あまりに寒いので、寝坊してしまった。
午前八時過ぎ。
いそいで仏壇にお茶をあげ、南向きの廊下に置いてあっ
た椅子にこしかけた。
湯気の立った湯飲み茶わんのふちに、いい加減白いのが
まじった無精ひげだらけの唇をちかづける。
ひと口すすり、「ああ美味じゃ」と小さく、感嘆の声をあ
げた。
この茶葉はある農協の商品。
実はこのところ夏向きの麦茶のパックで、ご先祖さまを
あざむいていた。
しかたがない。むこ様の稼ぎがなかった。
おらはもっぱら野良仕事に明け暮れた。
人さまに頼むと、金がかかる。
かみさんの内職程度の実入りしかなく、うちの経済が悪化
の一途をたどっていた。
それでも、せめてもの正月料理をとかみさんが言う。
ゆうべは遅くまで、おせちの一部なりともそろえようとあ
ちこちの店に出向いた。
ご存じのように、おらは涙もろい。もろくなったというべ
きか。すぐに目がしらが熱くなる。
「おらの働きがないばかりに」
と、泣き声でしゃべった。
「なに言ってるのよ。あんたはそれでいいのよ。今まで千度
働いて来たじゃないの」
気強い言葉に圧倒される。
だんだん男っぽくなるかみさんである。
こちら、髪の毛がうすくなるに比例して気が弱くなる。
それから食パン一切れと、里芋の煮っころがしを、ふたつ
みっつ口にしてから、近所の路地を徘徊することにした。
おだやかな日である。
しかし、木陰に入ると、まだ、ゆうべの冷気がじゅうぶん
に残る。
「おはようございます。寒いね。落ち葉を掃くのもたいへ
んですね」
おらより十も年上の、昔から懇意にしていただいている嫁
さまに話しかけた。
「こたつにばかりぶつかっていても、と思うから、出てきた
よ」
「まあ、寒いし、からだに毒だから、休み休みやってくださ
い」
かの嫁さま、ずいぶんと先輩でもあるし、実によけいな世
話である。
だが、おらの浅はかな教訓をもとにした発言を、いとも簡
単にしてしまう自分に、いい加減あいそをつかす。
ある冬のこと、山の畑の枯草をかたづけたうえで、それら
燃そうとしていた。
突然、プチッという音。
左目がなぜだか見づらくなった。
あわてて、眼科にかかったら、毛細血管が切れていると女
医さまがおっしゃる。
「ほうっておいて大丈夫、自然に吸収されますよ」の言葉
に安堵した。
そぞろあるきである。
すると、めずらしい。小さな子供の声が聞こえてきて、あ
ちこち視線をめぐらす。
班の長老の家。
庭先で、ふたりの幼子が遊んでいる。
大きい子が小さい子のあたまに、砂をふりかけ悦に入って
いる。
「これこれ何してる。あんたはお兄ちゃんだし、もっと優し
くしておやり」
ふたりの様子を気にかけて、家から観に来られたおばさんが
ふたりの間にわって入る。
「お孫さん?」
ふいにおらが声をかけたら、
「ひ孫、ひ孫だよ」
意外な言葉だったのか、けわし気な顔つきをおらに向けら
れた。
「そうなんですか」
ここ数十年、あまり近所隣りを気にかけなかった自分を反
省する瞬間だ。
それじゃ違う遊びを、と、大きい子は遊びを追いもとめた。
気のかけらに木々を打ち込んだ。
「ぼくはいくつ?」おらが語りかけると、「六歳」と元気に
答えた。
「じゃあ、来年は学校だね」と、すぐに返事が返ってくるの
が嬉しい。
「どこの小学校だろ」と問うと、
何やら話してくれるのだが、こちらの耳が哀しいかな、聞
きづらい。
話し半分で、あいづちを打ってばかりだ。
塾業が長かった。
生来の子ども好きだからだが、八十を前にしても、先生気
取りがぬけないようだ。
そっちへ行っては、ねぐらから出てきたばかりのスズメに
声をかけたり、ふだん会えない人と親し気にあいさつしたり。
良寛さんの気持ちを追体験した大みそかの朝ではある。
午前八時過ぎ。
いそいで仏壇にお茶をあげ、南向きの廊下に置いてあっ
た椅子にこしかけた。
湯気の立った湯飲み茶わんのふちに、いい加減白いのが
まじった無精ひげだらけの唇をちかづける。
ひと口すすり、「ああ美味じゃ」と小さく、感嘆の声をあ
げた。
この茶葉はある農協の商品。
実はこのところ夏向きの麦茶のパックで、ご先祖さまを
あざむいていた。
しかたがない。むこ様の稼ぎがなかった。
おらはもっぱら野良仕事に明け暮れた。
人さまに頼むと、金がかかる。
かみさんの内職程度の実入りしかなく、うちの経済が悪化
の一途をたどっていた。
それでも、せめてもの正月料理をとかみさんが言う。
ゆうべは遅くまで、おせちの一部なりともそろえようとあ
ちこちの店に出向いた。
ご存じのように、おらは涙もろい。もろくなったというべ
きか。すぐに目がしらが熱くなる。
「おらの働きがないばかりに」
と、泣き声でしゃべった。
「なに言ってるのよ。あんたはそれでいいのよ。今まで千度
働いて来たじゃないの」
気強い言葉に圧倒される。
だんだん男っぽくなるかみさんである。
こちら、髪の毛がうすくなるに比例して気が弱くなる。
それから食パン一切れと、里芋の煮っころがしを、ふたつ
みっつ口にしてから、近所の路地を徘徊することにした。
おだやかな日である。
しかし、木陰に入ると、まだ、ゆうべの冷気がじゅうぶん
に残る。
「おはようございます。寒いね。落ち葉を掃くのもたいへ
んですね」
おらより十も年上の、昔から懇意にしていただいている嫁
さまに話しかけた。
「こたつにばかりぶつかっていても、と思うから、出てきた
よ」
「まあ、寒いし、からだに毒だから、休み休みやってくださ
い」
かの嫁さま、ずいぶんと先輩でもあるし、実によけいな世
話である。
だが、おらの浅はかな教訓をもとにした発言を、いとも簡
単にしてしまう自分に、いい加減あいそをつかす。
ある冬のこと、山の畑の枯草をかたづけたうえで、それら
燃そうとしていた。
突然、プチッという音。
左目がなぜだか見づらくなった。
あわてて、眼科にかかったら、毛細血管が切れていると女
医さまがおっしゃる。
「ほうっておいて大丈夫、自然に吸収されますよ」の言葉
に安堵した。
そぞろあるきである。
すると、めずらしい。小さな子供の声が聞こえてきて、あ
ちこち視線をめぐらす。
班の長老の家。
庭先で、ふたりの幼子が遊んでいる。
大きい子が小さい子のあたまに、砂をふりかけ悦に入って
いる。
「これこれ何してる。あんたはお兄ちゃんだし、もっと優し
くしておやり」
ふたりの様子を気にかけて、家から観に来られたおばさんが
ふたりの間にわって入る。
「お孫さん?」
ふいにおらが声をかけたら、
「ひ孫、ひ孫だよ」
意外な言葉だったのか、けわし気な顔つきをおらに向けら
れた。
「そうなんですか」
ここ数十年、あまり近所隣りを気にかけなかった自分を反
省する瞬間だ。
それじゃ違う遊びを、と、大きい子は遊びを追いもとめた。
気のかけらに木々を打ち込んだ。
「ぼくはいくつ?」おらが語りかけると、「六歳」と元気に
答えた。
「じゃあ、来年は学校だね」と、すぐに返事が返ってくるの
が嬉しい。
「どこの小学校だろ」と問うと、
何やら話してくれるのだが、こちらの耳が哀しいかな、聞
きづらい。
話し半分で、あいづちを打ってばかりだ。
塾業が長かった。
生来の子ども好きだからだが、八十を前にしても、先生気
取りがぬけないようだ。
そっちへ行っては、ねぐらから出てきたばかりのスズメに
声をかけたり、ふだん会えない人と親し気にあいさつしたり。
良寛さんの気持ちを追体験した大みそかの朝ではある。