油屋種吉の独り言

日記や随筆をのせます。

われに恩師ありき。 

2024-10-21 21:23:12 | 随筆
 長年生かせていただいていると、実にさまざまな
憂き目にあう。

 若い頃より恩師としてあがめた方が、ふいに身ま
かられた。

 (すでに九十才を超えられている。この先何がある
やもしれぬ……。その時は決して驚いたりあわてた
りするまい)

 こころの底では、そう思っていた。

 しかし実際、ぐいとその事実を突きつけられると、そ
んな気持ちがあっけなく崩れ去ってしまった。

 「夫がなくなりました。あなた様には大変お世話にな
りました。葬儀の日程は…」

 呼び出し音四回のあとで、そう、留守電にしたためら
れた恩師の奥様の言葉に愕然とする。

 このところ変な電話が多いせいで、迷惑防止装置を付
けたり、もっぱら留守電にしている。

 丁重に話されてはいるが、ご自分の感情があらわにな
らぬよう、必死に理性で抑え込んでおられるご様子が伝
わってくる。

 恩師の塾を退いてから、もうかれこれ三十年になる。

 何をなすべきか。
 わたしはためらったあげく、みずからの気持ちに正直
に動くことにした。

 わたしはすぐにコールバックし、受話器をとりあげて
くれた男性に、
 「今からすぐに訪ねてよろしいでしょうか」
 と問うた。

 彼の声に覚えがあった。
 「はい、どうぞ」
 長男さんのMに違いなかった。

 おおむね、この辺りでは、自治区がいくつかの班に分
かれていて、一戸一人、不祝儀の際は参加することになっ
ているが、恩師家族の現住所はもう数十年前に、都内に
移されている。
 だから、飛脚さえ、人任せにできなかった。

 恩師の子どもは、男ひとり女ふたり。
 K市に住まわれている、恩師の旧友のO氏の援助がある
ものの、重々しく、葬儀の際の負担が、彼らにのしかかっ
てきた。

 件の三人はわたしのかつての生徒。
 わたしは四十代半ばまで、恩師が経営される学習塾で主
に数学を任されていた。

 「お父さんがたいへんなことになって……」
 わたしが言うと、
 「はい。K先生にはお世話になりました」
 と気丈に答えた。
 「お母さんは……?」
 そう尋ねたが、しばらく誰の返事もない。

 (この際は誰しも平常心ではいられぬもの。知り合いの声
を聞いただけで、こらえていた感情があらわになってしまう) 
 奥様は逡巡されておられる。おそらくそのせいで……。

 「K先生。父が父が、お世話になって……」
 Mくんにつづいた女性の声は若々しいものだっ
た。
 はて、こんな声の持ち主がご家族におられたのやら、とし
ばし考えているうちに、電話の主が自ら名前を告げられた。
 合点がいった。

 「母は……」
 「そうだろね。行ってもいいかい。今から?」
 「お願いします」
 
 自分の身体の都合など考えてはいられない。
 わたしはわっとばかりにマニュアルの軽キャブに向かって
走り出した。
 
 数日後の本葬はさびしいものだった。
 参加者から親せき連中を差し引きすると、残りはたったの
数名。
 わたしがその中に含まれていた。

 最初の東京五輪が済んでまなしに、恩師はK市で学習塾を
始められ、このたびの新型コロナの大流行が始まる前まで、
粘り強く授業をつづけられた。

 生徒数はのべどれくらいだろう。
 わたしは正直、落胆した。

 一介の私塾とはいえ、人を集めていろんな道筋を、必死の
思いで、示して来たわけである。
 
 卒塾生のそれぞれの人生にさまざまなことがあったろう。

 しかし、しかしである。
 恩師の想いが伝わらなかったはずがない。
 そう信じたい。

 かつての生徒は、S新聞のおくやみ記事を見て、さまざまな
感慨にふけられたはずである。

 なにはともあれ……。
 
 麻屋与志夫氏へ
 
 あなたがこれまでに、わたしにかけてくださった言葉を宝物
として、残された人生をあゆんでいくつもりです。
 
 
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わっとか、あれっとか……。

2024-10-18 15:36:44 | 随筆
 「生まれてくれてありがとう」
 両腕でしっかりと体を抱えながら、わたしは縁の
できた幼子に声をかけつづけた。

 どれくらい経ったろう。
 いく度目かの来訪のとき、彼女のまなざしが実に
活き活きとしているのに気づいた。

 わたしの発する音声に意味は見いだせないだろう。
 だが、しっかりと聴き入っている様子。

 彼女の小さな頭の中で、何がどんなふうに動いて
いるか知れない。

 可愛さの増したつぶらな瞳に出会ったとき
 「この子はおしゃべりするのが早いぞ」
 と思った。

 何事によらず、人はわっとかあっとか、びっくりす
るべし。

 以来、わたしはそう思うようになった。

 それがもっとも大切じゃなかろうか。

 そんな感情をともなわないところでは、目の前の対
象を、しっかりと究明しようとする
 意気込みが出てこないのではあるまいか。

 たとえば我が家の農業課題。
 土の日が近づくばかりのわが身体。
 それに鞭打って、粉骨砕身の日々だが……。田畑を
耕したり、雑草除去に励んだり。

 ある日の昼下がり、
 「こんにちは。何やってるんですか」
 ふいに女の人らしい声がした。

 草刈りに励んでいたわたしは顔を上げた。
 一目見ても、その人が誰やらわからない。

 髪の毛を薄ピンクに染めている。
 ぎょっとして、わたしは相手の女性が気にするのも
かまわず、彼女の顔を凝視した。

 (あっ、どこそこのだれだれさん……)

 彼女のまなざしからようやく、彼女の正体が知れた。

 「あっ、どこのアメリカじんさんかと思ったよ」
 
 わたしは、彼女が園児時代から知っている。
 今では五十がらみになった女性に、冗談交じりの返
事を投げかけた。

 今までに一度も、かように彼女とフランクにしゃべ
れたことがなかった。

 他人様やら、彼女の子どもたちやら……。
 まわりに人がいては緊張してしまう。

 それに場所が場所。
 だだっ広い田んぼの中だったから良かった。

 「ああ、あの時、小学生だったあの子。彼女は今、ど
うしてる?」

 「……あっ、あの子ね。二番めの子はしっかり勉強し
てね、栃女に行ってくれたんよ」

 心置きなく、彼女もしゃべれたのだろう。

 わたし自身、いつの日か、彼女と忌憚なくおしゃべり
してみたいものだと願っていた。

 念ずれば通ず。
 そのことを意識した瞬間だった。

 わがグランドドーター(孫)の話にもどる。

 おそるおそる両腕に抱えた女の子は、もはや小学校に
通っている。

 小さな口から言葉らしき音が出始まったころ、彼女の
ふた親はびっくりしたらしい。

 何やらわからないが、とにかく、ぺちゃくちゃとやり
だしたらしい。

 わが気持ちやら、願いやら……。
 こちらのさまざまな熱い想いが、まるでほっこりした
毛布の如く、彼女を包み込んだのだろう。

 ましてや他人さまの子たちとなれば、こちらの必死の
想いなくして、かれらのこころを、ゆり動かすことなど
できようはずがない。
 
 もとえ、  
 「なんとかして田んぼや畑と向き合ってはくれまいか」

 熱い想いで、そうわが息子たちに話しかけたい。

 

 
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土に生きる。

2024-10-12 20:42:56 | 随筆
 こんにちは。ブロ友のみなさま。
 この日は久しぶりに暑かったですね。

 まるで夏の名残のようで、このところの草刈りに
よる身体の疲れか、ベッドに横たわったらいつのま
にか寝入ってしまい、ふと目覚めたら、おやつの時
間になっていました。

 寝ぼけまなこで、野良に出かける用意をしようと
階段を降りていく。

 考えだって定まらない。
 ええっとどこまで野良仕事をやっていたんだろう。

 あまりの稗(ひえ)の多さに、心底、どうしてい
のやらわからない。
 それが本当のところ。

 田んぼを観に行くたびに、イノシシがけもの道を
作っては、ぐるぐると走り回っている様子。

 どうやら、嬉しがって、稗を食しているらしいこ
とが知れる。

 それならそれで、彼らに食べたいだけ食べさせて、
冬場に枯れた稲を燃してしまうのが、ベターと思っ
たことでした。

 のみ、しらみ、馬のしとする枕もと
 どなたかの俳句にあったが、田んぼもこの句に見
えるような事態である。

 山からの獣たちが、ダニや寄生虫を運んでくる。
 こうあったかい日がつづいては、それらが大いに
繁殖してしまう。

 わたしはできるだけ素肌をあらわにしない服装で
野良仕事にはげんではいるがどうしても隙ができる。

 運のわるい場合、いのちにかかわるほどの感染症
におかされてしまうのである。

 ツツガムシとやらである。

 ダニにくわれた場合、むりやり、ひきはがさない
で、すぐさまお医者さまに診ていただくことだ。

 この日も、おやつとお茶をいただいてから、田ん
ぼに出た。

 思う、という字は、こころの上に田んぼとある。

 田んぼを見まわして、これからどのように耕そう
とか、どんな作物を育てようか。

 水稲なら、どんな段取りで育てていったらいいか。
 考えるべきことが山ほどある。

 ふとむかし昔のことを思い出した。
 「おめえよ。なにぼんやり突っ立ってるんよ。は
よ手伝わんとだめだんべ」
 義父の友だちだった、今は亡き福ちゃんの声がし
た気がした。

 段ボールを尻の下に敷き、右手に鎌を持って草刈
りをはじめた。
 稗は束になって生えている。
 もうすぐ実がこぼれるまでに育っている。

 そういえば稗もイネ科の仲間である。
 むかしの稲刈りの要領だと思い、水草やらの雑草
をとりのぞきながら稗のねもとをざくざくと刈った。

 どきどきは人が田んぼわきの小道を通る。
 「よお」
 「こんちは」
 若い頃からのわたしを知る人の声が、力強い応援
となる瞬間である。
  
 
 
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十月七日(月)くもり

2024-10-07 08:28:33 | 日記
 このあたり、きのう、おとといと神社のお祭
りでした。
 秋の風物詩ですね。

 ああ、それとね。
 「十三夜」が、今月十五日です。

 まだまだ昔からの習わしが残っています。

 その日は小学生たちは、教室で授業を受けて
いても、わらでっぽうのイベントが気がかり。

 どれくらいのお小遣いになるかな。

 わくわくどきどきです。

 学校がひけ、家に帰ると、さっそく持つもの
を持って公民館前にあつまります。

 それまでに、お年寄りの先生に、作り方をお
そわりながら、必死に、わらを細工し、地面を
たたくものを作りました。

 次は、面倒をみて下さる、育成会の大人の方
の指示を待って、さあ出発となります。

 お行儀よくぞろぞろと、各家の玄関先までやっ
てきては、
「米よし、麦よし、大豆も小豆もよく当たれ」
 かん高い声で唄います。
 
 「ほら、やっとくれ」
 家の主人の言葉が合図です。

 その言葉を待てないで、スタートを間違って
フライングしてしまう子もいますよ。

 「さあ、お駄賃だよ。ごくろうさま」
 りんごのほっぺの顔が、ぱっと輝く瞬間です。
 
 そうそう、この間の「ひえ」の話ですがね。
 試しに食べてみることにしました。
 
 燃してしまうのは惜しいと思うからです。
 白米にまぜて、食べよう。
 そんな気持ちになりました。

 縄文時代から食べられているそうで、コメよ
り栄養価が高い。

 憎たらしい。
 コメじゃなくて哀しい。

 そんな気持ちが、どこかに引っ込んでしまい
ました。

 さて、これから野良にでかけます。

 久しぶりの晴天になればいいな。
 そう思います。

 みなさまも、お元気で。 
  
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十月三日(木)くもり

2024-10-03 16:43:54 | 日記
 こんにちは、ブロ友のみなさま。
 ご心配をおかけしていて申し訳ありません。
 私はいたって元気にしておりますので、ご安心くださいね。
 朝早く起きて、野良に出かけようって気持ちになるのです
もの……。
 「神さま、ありがとうございます」
 毎朝そう念じています。
 体調がわるければ、ベッドに一日、ふせっているしかあり
ませんよね。

 いま、野良仕事でいちばんの悩みの種は、うちの一番広い
田んぼ一面にひえがはびこっていることです。
 粟とか、ひえ。
 そのひえ(稗)のことです。
 わたしの若い頃の塾生に、稗田(ひえだ)という生徒さんが
いました。

 今は米が主食。
 つい先ごろ、お店の棚に、コメ袋がなくなってしまい、あ
やうく米騒動が起こりそうでしたね。
 どうして今、そんな事態にたちいたったのでしょう。

 昭和の三十年代には、けっこう、大麦や小麦の生産が盛ん
でした。
 小麦粉で作った母さんの手料理。
 それらを目の前にして、子どもが生唾をのみこんだ時代で
した。
 食糧事情がとてもわるかった。
 現在のように、お店に行けば、なんだって手に入る、とい
うようなわけにはいきませんでした。

 家庭でのドーナツ作り。
 先ずは大きめのボールに小麦粉を入れる。
 水を入れながら、適度にねばるよう、こねていきます。
 「さあ、これくらいでいい。みんな手伝うんやで」
 「うん、しゃあない」
 この作業は小学生にはむずかしい。
 男ばかり三人のきょうだいで、長男のわたしのメンツが
かかっていましたが、わたしは不器用この上ない。
 形よく仕上がらなかった。

 「こんなんを揚げたら見栄えがわるうて。せやから、お前
がこのドーナツを食べるんよ」
 わたしは仕方なく、暗い顔をして、うんうんうなずいた
ものでした。
 小麦粉のおやつとしては蒸しパン、それにお好み焼きの
下地になりました。
 その粉のまたの名をメリケン粉って呼んでたのは、なぜ
だかわかりますか。

 関東ならもんじゃ焼きが人気。
 生まれが関西でしたし、庶民はたこ焼きを好んで食べま
した。
 今でも目をつむると、着物姿のおふくろがもみを取った
小麦を粉にひいていただこうと、小一時間くらいかかるお
店まで歩いて行くところが脳裏に浮かんできます。
 おふくろは弟が乗った乳母車を押している。
 二番目に生まれた赤ん坊が、砂利道で乗り心地がわるい
のか、ときどきえーんえーんと泣く。
 
 「大麦、小麦もよくあたれ」
 十三夜。
 今の時代、関東の初秋の風物です。
 わらでっぽうを地面にたたきつけながら、小学生の子ど
もたちが、農家の各家庭の玄関先で唄います。
 
 はてさて余談はこれくらいで、ひえをどんなふうに料理
しましょうか。

 むかし昔は、とりわけ先の大戦中には、コメは兵隊さん
の弁当に使われました。
 ですから、庶民は、コメを口にすることが、容易ではな
かった。
 さつまいもの葉っぱは言うにおよばず、つるまでも料っ
て口にしたそうです。

 「貧乏人は麦を食べなさい」
 わたしの子ども時代だったでしょうか。
 そうおっしゃった総理大臣が昔、おられたように記憶し
ています。
 すると、ひえ(稗)は麦以下。
 まずしい者の食べ物でしょう。

 あっ、だめだめ。
 いまだに余談ばかり……。

 新米がどんどん店先にならぶのにもかかわらず、値段は
あまり変わらない。
 かえって、高くなっていますね。

 この際、麦を食べようかな。
 そう思っても、はるか昔ほど供給されていないのが実情。
 きっとコメより値段がはるに違いありません。

 さてさて、話を脱線はこれくらいで。
 かなり前に、わたしが鳥かごの中の餌箱に入れた記憶が
あります。

 鳥が食べられるのなら、人だって。
 そう思い、いまさっき、ネットで調べてみました。
 イネ科のようで、コメ同様、食料になるようです。
 炊飯器でたけるらしい。
 腸にやさしいとあります。

 よしっ、それじゃと思いましたが、田んぼの草刈り中。
 ひえはあくまで、雑草あつかいです。
 食べるためには、ある程度、乾かしたりしなくてはな
らない。
 大量だから、器械に任さざるをえない。

 うえしろを人さまに頼んで、やっていただいたから、生
えるものは水草くらい。
 そう思っていたから、なんとも、はがゆい。

 夏が来て、どんどん、生育していく。
 種をつけるまでは水稲に似ていたので、なんか憎らしい。

 鎌で刈り取っているとき、これが米ならなとため息をつ
いてしまいました。

 ぽろぽろとひえ粒が地面にこぼれ落ちていく。
 その有様を観るのがつらい。
 来年はもっとひえが生える恐れがあります。

 冬場に燃すしかないな。
 きょうはそう思ったことでした。

 とりとめのない話で失礼しました。
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