この冬の寒さをたえがたく感じるのはじぶ
んひとりだろうか。
四十代になったわが次男坊。
日々五時起きし、さっさと勤めに出かけて
しまう。
やはり、年老いたせいかと苦笑してしまう。
日光連山を有するわが県。
想像もつかない、冬景色が広がる。
先日テレビで、中禅寺湖畔の現在の模様を
ご覧になった方もおられるだろう。
一に、龍頭の滝。
大きすぎるつららが見ものだ。
それは広く知られていて、ひとめ見んがた
めに勇敢にも、雪と氷でおおわれたイロハ坂
をのろのろとのぼって来られる。
「温泉は平地にもあるのにどうして。あん
な寒いところへ?」
いぶかる妻をむりに誘う。
「おまえも日頃、一生懸命働いてるんだし」
「気づかってくれてるんだ。それほどいう
なら行くけど、もう歳なんだし、ぜったいス
キーやるなんて、いわないことよ」
想定内のセリフである。
「うん、わかってる。温泉につかるだけさ」
そこまでいい、あとに続くせりふをのみこ
んでしまう。
年老いれば老いるほど活発になり、日々あ
ちらこちらと外出する伴侶である。
内風呂でじゅうぶんにあったまった後、露
天に挑戦。もうもうと上がる湯気がまたたく
間にあたりの景色をつつみこんでしまう。
硫黄のにおいがやや強い。
寒さにちじこまってしまった肌に、温泉が
ここちよい。
皮膚が弱いわたしの手は、いささかふやけ
てしまう。
あまり気持ちいいので、目をつむった。
しばしのあと、樹間を吹きすぎる風の音に
おどろき、目をあけた。
木立の合間にちらちらと、スキーヤーがす
べっている。
細い板の上にのった遠い思い出が、こころ
の底からじわじわとわき出してきてたまらな
くなった。
一泊の予定、暗くなるまでにはまだ、じゅ
うぶんな時間がある。
(この秋いざ鎌倉に備えて、散歩したりして、
身体をほぐしてきた。特に具合のわるいとこ
ろもない。よし、なんとかして……)
風呂からあがり、こたつに入った。
めずらしく、伴侶が茶をいれてくれた。
一杯、二杯とすすり終えてから、
「ちょっと出かけて来る」
と思い切っていった。
「どこへ。おかしな人、外は雪が降ってる
のよ」
「いいんだ。厚着して行くから」
伴侶は顔を赤らめ、
「まさか、あんた、スキーする気になって
るんじゃないでしょうね」
寅年のE子がそう言って、わが瞳を、じろ
りとのぞきこむ。
わが体がこきざみにふるえる。
「そんなことしてみろ。子年のおらのほね
ほねがぽっきりや。心配ご無用でおます」
関西弁をつかい、彼女をけむに巻く。
彼女が風呂につかっている間に、用意して
きた服やズボンを重ね着、そしていざ出発。
戸外は想像以上に寒さが身にしむ。
白いものが遠慮会釈なく、わが顔に降りそ
そぐ。
(ケガなぞしては、白根山を守っていただ
いている神さまに申し訳ない)
そう心にきざみこみ、少しだけですからと
頭を下げ、お山のふもとのゲレンデをつかわ
せてもらうことにした。
杖と板、ふたつずつかつぎ、適当な場所ま
で移動する。
先ずは足もとをかためようと、老いた体を
動かしはじめた。
うれしいことに、なんとか動く。
二枚の細い板を雪の上にならべ、両足がすっ
ぽり入った靴を、スキー板に取り付ける。
その最中に、板が勝手にすべり出す。
こら待て、と追いかけるが、いくどか転ん
でしまう。
靴をはき終え、カチャリと板に固定、いざ
鎌倉である。
滑走は、もちろんボーゲン。
なかなか思うように滑れない。
まっすぐばかり、加速するスピードを制御
できない。
曲がろうとするのだが、気持ちばかりだ。
(もうやめたほうが良かろう)
そう思い、わざと転んだ。
「どこへ行ってたのよ。ずいぶん長い散歩
だったわよ。あら、目の上に?」
E子の眼は、するどかった。
「えっ?」
ちょっとした段差を、なんとかなるだろう
と思い、ざっと飛び越えたのがいけなかった。
着地するなり、小枝にピシャリとひたいを
打ち付けていた。
そんな出来事を、わが頭はすんなり忘れて
しまっていた。
帰り車の中、伴侶はわが顔をじろじろ見て
いたが、わたしは無言。
知らぬ存ぜぬをつらぬきとおして帰宅した
のである。
んひとりだろうか。
四十代になったわが次男坊。
日々五時起きし、さっさと勤めに出かけて
しまう。
やはり、年老いたせいかと苦笑してしまう。
日光連山を有するわが県。
想像もつかない、冬景色が広がる。
先日テレビで、中禅寺湖畔の現在の模様を
ご覧になった方もおられるだろう。
一に、龍頭の滝。
大きすぎるつららが見ものだ。
それは広く知られていて、ひとめ見んがた
めに勇敢にも、雪と氷でおおわれたイロハ坂
をのろのろとのぼって来られる。
「温泉は平地にもあるのにどうして。あん
な寒いところへ?」
いぶかる妻をむりに誘う。
「おまえも日頃、一生懸命働いてるんだし」
「気づかってくれてるんだ。それほどいう
なら行くけど、もう歳なんだし、ぜったいス
キーやるなんて、いわないことよ」
想定内のセリフである。
「うん、わかってる。温泉につかるだけさ」
そこまでいい、あとに続くせりふをのみこ
んでしまう。
年老いれば老いるほど活発になり、日々あ
ちらこちらと外出する伴侶である。
内風呂でじゅうぶんにあったまった後、露
天に挑戦。もうもうと上がる湯気がまたたく
間にあたりの景色をつつみこんでしまう。
硫黄のにおいがやや強い。
寒さにちじこまってしまった肌に、温泉が
ここちよい。
皮膚が弱いわたしの手は、いささかふやけ
てしまう。
あまり気持ちいいので、目をつむった。
しばしのあと、樹間を吹きすぎる風の音に
おどろき、目をあけた。
木立の合間にちらちらと、スキーヤーがす
べっている。
細い板の上にのった遠い思い出が、こころ
の底からじわじわとわき出してきてたまらな
くなった。
一泊の予定、暗くなるまでにはまだ、じゅ
うぶんな時間がある。
(この秋いざ鎌倉に備えて、散歩したりして、
身体をほぐしてきた。特に具合のわるいとこ
ろもない。よし、なんとかして……)
風呂からあがり、こたつに入った。
めずらしく、伴侶が茶をいれてくれた。
一杯、二杯とすすり終えてから、
「ちょっと出かけて来る」
と思い切っていった。
「どこへ。おかしな人、外は雪が降ってる
のよ」
「いいんだ。厚着して行くから」
伴侶は顔を赤らめ、
「まさか、あんた、スキーする気になって
るんじゃないでしょうね」
寅年のE子がそう言って、わが瞳を、じろ
りとのぞきこむ。
わが体がこきざみにふるえる。
「そんなことしてみろ。子年のおらのほね
ほねがぽっきりや。心配ご無用でおます」
関西弁をつかい、彼女をけむに巻く。
彼女が風呂につかっている間に、用意して
きた服やズボンを重ね着、そしていざ出発。
戸外は想像以上に寒さが身にしむ。
白いものが遠慮会釈なく、わが顔に降りそ
そぐ。
(ケガなぞしては、白根山を守っていただ
いている神さまに申し訳ない)
そう心にきざみこみ、少しだけですからと
頭を下げ、お山のふもとのゲレンデをつかわ
せてもらうことにした。
杖と板、ふたつずつかつぎ、適当な場所ま
で移動する。
先ずは足もとをかためようと、老いた体を
動かしはじめた。
うれしいことに、なんとか動く。
二枚の細い板を雪の上にならべ、両足がすっ
ぽり入った靴を、スキー板に取り付ける。
その最中に、板が勝手にすべり出す。
こら待て、と追いかけるが、いくどか転ん
でしまう。
靴をはき終え、カチャリと板に固定、いざ
鎌倉である。
滑走は、もちろんボーゲン。
なかなか思うように滑れない。
まっすぐばかり、加速するスピードを制御
できない。
曲がろうとするのだが、気持ちばかりだ。
(もうやめたほうが良かろう)
そう思い、わざと転んだ。
「どこへ行ってたのよ。ずいぶん長い散歩
だったわよ。あら、目の上に?」
E子の眼は、するどかった。
「えっ?」
ちょっとした段差を、なんとかなるだろう
と思い、ざっと飛び越えたのがいけなかった。
着地するなり、小枝にピシャリとひたいを
打ち付けていた。
そんな出来事を、わが頭はすんなり忘れて
しまっていた。
帰り車の中、伴侶はわが顔をじろじろ見て
いたが、わたしは無言。
知らぬ存ぜぬをつらぬきとおして帰宅した
のである。