油屋種吉の独り言

日記や随筆をのせます。

おみくじ  その2

2021-04-30 15:48:25 | 小説
 もうすぐ、五月。
 ある平日の水曜日。
 朝から陽射しがつよく、空には一片の雲も
ない。
 ようやく葉が生えそろった木々に、風がな
でるように吹く。
 草木は、厳しい冬をたえしのんだあとの喜
びに満ちあふれていた。
 だが、三枝子はなぜか、気分がのらない。
 (いやだ、もうこの季節って、年中でいち
ばん紫外線がきついっていうし、それに、な
んだかいらいらする)
 三枝子は、お気に入りのシャム猫を両手で
抱きながら、窓辺にたたずんでいる。
 丈のある木々の間を通りぬけ、ガラス越し
に差し込んでくる陽光に、ときどき目を細め
ては、庭の中で精いっぱいに咲いている花々
に視線を投げかけた。
 (これしきのことで参拝せずにいたら、神
さまがなんとお思いになるだろう。紫外線は
日傘でほとんど防げるし、気分がむしゃくしゃ
するのは、自分にごほうびを与えることで紛
れてしまう。帰りに、行列のできる、ケーキ
屋さんでイチゴショートを食べてこよう)
 ふいに、抱いていた猫があばれだした。庭
に、何か、見つけたらしい。
 爪で手をひっかかれでもしたらつまらない
から、そっとトムを床に下ろした。
 今日は、恒例のA天満宮参拝の日。
 三枝子と信二郎の悲願がかなうように、週
に一度、曜日を決めて出かけている。
 雨天決行。
 よほどの雨模様でなけりゃ、行きしぶるこ
とがない。
 ふたりの願いとは……?
 三枝子はもうすぐ、満四十歳。
 これまでに、信二郎との間にもうけたのは
愛美ひとり。できればもうひとり欲しい。
 二番目の子は、愛美とあまり年を離したく
ない。そう、勝手に思い、信二郎にせがんで
がんばってみた。
 しかし、なかなか思うようにならない。気
のおもい日がつづいた、
 ある時、用があって実家にもどった際、そ
のことを、三枝子は母に打ち明けた。
 彼女は、ふふと鼻先で笑った。
 「まったく、あんたって子は。子は天から
の授かりもの、人さまの思うようにはならな
いの。わたしもできれば、男の子の顔がみた
いけど、あんたも、もうそれほど若くはない。
体をいたわりながら、覚悟して励むことだね」
 と、さとされた。
 「なるほどね、そんなふうには考えなかっ
たわ。お母さん、ありがとう」
 その後、このことは、神さまの思し召しに
任せることにした。
 しかし、なかなか、この一件は、彼女の脳
裡にこびりついて離れない。
 最寄りの公園に散策に出かけるたび、複数
の子連れ家族が目に付く。
 ならばと、耳学問で仕入れた情報をもとに
あっちの神社、こっちのお寺、それにパワー
スポットと、出かけてみた。
 でも、いずれも効能はうすいようで、毎月
期待に胸ふくらませ、待ってはみたが、ああ、
と天を仰ぐばかりだった。
 「A天満宮さんが、よく願いを聞き届けて
くださるそうだわよ」
 仲良しのママ友から聞いた。
 「あらそう、ちっとも知らなかった。こん
なの、灯台もと暗しっていうのかしら」  
 以来、三枝子は、苦しい時の神だのみ、祈
りで願いがかなうならばと、熱心に足を運ん
でいる。
 神社の鳥居をくぐる時、それまでは、さっ
さと進み入っていたのを、いったん立ちどま
った。
 ていねいに、頭を下げた。
 (ふつつかものが今日もやって参りました)
 そうこころの中でつぶやきながら、石畳の
参道を歩いた。
 長い参道、その両脇に、等間隔で、梅の木
が植えられていて、お参りする人の目を楽し
ませてくれる。
 でも今は、せっかくの花がすでに散り果て
てしまっている。
 とてもさびしい気がするが、代わりにわっ
とふきだしてきた葉がみずみずしい。
 神社の門まで、五十メートルはあるだろう。
 三枝子は、歩を速めた。
 集中が必要なのに、彼女の頭の中で、つぎ
つぎに雑念が浮かぶ。
 彼女はそれらを懸命に追い払おうとする。
 「こちふかば においおこせよ うめのは
な……、ええっとそれから何だっけ。よく知
らないでごめんなさいね、みちざねさま」
 彼女は頭をかいてから、口もとに、かすか
な笑みを浮かべた。
  
 
   
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おみくじ  その1

2021-04-25 00:17:10 | 小説
 愛美は、今となってみれば、ほとんど不満
のたねがない。
 まずは、念願の県立高校に合格した。それ
は中学一年生以来、ずっとのぞんでいたこと
である。
 愛美のこころから、うれしさとともに、鼻
歌があふれだすほどだ。
 三枝子にしてみれば、よくぞ、まあ、あん
な学校嫌いの子がと、いいたくなる。
 愛美は中学に進んでから、満足に学校に行っ
たためしがなかった。
 真偽のほどは確かじゃないが、彼女はおな
かが痛いと言っては、よく学校を休んだ。
 また、こんなことも。愛美がすんなり玄関
を出たから、三枝子がああ良かったと、ほっ
として、茶の間でくつろごうとすると、一階
の南向きの廊下の向こう、雨戸の収納袋あた
りで、がたがた音がする。
 さては、ひょっとしたらまだ、と思い、三
枝子がどきどきしながら、お勝手のドアを開
け外に出た。
 彼女は家の周りをゆっくり、ぐるりと歩い
てから、玄関先をそっとかいま見た。
 ああ、なんてことだろう。愛美が、戸袋に
背中をもたせかけ、たたずんでいるではない
か。
 三枝子ががっかりしてしまい、ふうっとた
め息をついた。
 愛美が下を向いている。長い毛がだらりと
垂れているので、顔色がよく見えない。
 しかし、愛美が泣いていることを、三枝子
はすぐにわかった。
 少女のころからの癖で、盛んに、左手で眼
のふちや髪の毛をいじっていたからだ。
 とにかく、愛美ともども、三枝子も、おな
かの痛くなる日々を送った。
 愛美は、あることが原因で、小学生の低学
年の時分から、クラスのほとんどの女子や男
子からマークされていた。
 「やあい、パンダさんが来たわよ」
 その言葉が、やっとの思いで教室にたどり
つく愛美の心に、大きなおもしとなった。
 中学にあがるころには、両親の必死の思い
のかいあって、長い間、愛美を苦しめつづけ
た、右目のふちの小さな黒い丸形が、ずいぶ
んと小さくなっていた。
 むろん、形成外科の先生のオペによるとこ
ろが大きかった。彼は、愛美の両親の気持ち
を、素直に聞き入れてくれ、力を尽くしてく
れたのだった。
 「まなみ、うずうずするんでしょ、まった
く季節がわるいんだから」
 「まあた、お母さんったら、それは、ぜっ
たい言わない約束だったんじゃなくって。今
度、くどくどと同じことを言ったら、ほらこ
うしてあげる」
 じょうろから、いきなり大量の水が飛び出
してきて、三枝子の衣服を濡らした。
 「やったわねまなみ。許さないわよ。こら」
 きゃあきゃあ、わあわあと、山田家の庭が
一段と、騒がしくなった。
 二階の書斎にいた信一郎は、うるさくてしょ
うがなかったが、顔は笑っている。決して窓
を開け、文句を言ったりしなかった。
 「まあちょっと休まないこと、まなみ。お
いしいココアでもいれてあげるわ」
 「うん」
 愛美はベランダにすわった。
 コンクリートの冷たさが伝わってきて、な
んだかぞくぞくする。でも、陽ざしがあたた
かく、心地よい。
 どれくらい経っただろう。
 三枝子が、トレイにカップをふたつのせて
もどった。
 「さあ、お飲みなさい」 
 「ありがとう」
 ふたりして、並んですわった。
 「あれれ、うちのわんちゃん、どうしたの
かしら。さっきまでいたのに。まなみは知ら
ないわよね?」
 「そういえば、さっき見たような気がする。
庭のすみっこで、そうたったら、何やら小さ
な棒みたいなものをくわえて……。あっ、ひょ
っとしてあの棒が、とかげさんの……」
 愛美はふいに立ち上がったが、すぐにまた
腰を下ろした。
 「わたし、おっかないから、行かない」
 「だいじょうぶよ。あの子、食べやしない
わ。なめてるだけでしょうから。ともかくね。
さっさとはずれるようになってるのよ、とか
げさんのしっぽはね」
 愛美は、白い犬が描かれた大きめのカップ
を両手で持ったまま、一口も飲まずにいる。
 「とってもいい香りだわ」
 三枝子は、熱いコーヒーにふうふう息をふ
きつけると、一口すすった。
 「とにかく、良かった。まなみが高校に受
かってくれて」
 と言って、微笑んだ。
 
 
   
 
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おみくじ  プロローグ

2021-04-19 20:08:23 | 小説
 「きゃあああ」
 ふいに山田家の庭先で、若い女の悲鳴があ
がった。
 ベランダで、洗濯物を干していた三枝子が
何事が起きたかと思い、視線を走らせる。
 声の主は、三枝子の娘、愛美だった。
 この春、高校生になったばかりのまなみが
じょうろを持ったまま、三枝子のもとにかけ
よってくる。
 「おか、おかあさん、あのね……」
 はあはあ言ってばかりで、なかなか言葉に
ならない。顔が青ざめている。
 「どうしたのよ、いったい。もう高校生に
なるんだから、しっかりしなくちゃ」
 愛美は、右手を胸にあてながら、一度、深
呼吸した。
 「とっ、とかげがね、飛びだしてきたのよ。
こわくてね、わたしが棒で、ええいと地面を
たたいたらね……」
 いったん、落ち着きかけた愛美が、何かを
思い出したのか、眼を閉じて天をあおいだ。
 「もう小さい子じゃないよね、まなみはね。
おかあさん忙しいんだからね。つきあってら
んないわ」
 三枝子はかがみこみ、干し物のつづきをや
りだした。
 「いじわるっ、いつだってそうよ。ちゃん
とわたしの言うことを聞いてくれないんだ」
 愛美の大声が届いたのか、彼女の父、信一
郎が二階の書斎の窓から顔をのぞかせ、
 「まあちゃん、どうしたんだ。朝から大声
出すなんて、いただけないな」
 やんわりと言った。
 「あっ、おとうさん、あのね、おかあさん
ったらね。わたしを無視するの」
 「ほう」
 三枝子が干し物の手をとめ、二階の窓を見
あげた。
 「すみませんが、ちょっと、あなたは引っ
込んでてくれますか」
 信一郎は、ああ、と言うなり、ピシャリと
窓を閉じた。
 「ばかね、まなみったら。どうして、おと
うさんにいいつけようとするのよ」
 「だって……」
 「わかったわ。きちんと聞いてあげる。と
かげがどうしたの」
 愛美はごくっと唾をのみこんでから、
 「しっぽが切れたのにね、平気で逃げて行っ
ちゃったの」
 愛美はさげていたじょうろを地面において
から、右手に握っていた棒を彼女の背中にま
わした。
 「やんちゃな子ね、小さいころと全然変わ
らないんだから。あったかくなったんだから、
いろんな生き物があちこちからはい出してく
るの、知らないわけないでしょ。危険がせま
るとね、とかげはそうやって逃げ出すの。今
までに見たことなかったの?」
 口先では、愛美は、まだまだ母親にかなわ
ない。
 愛美はしばらく口をぽかんと開けたままで
いた。
 「だって、ほんとにびっくりしたんだもの。
初めて見たんだもの、そんなの。気味わるかっ
たんだもの」
 ようやく答えた。
 「やっとわかったでしょ、それじゃまたね。
お手伝いのつづきがんばって。もう何があっ
ても、大きな声ださないでね。ご近所に聞こ
えちゃうしね、愛美だって恥ずかしいでしょ」
 愛美は、再び、じょうろを手に取った。三
枝子に背中を向けながら、
 「でもね、よくもまあ、あんなかっこうで
生きつづけていけるわね」
 そうつぶやいた。
 「神さまがおつくりになったのよ。あなた
は心配しないでいいの。もっとほかにあるで
しょ、心配りをしなくちゃならないことって。
これからの勉強とか……」
 愛美はそれには答えず、庭先の洗い場に行
き、じょうろの中の水を補うと、植え込みの
花々に水を与えはじめた。
 右目のあたりが気になるのか、彼女は、と
きおり左手でこすった。

 
 
 
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職人になりたい。  エピローグ

2021-04-17 09:46:25 | 小説
 自転車のペダルを必死に踏みこみ、逃げ去っ
ていく翔太を、女は無理に追わなかった。
 ただ、たばこを口にくわえ、ふふと笑った
だけできびすを返した。
 なぜか、翔太の目に涙がにじんだ。
 それから一週間が過ぎた。
 翔太は、以前より、仕事に身を入れるよう
になった。
 いつまでも、厨房のすみで雑用みたいな仕
事ばかりと思っていたが、そんな気持ちがき
れいさっぱりなくなった。
 おかげで、以前のように、まめにケガしな
くて済んだ。
 「二名さま、ごらいてええん」
 先陣を切るリーダーの鈴木の声にあわせ、
 「いらっしゃいまあせ」
 張りのある声で、森田と神山がこたえた。
 やはり、翔太はワンテンポ遅れた。
 男は五十がらみだろう。眼鏡をかけている。
若い女性をひとり、ともなっている。
 ふたりは、厨房の中が一目で見渡せるとま
り木に、ならんですわった。
 翔太は女のほうが気になる。自分と同じく
らいの年まわりだと気づいたからだ。
 「気合いを入れよう」
 森田が、小声で言う。
 リーダーの鈴木と教育係の神山は、それに
は応えない。ただ、空っぽのはらの中によく
こなれた食べ物を入れられた子どものように、
眼を輝かせて動きだした。
 こんなことは一年に一回あればいい程度な
んだがなと、翔太は気になった。
 翔太の動きがとまったので、煮出した汁の
あたたまり加減をみていた神山が、はや足で
やってきて、翔太の太ももを、靴でけった。
 「見られてるかんな。こころして働け」
 「はい」
 翔太は、それだけをつぶやくように言って
から床を見た。
 (神山さんは何が言いたいんだろう。今来
店したばかりの客がどうしたって……、自分
にはただの観光客のふたり連れのようにしか
思えないけど)
 男から手渡されたお品書きを、女は何度も
くり返して見ている。
 男が、女のほうに顔を突き出すようにして
何か言った。
 そのしぐさが、何とも言えず艶っぽく、翔
太には思えた。
 嫉妬の念がわいてくる。
 「こら、しょうた、なにみてる。しっかり
しろ」
 翔太は何もいわず、一度だけ、うんと深く
うなずいてみせた。
 「塩ラーメン、ふたつね」
 男は厨房のほうを向き、それだけ言った。
 そしてまた、女の顔に目線をもどした。
 「ご注文いただきました。塩ラーふたつ」
 森田の発声に、鈴木と神山のふたりがすか
さず、
 「ありがと、ございまあす」
 大声で言った。
 翔太は言いよどんだ。
 (失敗だ。また叱られる。だけど、いくら
怒られてもいいんだ。あの子が、あの日、お
れのアパートの部屋を訪れたんだ、そんない
いまぼろしを見てたんだから……)
 翔太のほほが青ざめている。
 それは彼自身も気づいていた。しかしそれ
は一瞬のことで、すぐにぽっぽぽっぽとぬく
もってきた。
 厨房のなかの三人の動きが、いつもよりて
きぱきしている。
 「はいっ塩ラーふたつ、出来上がりました」
 森田が言うと、鈴木が森田のそばに寄って
行った。ひとつひとつ、両手を使い、ていね
いに客の前のたなまで運んだ。
 客の男も、両手を使った。まるでこわれも
のを扱うように、湯気の立つうつわを女のす
ぐ前に置いた。
 女が嬉しそうに箸を動かしだした。
 翔太は、その様子に、笑みを浮かべた。
 「なっ、うまいだろ」
 男が念を押すと、女がうんと首を振った。
 食事が終わり、男は支払いを済まそうとレ
ジに向かう。
 めずらしいことに、森田が動いた。
 金を受け取っている森田に、男が二言三言
語りかけている。
 そのたびに、森田は頭を下げた
 「お世話さま」
 男はそう言い、女を店に残したまま、店の
暖簾をくぐった。
 翔太は不審に思った。
 「おい、なんだか、あの子、お前に用があ
るってさ」
 森田が、翔太のわきに歩み寄ってくるなり
そう言った。
 翔太は、ええっと言ったきり、何が何だか
わからなくなった。
 「何してる。早く行ってやれ。おれもなん
だかわからんが、ラーメンつうのDさんがおっ
しゃるんだ」
 森田は怒ったふうに言ったが、顔は笑って
いる。
 「はあ……」
 女が席を立ち、玄関口に向かって歩きはじ
めた。若いだけに、動作がきびきびしている。
 翔太はぬれた両手を、エプロンでふこうと
した。だがどういうわけか指がからまり、う
まくぬぐえない。
 妙に、口がかわいた。
 誰かが、翔太の尻をつついた。
 「いいから、はやく、はやく、勝手口から
出ろ」
 神山が笑顔で命令した。
 
 
 
  
 
 
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職人になりたい。  その7

2021-04-13 01:48:09 | 小説
 駅の駐輪場に、いつまでも自転車を放って
おくわけにはいかない。
 「ちょっとすみません。チャリンコでここ
まで来たものですから」
 翔太は少し言葉にとげをふくめて、女の手
を振りはらおうとした。
 だが、彼女はそれを許さない。無言のまま、
翔太の腕にからんだ手に力をこめた。翔太の
横顔をじろりと下から見つめたが、翔太はそ
れを無視した。
 「すぐですから、ほんとすみません」
 翔太はあきらめたように、声を落として言っ
てから、スタンドの止めを右足でけった。
 両ハンドルを素手でつかみ、ゆっくりと歩
きだす。
 「さて、どちらに行きますか」
 「うん、どうしようかな」
 女はちょっと迷うそぶりを見せた。
 「なにかもう、わたしと行く気はなくなっ
たみたいだけど。あなたほんとうに時間があ
るの?」
 「ええ、きょうは休みをもらってあるので」
 「そう、だったらいいわね。あら、この荷
台、広そう。ちょっとわたしを乗せてくださ
らないこと」
 女はやたらとていねいにそう言うと、ひょ
いと自分の尻を荷台にのせた。
 女のコートの裾がわれ、下に着ているスカ
ートがあらわになった。
 真っ赤な色が、翔太のこころを、はげしく
揺さぶる。
 ハンドルをとられそうになり、翔太はあっ
と叫んだ。
 「ふふっ、無理みたいね、降りるから」
 女性と連れって歩くなんてことは、今まで
一度もなかった。まして女の体から、たばこ
と化粧水のにおいがたちのぼってくる。
 翔太は自分のいたらなさをとても歯がゆく
思い、大げさに顔をゆがめた。
 なんだか、素手でハンドルをにぎっている
のがつらい。
 アパートを出だしてくる際には感じなかっ
た金属特有のつめたさが、折からの北風とあ
いまって、彼を困らせた。購入時から、ハン
ドルにはカバーがなかった。
 女は大通りへは行かず、路地へ、路地へと
足を向けた。
 道がでこぼこしているせいで、自転車を操
るのに、はほねがおれる。傷のある方の手が
ときどきずきずき傷んだ。 
 「ねえ、だいじょうぶ?わたしといっしょ
じゃ怖い?後悔してるんでしょ。顔に書いて
あるわ」
 「いいえ、後悔なんて、そんな、ぼくの方
から誘ったんですし。怖いなんて……」
 「無理しなくていいの。でもこうなったら
わたし、簡単にはあなたを離さないわよ」
 翔太は、女に馬鹿にされたくなかった。
 こころの中では、軽はずみに、彼女をさそっ
てしまった自分の行動を、充分悔やんでいる。
 そのことを絶対に彼女に知られたくない。
 彼女の目線が、翔太の左ほほを、まるでな
めまわすように当たった。
 (おれの部屋のドアをたたいたのは、絶対に
この人じゃない。違う人だ。もっと若くてピュ
アで……、おれと同じくらいの年齢だったに
ちがいない)
 翔太は自分なりの理想の女性を、無理にで
も彼の脳裡に描こうとした。
 居酒屋の赤いちょうちんが、軒先にぶら下
がっているのが見えた。
 あちこちのネオンがまたたき始める。
 太陽がかなり西に傾いていた。
 文化と歴史の香りただよう街。
 喜多方で生まれ、育った人々が新たな街づ
くりを手掛けるに際して期待したことは、きっ
とそんなふうだったに違いない。
 「勝手なこと言ってすみません。なんだか
とってもわるいと思うけど、おれ、ちょっと
用を思い出したんです」
 翔太は女をひとり、その場に置いて、立ち
去ろうとした。
 「馬鹿ね。ここまでわたしを連れてきてさ。
そんなこと、できると思う。あなたがね、わ
たしを、是非にと誘ったんじゃなくって?」
 女の顔が見る間に紅潮し、両ほほがぴくぴ
くふるえた。 
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