佐賀を代表するバンド 木原慶吾&スピリッツのギタリスト
安田健一さんが亡くなられました。
安田さんには大変にお世話になりました。
●昭和60年頃だと思います。僕は木原慶吾さんに誘われ
スピリッツにキーボードとして加入しました。
その時、安田さんは僕の教育係。
木原さんからはプロとしての心構えと厳しさを学びました。
そして安田さんからは現場での実践を教えてもらいました。
プロのバンドとして初舞台を迎えるにあたり、木原さんのゲキは
それまで学生バンドで楽しいだけの演奏をしてきた僕にとっては厳しいものでした。
何度言われても上手くできない僕に安田さんはいつもニコニコしながら
「尚志もう一回やってみようよ。」と手を取り夜中まで教えてくれました。
●その頃の忘れられないエピソードがあります。
当時スピリッツはムッシュかまやつさんのバックバンドをしていました。
僕にとってこれも大きなプレッシャー、初ステージに向け演奏曲目を
何とか丸覚えしました。
そして初舞台の1曲目、かまやつさんは何と♭キーを下げて歌い始めたのです。
「これは弾けない!!」余裕のない僕はパニックになりました。
安田さんはそんな僕を見抜いていて「尚志、弾くな!」と合図、
さっと僕の前に覆いかぶさるようにギターを弾き始めました。
バンドサウンド全体を支えていた安田さんだからこそ出来た冷静な判断です。
1時間何とか逃げ切った初舞台でした。
安田さんにお礼を言おうとしたら、
「バレなくてよかったね。」とニッコリ。
安田さんは目立たず縁の下の力持ち、そしていつもやさしい笑顔の人でした。
この頃学んだことは音楽生活だけでなく僕の人生の大きな糧になっています。
スピリッツ在籍は1年そこそこ、足を引っ張ってばかりで役に立たない自分でした。
そして安田さんには何の恩返しもできませんでした。
大切なこと・・・失くしてから気づくことばかりです。
いつか安田さんから教えていただいた「青い影」をもう一度弾きたいと思います。
安田さん お世話になりました。これから空の上で思う存分ギター弾いてくださいね。
本当にありがとうございました。
安田健一さんが亡くなられました。
安田さんには大変にお世話になりました。
●昭和60年頃だと思います。僕は木原慶吾さんに誘われ
スピリッツにキーボードとして加入しました。
その時、安田さんは僕の教育係。
木原さんからはプロとしての心構えと厳しさを学びました。
そして安田さんからは現場での実践を教えてもらいました。
プロのバンドとして初舞台を迎えるにあたり、木原さんのゲキは
それまで学生バンドで楽しいだけの演奏をしてきた僕にとっては厳しいものでした。
何度言われても上手くできない僕に安田さんはいつもニコニコしながら
「尚志もう一回やってみようよ。」と手を取り夜中まで教えてくれました。
●その頃の忘れられないエピソードがあります。
当時スピリッツはムッシュかまやつさんのバックバンドをしていました。
僕にとってこれも大きなプレッシャー、初ステージに向け演奏曲目を
何とか丸覚えしました。
そして初舞台の1曲目、かまやつさんは何と♭キーを下げて歌い始めたのです。
「これは弾けない!!」余裕のない僕はパニックになりました。
安田さんはそんな僕を見抜いていて「尚志、弾くな!」と合図、
さっと僕の前に覆いかぶさるようにギターを弾き始めました。
バンドサウンド全体を支えていた安田さんだからこそ出来た冷静な判断です。
1時間何とか逃げ切った初舞台でした。
安田さんにお礼を言おうとしたら、
「バレなくてよかったね。」とニッコリ。
安田さんは目立たず縁の下の力持ち、そしていつもやさしい笑顔の人でした。
この頃学んだことは音楽生活だけでなく僕の人生の大きな糧になっています。
スピリッツ在籍は1年そこそこ、足を引っ張ってばかりで役に立たない自分でした。
そして安田さんには何の恩返しもできませんでした。
大切なこと・・・失くしてから気づくことばかりです。
いつか安田さんから教えていただいた「青い影」をもう一度弾きたいと思います。
安田さん お世話になりました。これから空の上で思う存分ギター弾いてくださいね。
本当にありがとうございました。
でもあの時の尚志があって今の尚志があるよ!
いい思い出です。
腕が痛いのでギター弾けるか心配していました
自分専用の軽いモニタースピーカーも
私がセッティングしてあげる状態でしたが
笑顔で演奏してました
打ち上げでは今日は調子良く弾けて良かったって
言ってましたヨ
最後までまさに「プロ、スピリッツ」でしたね