油屋種吉の独り言

日記や随筆をのせます。

晩秋に、伊勢をたずねて。  (4)

2020-01-31 19:24:02 | 旅行
 列車が名古屋駅を出発すると間もなく、大
きく半円を描くようにして、列車の先頭部分
を南に向けていく。
 ここは紀伊半島の根っこ。 
 わたしの頭の中に、小学校高学年の頃によ
く見た日本地図の一ページが浮かんだ。
 六十年経った今でもそれは鮮やかで、何も
見ずとも、その地形をあらかた一筆書きする
ことができる。
 「鳥が羽を広げてるみたいやね」
 と、母に告げたことを思い出す。
 志摩半島。
 伊勢はその羽のふところ深くまで行かない。
 羽の先にちょこんととまった小鳥を連想さ
せる。
 昔ながらの借家。
 それが子どもの頃のスイートホームだった。
 傘の付いた電球が天井からぶらさがってい
て、淡いオレンジ色が四畳半の部屋を照らし
ていた。
 箪笥の上に一台のラジオ。
 聞こえたり、聞こえなくなったり。
 真空管ラジオの性能は今ひとつだった。
 「お母ちゃん、ここやで伊勢湾ていうのは。
なんやしらんけど、えびがにの大きいのみた
いなのが、うんととれるんや、と」
 「そうや、そうや。あまさんいうてな。薄
い肌着みたいなのひとつ身につけただけで、
えらい深いとこまでもぐらはんねやで」
 「あまさん?それって、お寺のぼんさんと
ちゃうの?」
 「ちがうねん。酸素入りの道具を身につけ
んで、さざえなんかとらはる女の人や。どれ
見せてみ。あれっ、ここってお父ちゃんとな、
結婚した時に行ったとこやないか」
 母はなつかしそうにそのページを見つめた。
 地図の上の鳥の羽のはじを、人差し指でほ
らとさし示した。
 「しんこんりょこうちゅうんやね。お母ちゃ
ん、そのとき、どんな気持ちやった?うれし
かった」
 「あほ。おませなこという。親ことおちょ
くっとったら、しょうちせえへんで」
 母はそう言い、わたしのひたいを小突いた。
 彼女は三十代後半。
 働き盛りで、あと三、四年もすれば、オリ
ンピックが開かれる頃だった。
 ふいに列車がガクンと揺れた。
 かろやかに走っていた列車が、ふいにスピ
ードを落としたのだ。
 立っている客が、前のめりになる。
 思い出にひたっていたわたしも、現実にひ
き戻された。 
 「これって、ほんとに快速かな。なんか乗
り心地がいまいちや」
 せがれが前方を向いたまま、言った。
 「しっ、あんまり大きい声で言うたらあか
ん。周りの人が気にしやはるやろ」
 思わず関西弁が口から出てしまい、自分で
も驚く。
 だが、せがれはほほ笑んでいる。
 父親のふるさとが関西である。
 自分ではしゃべらずとも、ほとんど違和感
を覚えないらしい。
 わたしは後ろを向いた。 
 友人Wはすわったまま、わたしをじっと見
つめていた。
 親子水入らず。
 できるだけ私たちのじゃまをしたくないの
だろう。
 彼はどうしてもわたしに会いたい、と島根
からはるばる出て来てくれた。
 特急で岡山まで出て、そこで新幹線に乗り
継ぐ。
 長い道のりである。
 彼は大の旅行好きらしい。
 最近、つとに出不精になったわたしにとっ
て、彼は偉大な行動派のひとりに思える。
 停車駅は、津だった。
 名古屋から六つ目の駅。
 それまでに停車したはずの五つの駅の記憶
はどこへ行ってしまったのだろう、ひょっと
して年のせいでどこかへぶっとんでしまった
のか、と、いぶかしんだ。
 煙突が多かった四日市は、空気に刺激臭が
まじっていたから、若干覚えがあった。
 津。
 ここは、何度か、弟と来たことがある。
 残暑きびしいお盆ちゅうだった。
 海辺からの投げ釣りで、キスがたくさん釣
れた。
 せがれが五歳、わたしが三十代前半。
 次々に浮かんでくる、昔の思い出。
 いったい、わがさびつき始めた頭脳のどこ
に、それらがこれまでしまわれていて、数十
年の間のおびただしい記憶の中から、どんな
拍子に、それだけぽかりと浮かんでくるのか。
 その仕組みはどうなってるのだろう。
 なんとも不思議である。
 松坂。
 わたしはその時、この言葉を聞いて、おい
しい牛肉のことしか頭に浮かばなかった。
 あとで調べてみると、この街はたいそうな
歴史がある。不勉強きわまりないことだ、と
しきりに反省することになった。
 海沿いの土地は、とにかく気候が温暖。
 人のこころに豊かさをもたらすに、相違な
かった。
 二時間以上かけ、ようやく列車が伊勢市駅
に到着した。
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晩秋に、伊勢をたずねて。  (3)

2020-01-27 18:09:16 | 旅行
 午前十一時、名古屋に着いた。
 ここで乗り継ぎ、快速みえ号で伊勢へとむ
かう。予定の列車はすでに、ホームわきにと
まっていた。
 プラットホームであちこち歩きまわり、友
人Wを探すが、見あたらない。
 発車時刻までは、まだ余裕がある。
 そのうちやって来るだろうと、わたしは最
寄りのベンチにすわり、心臓の鼓動の高まり
をしずめようとした。
 クウッと腹が鳴る。
 のぞみの車内で食べたのは、サンドイッチ
ひときれ。それだけでは、小食で鍛えられた
胃腸といえど、耐えられなかったようだ。
 せがれがほほ笑みをうかべ、
 「お父さん、おなか空いたよね。ぼく、何
か買ってくる」
 といって、立ち上がった。
 彼は、確かな足取りで、数メートル先にあ
る売店にむかう。
 ようやく念願がかなうという思いが、そう
させるのだろう。
 ジりりりりッ。
 発車のベルに驚かされ、文庫本を読んでい
たわたしは顔をあげた。
 反対側のホームにとまっていた赤っぽい列
車が出発するところだった。
 列車の側面に、長野方面行き、とある。
 長野か、そうかと、短い言葉が、思わずわ
たしの口をついて出る。
 松本には若いころ訪ねたことがあった。大
学の友人ふたりと、上高地まで旅行した。
 季節は、確か、秋。
 松本電鉄の沿線をじっと見ていると、車窓
を流れ去る風景が、何枚もの絵画のように見
えた。熟れたりんごの赤が、刈り取りを終え
た田園風景の中で、強いアクセントの役割を
果たしていた。
 上高地は、別世界。
 河童橋から眺める穂高は神々しいくらい。
 梓川はあくまで清らかだった。
 「お父さん、ほら」
 せがれの声で現実にもどる。
 手渡された焼きそばを夢中でたいらげた。
 ジりりりりりッ、ジリ。
 いよいよ、みえ号の出発。
 せがれとふたり、車中の人となった。
 もはや友人Wのことは考えないことにした。
 もし伊勢でも彼に会えなかったら、との不
安は消えないが、考えてもしょうがないこと
は考えないことにした。
 指定された席にせがれとふたり、腰かけた。
 わたしは、ふうっと長い息を吐いたとたん、
あることを思い起こした。
 近鉄で行くと、友人はわたしに告げていた。
 (なんちゅう忘れんぼや。もう認知症がはじ
まったんか)
わたしはそう、こころの中で言った。 
 飲むとすぐに出る。
 ミルク飲み人形よろしく、尿意をもよおし、
トイレにかけこんだ。
 トイレのドアを開け、出てきたところで、
 「Kさん、だよね」
 と声をかけられた。
 (ええっだれ、誰なんだ?こんなところに
知りあいはいないぞ)
 ふいに見知らぬ男の人に声をかけられ、わ
たしは揺れうごく床の上に、ほとんど倒れこ
んでしまいそうになった。
 その男を、容易に、友人Wと認められない。
 彼は、近鉄電車に乗っているべき人だった
からだ。
 ようやく、わたしは彼を認識できた。
 「Wくん。どうしてまた、JRに?」
 「だって、現役の先生の頃に、この線をし
ょっちゅう使ってたんだもの」
 「なるほど。でも遠いのによく会いに来て
くれたね」
 わたしは彼の左手を、しっかり握った。
 わたしが席に戻るのが遅いと案じていたの
だろう。
 せがれが席から立ちあがり、こちらを見つ
めていた。
 
 
 
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晩秋に、伊勢をたずねて。  (2)

2020-01-23 05:58:59 | 旅行
 車内は、ほぼ満席。
 やっと乗れた安心感で、わたしの胸はいっぱ
いになる。
 慣れないせいで、通勤客で混雑するコースを
たどった。
 それにもかかわらず、予定した列車に乗るこ
とができたのは、ほぼ奇跡といえた。
 プラットホームに足がついたとき、すでに発
車のベルが鳴り響いていた。
 もうだめだ、乗れそうもないと、一瞬背筋を
つめたいものが走った。
 わたしはあきらめかけたが、
 「とうちゃん」
 せがれの声にわれに返った。
 やるだけやるかと、挑戦的な気持ちに切りか
え、わたしは彼とふたり、走りに走った。
 運よく乗り込んだところで、シューッとドア
が閉まった。
 (ああ、なんてまあラッキーな。ご先祖さま
がドアを押しとどめていてくださった)
 わたしは、心底、そう思った。
 農家の感じ方のひとつである。
 今は亡き義父に見習っている自分に気づき、あ
あ、わたしもようやく他家の一員になれたんだ
なと、ふるさとに来てからの長い歳月を偲んだ。
 ふじさんが見たいというせがれのために、窓
側の席を彼にゆずった。
 むかしからの希望が達成したからか、車窓を
流れ去る風景を、彼は身動き一つせず見つめた。
 わきからわたしが見ているのに気づくと、彼
はうれし気な眼差しで、わたしのほうに向きな
おり、こくりと首を振った。
 のぞみのスピードはすさまじい。
 それの両わきに羽を与えたら、今にも空に浮
かび、飛んでしまいそうだ。
 突然、ツカツカと硬い感じの靴音がした。
 通路に眼をやると、こしに警防をたずさえた
黒っぽい制服制帽の警備員が通りすぎていく。
 ふたり連れだ。
 「お父さん、なんだろね、あの人たち?前は
あんな格好の人、いなかったよね。おまわりさ
んみたいだけど」
 景色に夢中になっているせがれの耳にも届い
たのだろう。
 彼も通路のほうを見つめた。 
 (あまり驚かすのはまずい)
 そう思ったわたしは、
 「どうした?ふじさんが見えたか」
 と、話をはぐらかそうと試みた。
 だが。せがれはそれにのらない。
 となりの車両に向かう警備員の背中に、熱い
視線を当てていた。
 わたしの胸に、ふいに痛みが走った。
 朱色の言の葉が、胸中で舞いはじめる。
 昨年、のぞみの車内で事件が起きた。
 三人掛けのシート。
 若い男のわきに、ふたりの女性。
 突然の凶行。
 なたがたちまち血で染まる。
 泣き叫ぶ彼女たち。
 勇敢にも、どこかの会社の一員らしいひとり
の若者が、その男のなたを取り上げようとした。
 しかし、とてもかなわない。
 間もなく、彼はなたに打ちのめされた。
 動きの止まった彼のからだ。
 それでも、なたの動きは止まらない。
 なんどもなんども、彼のからだに食い込んで
しまう。
 あまりに無残な光景。
 枯葉が風に散るように、ちらほらとしか、言
の葉を使えない。
 「お父さんおとうさんったら、いったい、ど
うしたの」
 せがれの声が、わたしの意識を、この世にも
どした。
 「ちょっと前に、事件があってさ」
 「ふうん」
 そう言ったきり、彼はまた、窓の外をみた。
 「かわいそうだったよね。思いだしちゃった
んだよね。父ちゃん」
 せがれは窓外を見つめたまま、小声でいった。
 「ありがとう。命がけで若い女性たちをかばっ
てくれて」
 わたしはこころの中で、そうつぶやいた。
 数分間隔で、東京駅を発着する新幹線。
 どんな人がひそんでいるか、しれない。
 大変にはちがいないが、警備は万全にと、祈
らずにはいられなかった。 

 
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晩秋に、伊勢をたずねて。 (1) 

2020-01-18 20:50:46 | 旅行
 せがれが、おかげ参りをしたい、という。
 「ひとりで行くのは心もとないからね、お
父さん。もしよかったら、いっしょに行って
くれる?ほかの人に頼んでも、だめなんだ」
 と、言いにくそうな表情で頼む。
 ふところ具合が良くないからと、わたしが
渋い面をして答えると、
 「旅費は、全部ぼくが出すから」
 せがれが真面目な顔でいった。
 東京駅発、午前九時半出発のぞみ号。
 北千住で乗り換える。
 以前の駅とは、ずいぶん様子が違った。
 どの階で、どの列車に乗るといいのか。
 某旅行社の案内図をみても、まったく解ら
ない。
 いや書かれてあるのだろうが、わたしがそ
れを理解できないのだろう。
 この駅の基本的なことが解らないのだ。
 しかたがない。
 昔から使っているホームで列車にのった。
 折から、ラッシュの時間帯。
 初めから、車内はほとんど満員すしずめ。
 駅に立ち止まるたびに、通勤客が乗ってく
るので、なかなか列車が出発ができず時間が
かかってしまう。
 「ああ、まったく困ったな」
 思わずぐちをこぼしたら、そばにいた年配
の男性の耳にわたしの言葉がとどいたらしい。
 「どうしました?」
 と、問いかけてきた。
 田舎からたまに出てきたものですからと、
正直にこたえると、
 「それはおこまりですね。でも、この列車
はいつもこうなんですよ」
 と、同情の眼を向けていただいた。
 「九時半の、のぞみなんです」
 こころの辛さを思わず口にしたが、如何と
もしがたい。
 その紳士はうつむき、読んでいた文庫本に
再び視線を向けられた。
 わたしのいらいらは、募るばかり。
 (できるかぎり旅程表どおりに行きたい。
もし予定の列車に乗り遅れたら、名古屋で特
急みえ号にのれない。それに、そこで待ち合
わせている人もいる。ひかりであってもかま
わない、とにかくできるだけ早く名古屋に行
こう)
 そう決心した。
 ようやく、東京駅についた。
 あと五分で、出発時刻になる。
 大阪、福岡方面。
 最初に眼についたホームをかけあがった。
 だが、乗降客が少ない。
 様子がおかしい。
 もっとたくさんの人がいるはずだ。
 そのホームから、のぞみが出発しないこと
が、案内板から察せられる。
 売り場の女店員さんに、
 「のぞみに乗りたいんですが」
 と訊ねると、
 「ここからは乗れません。新幹線ホームは
みっつあるんですよ」
 さも気の毒そうに、彼女はうつむいて答え
てくれた。
 「しょうがない、走るぞ」
 「うん」
 ふたりして、階段をかけあがった。
 出発のベルが鳴り響いている。
 それっとばかりに飛び乗り、扉が閉じる直
前に、乗り込むことに成功した。
 のぞみが徐々に速度を増していく。
 もっとくわしく教えてもらえばよかったと、
旅行社でのツッコミの足りなさをくやんだ。
 「お父さん、良かったね。乗れてね」
 邪念なく、顔をほころばせるせがれに、わ
たしは、
 「ああ、ああ」
 といって、ほほ笑んだ。 
 
 
 
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