油屋種吉の独り言

日記や随筆をのせます。

MAY  その91

2021-04-28 18:40:00 | 小説
 カチャリ。
 ドアがほんの少しだけ開き、髪の毛はぼさ
ぼさ、あごに黒いひげを豊かにたくわえた男
の顔がちらりとのぞいた。
 ニッキは、目ざとく、その顔を見つけ、
 「わるいね、ちょっと用ができたから」
 メイに向かって言い、にこやかな表情で席
を立った。
 ニッキとその男が、玄関先で、何やら話し
込んでいる。
 作業服が汚れほうだい。襟もとからのぞく
黄ばんだシャツは汗まみれだ。
 靴は泥だらけである。
 ドアが、ほんの少し開いていた。
 戸外のひんやりした風にまじって、ドアの
すき間から部屋の中へと異臭がながれこんで
くる。
 メイは、ううっとうめき、左手で鼻をつま
んだ。コンコンとせき込む。
 ニッキは、あっしまったと言い、あわてて
部屋に通じるドアを、外から閉めた。
 どれくらい時間が経っただろう。
 ほんの二、三分が、メイにとっては、とて
も長い時間に思われた。
 再び、ニッキがドアを開けて、部屋に入っ
たとき、彼は大事そうに、こわきに書類をか
かえていた。
 メイは、ロッキングチェアにふかぶかとす
わり、眼を閉じていた。しかし、足音から察
して、入室したのがニッキだと分かると、そ
うっと目を開けた。
 「ちょっと、ニッキったら、あんまりじゃ
ない。さっきの人、あなたの同僚?常識のほ
とんどない人みたいね。なんて言ったらいい
かわからないほど、くさいにおいが漂ってき
たわ。わたし、もう少しで、吐き気をもよお
しそうだった」
 メイは椅子から弾みをつけて立ち上がると、
急いで台所に向かった。
 蛇口をひねると、ザアッと水が飛び出した。
 メイの差し出した水グラスをはじきとばす
勢いに、メイは驚き、蛇口の栓をしぼった。
 グラスの中に半分くらいたまった水を、お
いしそうにごくごく飲んだ。
 「ごめんごめん。あれは、いや、あの人っ
て、とてもかわいそうな人なんだ。ひとり身
でね、長い間、この山岳地帯の奥の奥で暮ら
してきたもんだから。まるで仙人のようで」
 「せんにんって?わたし、あなたが言って
ることが理解できないわ」
 「仙人って、メイは知らないんだ」
 「ええ、そうよ」
 メイは、戸棚から小さな容器を取り出すな
り、自分のからだに、シュッシュッと、霧を
ふきかけた。
 あたりに、かぐわしい香りがひろがる。
 「いい匂いだね。なんだろ、これは?」
 メイはそれには答えない。
 つんとすまし顔で、部屋の天井を、ぐるり
と見わたした。
 「わるかったね。おどかして。これからだ
んだんに、事の仔細を、説明していくから」
 ニッキは、テーブルに置いたままにしてい
た彼のカップに目をとめ、つかつかと近寄っ
て行った。
 カップの耳を左手でつかみ、顔の真ん前ま
で持ち上げるようにして、
 「せっかくのコーヒー、冷めちゃったけれ
ど、いいニュースが飛び込んできたよ」
 ぽつりと言った。
 そのカップの表面に、何か丸いものが、い
くつも描かれている。
 久しぶりに見たからか、ニッキはそれらが
太陽系の惑星を模したものだ、とわかるのに、
しばらく時間がかかった。
 「あれれ、これって、ぼくが前にきみにあ
げたものだったよね」
 ひとつの黒っぽい惑星が、青い地球に向かっ
て近づいている様子が、あざやかに描かれて
いる。
 「この絵ね、いつ見ても、意味深だね」
 ニッキの言葉に、メイの眼の奥がきらりと
光った。
 「ひょっとして、さっきの人って、わたし
の生まれた星の住人?」
 「きみって、だんだん、勘が鋭くなってき
たね」
 ニッキは窓辺に寄り、湖畔を見つめた。
 夕暮れ近い景色は寒々としている。
 「さあて、いよいよ、メイの出番が近づい
たようだぞ」
 ニッキが野太い声で言った。 
 
 
 
 
 
 

 
 
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MAY  その90

2021-04-21 23:10:46 | 小説
 いよいよ最終決戦。 
 悪魔の申し子のような王が君臨する、惑星
Xが太陽をぐるりとまわり終えてから次第に
地球に近づいてきた。
 いったいどんな恐ろしいことがおきるかと
地球の人々は怖がった。
 時折、空を仰ぎ、ふうと失意のため息をつ
いた。地球のありとあらゆる資源を収奪した
黒い円盤……。それらにより、豊かだった地
球は見る影もなく荒れ果ててしまった。
 一方、ひとすじの光明があった。
 一匹の年老いたヒヒとメイにより、僥倖が
もたらされた。一時的にせよ敵の頭脳に働き
かけ、戦意を喪失させる。そして穏やかな暮
らしを好むようにしむける。そんな武器が考
案された。
 そんな夢みたいな鉱物が、なんとモンクの
家を取り囲む森林の中の洞窟で発見されたの
だった。
 メイは成人となり、地球防衛の一おくをに
なおうと、ニッキとともに働きだした。
 「そうか、そうか。それはなんて心がけの
いいこと。お前のほんとうのご両親もさぞ喜
ばれていることだろう」
 モンクとメリカはにこにこ顔でメイを送り
出したものの、心の中では泣いた。
 人さまの子であることは百も承知で赤子の
ときから世話した子。
 日々さびしさがつのった。
 根雪がとけ、山菜の芽がばねのごとく生え
だしても、春の天気は変わりやすい。
 ひんやりした風がときどき森林の中を通り
すぎる。
 モンクの家の煙突からゆらゆらと煙がたち
のぼっていき、背丈の低い雑木や藪の上をふ
わふわとどこまでも漂う。
 午後六時を過ぎた。もうじきモンクが仕事
先から帰宅する。メリカはいそいそと夕食の
準備をととのえると、居間の暖炉に新たにま
きをくべた。
 何匹目の飼い猫になるだろう。メリカがう
るさがっても、容易にの彼女の足もとから離
れない。
 「よしよし、お前もさぞさびしいことだろ
うよ。メイは大人になったんだ。喜んであげ
なきゃね。まだまだ争いが絶えないみたいで
困るよね。あぶない仕事につかなきゃいいと
わたしは毎日祈ってるんだ」
 返事ができるわけがない。
 猫は顔じゅう口にして、みゃああと小さく
鳴いた。
 戸外でどさどさ靴音がする。それがモンク
のものであることを、メリカはすばやく察知
して身構えた。
 バタンと戸が開くと、モンクの日焼けした
顔がのぞいた。
 「メリカ、ただいま。留守中、特に何もな
かったかい」
 「おかえりモンク、私なら大丈夫。変なの
が来たら、ほうきを持って撃退するまでさ」
 メリカは大げさに宙にむかってもろ手をあ
げ、ぶんぶん振りまわした。

 不可思議なことだが、惑星Xの住人はもと
もと地球の民。およそ一万年つづいた石器時
代の終わりごろ、他の銀河系宇宙からやって
きた異星人により、一部の人たちがかの星に
連れ去られたとつたわる。
 初め、おだやかな暮らしを石器人たちだっ
たがだんだん長期の平和をうむようになった。
 次第に些細なことで互いにののしり合うよ
うになり、部族間争いもひんぱんになった。
 かの異星人、知的で情にあつい。
 「これではいかん。数も増えたし、密になっ
たメダカじゃないが、争いごとが多くなるの
は必定。この際、地球人の一部を他の惑星に
分離し、様子をみるほかあるまい」
 これが彼らの総意となり、石器人の一部を
太陽系の九惑星のルートとは異なったまわり
方をしている水の惑星に移す計画が着々と進
められた。
 まるでノアの箱舟である。
 そこで彼らの生活が穏やかだったのはほん
の初めだけ、人口が増えるにつれ、やはり互
いに反目しあうようになった。
 ニッキとメイがR国の山岳地帯で過ごして
いたころ惑星Xは大変な騒ぎの渦中にあった。
 戦乱が絶えず起こり、都市という都市は荒
れ果てた。たびたび激震にみまわれ、津波が
起こり、建物が破壊された。
 庶民は食うに事欠くありさま、病苦が人々
をおそい、亡くなる人があいついだ。
 「地球の資源を洗いざらいしぼりとる計画
だがな、あれは一体どうなった。わが部隊か
ら何か連絡はないのか」
 日々ぜいたくの限りを尽くし、太りに太っ
た惑星Xの権力者が、時折、ふっと思い出し、
居丈高に直属の配下にたずねた。
 「申し訳ございません。どういうわけか先
ごろぷつりと連絡が途絶えまして、私どもも
うろたえているありさまでして、あはっ、な
にとぞ、なにとぞ、いま少しのご猶予をお与
えください、王さまあ」
 彼は、ただ身を低くして、頭を床にするつ
けることしかできない。
 王は眼光鋭く、彼を一瞥すると、
 「だめだ。なんて役立たないやつだ。お前
をそっこく処刑だ」
 「そ、そんな……、どうぞお許しを」
 たちまちふたりの付き人に両腕をつかまれ、
巨大な砦の中にある宮殿から連れ出されてし
まった。
 他の部下たちへの見せしめである。
 庶民の中には命をかけてでも王に抵抗しよ
うとするものが現れた。
 地下にもぐり、チャンスを待った。
 彼らは彼らなりの情報網をもつようになり、
数十年前にひとりの赤子が惑星Xを脱出した
のを知った。
 先に、火星に逃れたポリドンの娘に彼らの
夢を託そうとした。
 彼女の消息を調べあげ、レジスタンスの精
鋭のひとりが彼女のあとを追った。
 その諜報員がニッキとの接触に成功、ニッ
キの配下となった。
 R国の山岳地帯、とある湖畔の家。
 ニッキはメイとともにコーヒーをすすった
り、おしゃべりするのを楽しみ、互いの感情
が高まるとひしと抱き合った。
 その諜報員は部屋に入るか否か、しばらく
ためらったが、意を決しドアノブを回した。
 
 
 
 
 



 
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職人になりたい。  エピローグ

2021-04-17 09:46:25 | 小説
 自転車のペダルを必死に踏みこみ、逃げ去っ
ていく翔太を、女は無理に追わなかった。
 ただ、たばこを口にくわえ、ふふと笑った
だけできびすを返した。
 なぜか、翔太の目に涙がにじんだ。
 それから一週間が過ぎた。
 翔太は、以前より、仕事に身を入れるよう
になった。
 いつまでも、厨房のすみで雑用みたいな仕
事ばかりと思っていたが、そんな気持ちがき
れいさっぱりなくなった。
 おかげで、以前のように、まめにケガしな
くて済んだ。
 「二名さま、ごらいてええん」
 先陣を切るリーダーの鈴木の声にあわせ、
 「いらっしゃいまあせ」
 張りのある声で、森田と神山がこたえた。
 やはり、翔太はワンテンポ遅れた。
 男は五十がらみだろう。眼鏡をかけている。
若い女性をひとり、ともなっている。
 ふたりは、厨房の中が一目で見渡せるとま
り木に、ならんですわった。
 翔太は女のほうが気になる。自分と同じく
らいの年まわりだと気づいたからだ。
 「気合いを入れよう」
 森田が、小声で言う。
 リーダーの鈴木と教育係の神山は、それに
は応えない。ただ、空っぽのはらの中によく
こなれた食べ物を入れられた子どものように、
眼を輝かせて動きだした。
 こんなことは一年に一回あればいい程度な
んだがなと、翔太は気になった。
 翔太の動きがとまったので、煮出した汁の
あたたまり加減をみていた神山が、はや足で
やってきて、翔太の太ももを、靴でけった。
 「見られてるかんな。こころして働け」
 「はい」
 翔太は、それだけをつぶやくように言って
から床を見た。
 (神山さんは何が言いたいんだろう。今来
店したばかりの客がどうしたって……、自分
にはただの観光客のふたり連れのようにしか
思えないけど)
 男から手渡されたお品書きを、女は何度も
くり返して見ている。
 男が、女のほうに顔を突き出すようにして
何か言った。
 そのしぐさが、何とも言えず艶っぽく、翔
太には思えた。
 嫉妬の念がわいてくる。
 「こら、しょうた、なにみてる。しっかり
しろ」
 翔太は何もいわず、一度だけ、うんと深く
うなずいてみせた。
 「塩ラーメン、ふたつね」
 男は厨房のほうを向き、それだけ言った。
 そしてまた、女の顔に目線をもどした。
 「ご注文いただきました。塩ラーふたつ」
 森田の発声に、鈴木と神山のふたりがすか
さず、
 「ありがと、ございまあす」
 大声で言った。
 翔太は言いよどんだ。
 (失敗だ。また叱られる。だけど、いくら
怒られてもいいんだ。あの子が、あの日、お
れのアパートの部屋を訪れたんだ、そんない
いまぼろしを見てたんだから……)
 翔太のほほが青ざめている。
 それは彼自身も気づいていた。しかしそれ
は一瞬のことで、すぐにぽっぽぽっぽとぬく
もってきた。
 厨房のなかの三人の動きが、いつもよりて
きぱきしている。
 「はいっ塩ラーふたつ、出来上がりました」
 森田が言うと、鈴木が森田のそばに寄って
行った。ひとつひとつ、両手を使い、ていね
いに客の前のたなまで運んだ。
 客の男も、両手を使った。まるでこわれも
のを扱うように、湯気の立つうつわを女のす
ぐ前に置いた。
 女が嬉しそうに箸を動かしだした。
 翔太は、その様子に、笑みを浮かべた。
 「なっ、うまいだろ」
 男が念を押すと、女がうんと首を振った。
 食事が終わり、男は支払いを済まそうとレ
ジに向かう。
 めずらしいことに、森田が動いた。
 金を受け取っている森田に、男が二言三言
語りかけている。
 そのたびに、森田は頭を下げた
 「お世話さま」
 男はそう言い、女を店に残したまま、店の
暖簾をくぐった。
 翔太は不審に思った。
 「おい、なんだか、あの子、お前に用があ
るってさ」
 森田が、翔太のわきに歩み寄ってくるなり
そう言った。
 翔太は、ええっと言ったきり、何が何だか
わからなくなった。
 「何してる。早く行ってやれ。おれもなん
だかわからんが、ラーメンつうのDさんがおっ
しゃるんだ」
 森田は怒ったふうに言ったが、顔は笑って
いる。
 「はあ……」
 女が席を立ち、玄関口に向かって歩きはじ
めた。若いだけに、動作がきびきびしている。
 翔太はぬれた両手を、エプロンでふこうと
した。だがどういうわけか指がからまり、う
まくぬぐえない。
 妙に、口がかわいた。
 誰かが、翔太の尻をつついた。
 「いいから、はやく、はやく、勝手口から
出ろ」
 神山が笑顔で命令した。
 
 
 
  
 
 
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MAY  その89

2021-04-16 00:13:07 | 小説
 メイがいれたコーヒーの香りが部屋じゅう
にただよっている。
 「さあ、召し上がれ。淹れたてだからきっ
とおいしいわよ」
 「ああ、ありがとう」
 ニッキは立ったまま、カップの耳を無造作
につかむと、一気に喉に流し込もうとした。
 「ああ、だめ。そんなのみかたしちゃ」
 ニッキは顔を紅潮させ、コンコンと激しく
せき込んだ。彼の口から飛び出した茶色の液
体が床をぬらした。
 「ごめん。ごめん。ついつい忙しいふりを
してしまって」
 「わかったわ、ニッキ。ゆっくりコーヒー
を楽しんだことがないのね。かわいそうなニッ
キ」
 メイは部屋の片隅に立てかけてあったモッ
プを持ってきて、床をきれいにふいた。
 そして、それをもとの位置に戻そうとして
ふいに立ちどまった。
 湖畔に向けて作られた窓を、雨がはげしく
たたきつけはじめた。
 「あれを見て、ニッキ。さっきまであんな
に穏やかなお天気だったのに。どうしたのか
しら。かみなりが鳴ってるし。何が起きるか
心配だわ」
 「だいじょうぶさ。春先はいつだってこう
さ。冷たい空気と暖かいのが、往々にしてぶ
つかってしまうからね」
 「そんなものかしら」
 メイの胸がさわいだ。
 (地球の子供たちが大挙して敵にさらわれ
た時にも、これと似た感情を味わったことが
ある……。でも、今度はそれどころじゃない、
もっと何か大きくて……)
 メイは部屋の真ん中で、へなへなとすわり
こんだ。
 持っていたモップの柄がパタンと倒れ、ニッ
キの右の靴を直撃した。
 「あっ、ごめんなさい。わたし、どうした
のかしら。足、痛くなかった?だいじょうぶ
だった?」
 「だいじょうぶ。おれのは安全靴さ。めっ
たなことでつぶれやしない」
 ニッキは、なんとかしてメイを力づけたい。
 顔じゅうに笑みをたたえてしゃべったけれ
ど、メイの表情は暗いままである。
 メイはようやく立ち上がり、よろめく足取
りで揺り椅子まで行き、ふわりと横たわった、
 両目をとじ、なんとかして胸騒ぎの原因を
つきとめようとした。
 母親が以前、彼女に告げていたことが、気
になってしかたなかった。
 「あなたには偉大な力がある」
 それと似たことを言われた。
 雑念をふり払い、彼女自身に訴えかけてく
る自然の声に、耳を傾けようとした。
 どれくらい経っただろう。
 メイはかすかな振動を感じた。
 「地震が来るわ。ニッキ、気を付けて」
 ぼそりと言った。
 「どこ?なんでもないよ」
 「今にやってくるわ」
 地面の揺れがやっと感じられたのか、ニッ
キがあっと叫んだ。
 建物がガタガタ揺れ、湖の波の音が一段と
高くなった。
 ニッキは立っていられない。すぐさま、テ
ーブルの下にもぐりこんだ。
 部屋の中のものが次々に音立てて倒れた。
 再び、部屋を静寂が支配するまでに、どれ
くらいの時間がかかったろう。
 ニッキが立ち上がり、かたづけ始めようと
したが、メイが、
 「あのね。ニッキ。ちょっとそのままでい
て。余震が来るかもしれないし」
 「ああ、わかった」
 ふいに、メイがふふふと笑った。
 「どうして笑う。こんな時に。びっくりす
るだろ」 
 「ごめんなさい。別に深い意味なんてない
の。あなたとわたしって、初めてね。こんな
経験」
 「そうだね。中学の時だって、付き合って
もいなかったし。スクールバスの中でおしゃ
べりする程度だった」
 「うん、そうね、あなたはいつだって公平
だったわ。わたしはそんなところが好きだっ
たわ。今は昔とちがって、すいぶんわたした
ち親しくなったけど……、でもまだまだ。ニ
ッキって、ひょっとして何か隠し事してない
こと?わたしに……」
 「なんだろ。別に。隠さなくちゃならない
ことなんてないけど」
 ニッキはメイの目を見ないで、答えた。
 「うそよ、うそ。わたしなんとかくわかる
んだから」
 メイがすばやく椅子から起き上がったので、
揺り椅子ががシーソーのように前に後ろに揺
れた。
 ニッキも、テーブルの下から出た。
 窓辺に寄り、たそがれがせまる湖畔を見つ
めた。
 「なんでもないって、言ってるのに。そん
なに、おれが信じられないのか」
 ニッキがいらだった。
 「そうじゃないわ」
 メイはニッキのすぐそばに立ち、彼の左手
をそっとにぎった。
 「惑星エックスでしょ」
 メイがささやくように言った。 
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職人になりたい。  その7

2021-04-13 01:48:09 | 小説
 駅の駐輪場に、いつまでも自転車を放って
おくわけにはいかない。
 「ちょっとすみません。チャリンコでここ
まで来たものですから」
 翔太は少し言葉にとげをふくめて、女の手
を振りはらおうとした。
 だが、彼女はそれを許さない。無言のまま、
翔太の腕にからんだ手に力をこめた。翔太の
横顔をじろりと下から見つめたが、翔太はそ
れを無視した。
 「すぐですから、ほんとすみません」
 翔太はあきらめたように、声を落として言っ
てから、スタンドの止めを右足でけった。
 両ハンドルを素手でつかみ、ゆっくりと歩
きだす。
 「さて、どちらに行きますか」
 「うん、どうしようかな」
 女はちょっと迷うそぶりを見せた。
 「なにかもう、わたしと行く気はなくなっ
たみたいだけど。あなたほんとうに時間があ
るの?」
 「ええ、きょうは休みをもらってあるので」
 「そう、だったらいいわね。あら、この荷
台、広そう。ちょっとわたしを乗せてくださ
らないこと」
 女はやたらとていねいにそう言うと、ひょ
いと自分の尻を荷台にのせた。
 女のコートの裾がわれ、下に着ているスカ
ートがあらわになった。
 真っ赤な色が、翔太のこころを、はげしく
揺さぶる。
 ハンドルをとられそうになり、翔太はあっ
と叫んだ。
 「ふふっ、無理みたいね、降りるから」
 女性と連れって歩くなんてことは、今まで
一度もなかった。まして女の体から、たばこ
と化粧水のにおいがたちのぼってくる。
 翔太は自分のいたらなさをとても歯がゆく
思い、大げさに顔をゆがめた。
 なんだか、素手でハンドルをにぎっている
のがつらい。
 アパートを出だしてくる際には感じなかっ
た金属特有のつめたさが、折からの北風とあ
いまって、彼を困らせた。購入時から、ハン
ドルにはカバーがなかった。
 女は大通りへは行かず、路地へ、路地へと
足を向けた。
 道がでこぼこしているせいで、自転車を操
るのに、はほねがおれる。傷のある方の手が
ときどきずきずき傷んだ。 
 「ねえ、だいじょうぶ?わたしといっしょ
じゃ怖い?後悔してるんでしょ。顔に書いて
あるわ」
 「いいえ、後悔なんて、そんな、ぼくの方
から誘ったんですし。怖いなんて……」
 「無理しなくていいの。でもこうなったら
わたし、簡単にはあなたを離さないわよ」
 翔太は、女に馬鹿にされたくなかった。
 こころの中では、軽はずみに、彼女をさそっ
てしまった自分の行動を、充分悔やんでいる。
 そのことを絶対に彼女に知られたくない。
 彼女の目線が、翔太の左ほほを、まるでな
めまわすように当たった。
 (おれの部屋のドアをたたいたのは、絶対に
この人じゃない。違う人だ。もっと若くてピュ
アで……、おれと同じくらいの年齢だったに
ちがいない)
 翔太は自分なりの理想の女性を、無理にで
も彼の脳裡に描こうとした。
 居酒屋の赤いちょうちんが、軒先にぶら下
がっているのが見えた。
 あちこちのネオンがまたたき始める。
 太陽がかなり西に傾いていた。
 文化と歴史の香りただよう街。
 喜多方で生まれ、育った人々が新たな街づ
くりを手掛けるに際して期待したことは、きっ
とそんなふうだったに違いない。
 「勝手なこと言ってすみません。なんだか
とってもわるいと思うけど、おれ、ちょっと
用を思い出したんです」
 翔太は女をひとり、その場に置いて、立ち
去ろうとした。
 「馬鹿ね。ここまでわたしを連れてきてさ。
そんなこと、できると思う。あなたがね、わ
たしを、是非にと誘ったんじゃなくって?」
 女の顔が見る間に紅潮し、両ほほがぴくぴ
くふるえた。 
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