車せねばと思い、次の交差点に差しかかったので左折して適当なところに止めようとした、
ところが左折した瞬間、荷がまた傾き、交差点のコーナーに落下、散乱・・・・・・。
大惨事と思いきや、ところが落下した所が良かった。その交差点は、閑静な交差点であった。その為、目立たなく警察沙汰にもならなかった。会社から応援に駆けつけて貰い1時間ぐらいかけてかたずけた。
奇跡が起きたようなもの。
もう何秒か前に落下していたら対向車線に散乱大惨事に、一瞬遅く落下していたら信号待ちしていた車の上に落下して人身事故になっていた。
居眠り運転。
40歳位の時、家族と皆生の米子屋内プールに遊びに行き、その帰りでの出来事。
泳いだ後は、疲れがどっと出て眠くなる。
後ろの座席では、家内と子供が寝ている。
大山町の逢坂の信号で止まったまでは、覚えているが、その後の記憶がない。
信号待ちからスタートと同時に眠ってしまったらしい。
眠ったまま100メートルほど走り、左側のガードレール接触、そこで目が覚めた。
左側に曲がっていったのが幸いした。
もし、対向車線に出ていたら、もしガードレールがなかったら、大事故になっていたと思う。
交通事故は、悲惨。
私も運転歴40年になるが、何回か危険な目にあった。
しかし不思議と守られたような気がする。
25歳の時、横浜で免許を取得、車で通勤していた。
今頃の季節だったと思う、冷え込んだ早朝のことであった。
横浜では、雪が降ることはめずらしい、しかしその日は、うっすらと路面に雪があった。
雪道での運転の経験もなく、怖さも知らず、もちろん普通タイヤでいつも通りに運転したからたまらない(知らないのは怖い)。
坂道でアクセルを踏むと大きくスリップ、対向車線に飛び出した、元に戻そうとしたがハンドルは制御不能、あわや対向車ぶつかりそうになったが、
間一髪、運よく左側にスピンして、側壁にぶつかり止まった。左前方破損程度の事故で助かった。
雪道の怖さを思い知った出来事。
これが良い経験になった様で、その後、鳥取に帰り32年位毎年、雪道を車で通勤したが、雪道でのスリップ事故はなかった。
むしろ、喜んで自分の弱さを誇ろう。Ⅱコリント一二9
私たちは、肉体的な弱さにとらわれてはなりません。
それは全く、身体上のことですから。
肉体や魂が弱いのは罪ではありません。
落胆することも罪ではありません。
クリスチャンの生活は感情ではなく、信仰です。
あなたの心が飛べないような時には歩くのです。
もし飛ぶことも歩くこともできないならば、その心を静めて、忍びなさい。
足が不自由になった幼子をやさしい熟練した医者のもとに運ぶように、あなたの心をキリストのもとに連れていきなさい。
そんな時、医者は子供の足が不自由になったからと言って叱るでしょうか。
日の出に向かって カウマン夫人著より
今日は、赤碕小学校で毎年行われている赤碕地区公民館祭へ。
孫の作品を見学、フリーマーケット(みくらが丘市)で掘り出し物を物色購入。
また6年生の孫が出場したタグラグビーの写真を見る。