泉涌寺雲龍院の拝観後、東大路通を北へ。新熊野(いまくまの)神社へと来ました。
新熊野神社は平安時代末期の永暦元年(1160)、後白河上皇により創建された神社です。
院は天皇の位をわずか3年で退位され、その後上皇として34年にわたって院政を行いました。
その際のお住まいが蓮華王院(三十三間堂)東向かいの法住寺です。
その法住寺の鎮守寺が平清盛が造営寄進した蓮華王院で、鎮守社として紀州熊野から勧請されたのが新熊野神社です。
神仏習合が色濃く表されています。
東大路からよく見える大楠は紀州熊野から運ばれた苗木を院がお手植えされた楠で樹齢は900年と言われています。
先程も"神仏習合"と書きましたが、飛鳥時代に仏教が日本に伝来し、やがて日本古来の神々と習合し、一体として祀られるようになりました。
弘法大師空海が高野山に金剛峰寺を開かれた際にも当地の神々を祀る鎮守社を創建しています。
後白河法皇の神仏習合の考えでは、熊野牟須美大神(那智勝浦退社)は千手千眼観音、速玉之男神(熊野速玉大社)は薬師瑠璃光如来、家津美御子大神(熊野本宮大社)は阿弥陀如来が仏教での本地仏と考えておられたようです。
本殿左右には御神木の梛(なぎ)の木が、御神鳥は三本足の鳥として知られる八咫烏(やたがらす)で本殿の屋根瓦にも見られます。
授与して頂いた御朱印の"新熊野神社"の文字も八咫烏で構成されています。
後白河上皇は鳥羽天皇の第四皇子として生まれ、異母弟の近衛天皇が急死された事で偶然にも皇位に就かれ、保元・平治の乱をを切り抜け"天下の大天狗"と酷評されながらも34年もの長きにわたり院政を敷かれた手腕は凄いものがあります。
また、34回も熊野参詣をされたり、今様を愛好し"梁塵秘抄"を撰したり文化面では貢献された方でした。
平家による南都焼き討ち後には、東大寺の復興に積極性に取り組まれました。
今思えば、不評だった大河ドラマ「平清盛」も良く出来た大河だったと思います。