油屋種吉の独り言

日記や随筆をのせます。

まずしくとも……。

2021-05-26 22:44:25 | 日記
 過日、ほんの数秒に過ぎないテレビ映像が
わたしに衝撃を与えた。
 それらは、もうとっくに忘れ去っていたと
思っていた少年時代の記憶を、もののみごと
に掘り起こしてくれた。
 一人の年配の男性が腰あたりまである長い
ゴム製の靴をはき、ゆったりした川の流れの
中で釣り糸をたれている。
 たったそれだけの、別になんということも
ない英国の田園風景。
 こんな光景が、わが国のいずこかで見られ
るだろうか。
 写真やビデオで撮ればひとめでわかるけれ
ども、わたしは文章修行ちゅうの身、それら
を画面にのせる方法も知らないから、わたし
なりのやり方で感じたことをあらわす。 
 わたしが十歳だったころ最寄りの川でよく
釣りをした。
 タナゴだろう。きらきらした小さな魚が入
れ食い。一本のはりにごはん粒がついている
だけだった。
 確か昭和三十代の中ごろのこと。
 その川の水がどれほどきれいなものだとい
えばいいだろう。
 工場や家庭からの汚水がまったく流れ込ん
でまじっていない。川岸はあやめや水草のた
ぐいが繁茂する。魚たちや他の生き物たちが
巣をつくり、卵を産みつけたりするのに最適
な場所を提供していた。
 もっと前にさかのぼろう。
 五歳のころ、わたしは苗間にいた。
 半ズボンをはかせてもらい、両手を、さか
んに水の中につけている。
 大川からの水を苗間に取り込む、水口から
何か黒い小さなヒシのごときものが、水と一
緒に次から次に流れ込んでくる。
 それらはごくごく小さな手足を懸命に動か
し、流れに逆らって泳ぐ。
 だが、たいていはむだに終わり、押し戻さ
れてしまう。
 この生き物がおわかりになるだろうか。
 苗間の真ん中あたりには、一本の桃ノ木が
植えられている。
 その実で野良仕事の疲れをいやそうという
のだろう。
 幼いわたしのわきで母や親せき縁者が、苗
をザブザブと両手で抜いては束にし、一本の
わらでくるりと縛る。
 わたしが転げでもしないかと思うのか、と
きどき美代がわたしを見つめた。
 五月のお日さまにきらめく水面がなんとま
あ、まぶしかったこと。
 それから六十年以上経った。
 わたしは今、とある北関東の山あいに住ん
でいる。
 田舎の暮らしのこと、歩みののろい亀のご
ときもので、長く住んでも大して変わり映え
がしないかというと、そうでもない。
 ラジオどころかテレビがある。スマホやパ
ソコンでインターネットの世界につながろう
とすれば可能になった。
 ワープロが発明され、わたしも勇んで買い
求めた昭和六十年代がなつかしい。
 自分の視界の範囲で、何が一番変わったと
いえるだろう。
 長い年月をかけ山が切り崩された。それか
ら大川の岸がコンクリートで固められた。
 これはつい二年前、大きな雨台風がこの地
方をおそい、越水、果ては土手が崩れ、低地
になっている地区が水浸しになった。
 身近なことでは、大小を問わず、堀っこに
U字溝が伏せられ、田んぼに水を入れるのに
苦労がいらなくない。
 一本しかない大通りを砂利を積んだダンプ
カーがひんぱんに通るわが町。
 若者がおんでてしまい、住民はほとんどが
お年寄り。彼らの運転はのろのろしたもの忙
しいダンプカーにいつだってせかされる。
 ゲリラ豪雨とやら、山々に降った大量の雨
水がいっとき谷間を流れくだり、岸辺をむざ
んにけずりとる。
 おかげで、市が気象緊急事態宣言を発出せ
ざるをえない状況に追い込まれた。
 もう一度、英国の田園風景にたちかえって
みたい。
 昭和五十年の初めには、わたしたちの町に
もかような風景が残されていた。
 堀っこをのぞくと、ぎんぎょやうなぎ、し
じみやカラス貝、いもりやさわがにが生息し
ていた。
 自然と経済の両立が、いかに困難か。
 子や孫の代のために何らかのやり方で、も
う一度豊かな自然を取り戻したいものだ。
 「堀っこに網をもって行っても、めだかが
一匹もいない。カエルさえろくにいないんで
すよ」
 近所のお年寄りの言葉である。
 削り取られた山からの濁水、それに大量の
殺虫剤や除草剤の散布。
 人間は彼らにとって、とんでもない殺し屋
に見えるだろう。
 
 
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

つむじまがり  (2)

2021-05-20 19:02:29 | 小説
 柿が色づき、烏やもずを呼びよせたり、金
木犀がその折り重なった深緑色の葉の上に香
りの強い橙色の小さな花をちりばめる頃、村
の祭りがはじまる。
 土曜日、学校が半ドン。その午後、種吉は
いつものように釣りに行ったり、友達の家を
訪ねたりすることができない。
 種吉は玄関の上り口で靴を履き終え、美代
が差しだす黒のランドセルに両腕をとおした。
 「おかあちゃん、行ってくるわ」
 ごくごく小さな声で言った。
 「今なんて言うた?お母ちゃん、聞こえへ
んかったで」
 「行ってくるわって、がっこう」
 種吉の声は最初大きかったが、途中でまた
消え入りそうになった。
 だが美代はそれ以上、種吉に文句を言うの
をひかえた。
 「はいはい、行っといで。きょうは大事な
日やからな。わかってるやろ。ちゃんと帰っ
てくるんやで」
 うん、と答えて、種吉は玄関の戸の外に出
ると、ガチャリと戸を閉めた。
 美代は五分たっても、まだ上り口にいた。
 戸外の様子をうかがっているのだ。
 種吉は生来のあわて者。彼の身に何が起き
るか知れたものではない。
 家の前を県道が走っている。
 きのうの午後から降り出した雨が、路面を
じゅうぶんに濡らしている。
 ぬかるんだじゃり道。へこんだ場所にはか
なりの雨水がたまっているはずだ。
 キキッ。
 突然、車のブレーキ音がした。
 「こらっ、急に飛び出すんじゃない。おじ
さんだって、急に停まれないんだぞ」
 突然、そんな野太い声が玄関戸の隙間から
飛び込んできて、美代が腰をうかせた。
 眼からも鼻からもしずくを垂れ、ずぼんも
服もびしょぬれ。
 運転手の叱責に何も言えず、ただ道脇でた
たずむだけの種吉の姿が、美代の脳裡をかす
めた。飛び出して行き、わが子をぐっと抱き
しめたい想いを、美代は歯をかみしめてこら
えた。
 どれくらい玄関の上り口にいたろう。
 美代は立ち上がろうとして、めまいがした
ので、しばらくはうずくまったままでいた。
 種吉は、ちょっとしたテレビスターのよう
なものだった。
 学芸会の時代劇にでるようなもの、顔に化
粧をほどこされ、着物を身につける。
 鉢巻に、たすきがけで 屋台に乗る。
 両手にすりこぎみたいな棒を持ち、大太鼓
をドンドン打ち鳴らす。
 何人も同じ境遇の子がいたが、種吉はその
役が怖かった。
 屋台には両側に車輪が取り付けられている
が、ときどき外される。
 そして、大勢の男たちにかつがれるのだ。
 彼らは酒を飲んでいるから、よろよろと歩
くことができるだけだ。
 威勢を付けるのに酒にたよっている人が大
勢いるからだ。
 だから、ときどき、屋台が地面に落ちる。
 「ぼく、いやだ。だって怖いんや。弟がや
りたいって。だからゆずってやりたい」
 「あほなこと言うんやない。これはな、大
昔からの決め事や。長男がやるんや。怖くて
も我慢するしかない。お前、ちんちんついて
んねやろ」
 真剣な顔の美代に両腕をつかまれ、種吉は
泣きべそをかきながら、なんどもなんども頭
をたてに振った。
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

MAY  その94

2021-05-19 18:17:57 | 小説
 なんでもかでもメイより先に外に出ようと
したニッキだった。
 「わたしのふるさとだもの、ねえニッキ
先にわたしを下ろして」
 メイにそうこわれると、返す言葉がない。
 ニッキは黙ってうなずくしかなかった。
 「でも、必ず、じっとしててよ」
 「はい」
 メイは素直に応じた。 
 宇宙船のハッチから頭だけ出したニッキは
用心深く、あたりの様子をうかがった。
 「メイ、メイはそこにいるかい」
 だが、返答がない。
 波の音や風が通りすぎる音だけが、ニッキ
の耳にとどく。
 何か大きな山にでも妨げられているに違い
ない。日の光が極端に届かず、自分が濃い影
の中に閉じ込められている気がした。
「ちっ、おかしいな。さっきはいい天気だと
ばかり思ったのだが……まったく。メイさん、
メイはどこだ。大丈夫か。そこからおれが見
えるか」
 ニッキは再び叫んだ。
 だが、応答がない。
 「メイ……、まさか」
 ニッキはそうつぶやくと、腰のベルトにつ
るしてある光線銃入れのボタンを、あわてて
はずそうとした。
 しかし、ボタンはすでにはずれ、滑落する
のを防ぐ役割をになっていたカバーが風に吹
かれてひらひらした。
 ニッキはガン・カバーを手で探った。
 大切なものがあるべきところに存在しない
のに気づき、
 「くっ、くそ。なんだか軽いと思った。こ
れじゃ戦えないじゃないか」
 ニッキは自分の不注意をなげいた。
 いくら考えても、銃をどこで失くしたかわ
からない。船内にもどって仲間に知らせ、代
わりの銃を持ってくることもできる。
 それよりもメイの安否が気になった。
 ニッキは宇宙船から、ひらりと湖のほとり
に飛び降りた。
 二、三メートルはあったろう。
 着地したとたん、ニッキは転がった。
 口に砂利が入ってしまい、思わずぺぺっと
吐き出す。
 (ともかく前にすすむしかないな)
 歩くたびに、靴が砂浜にめりこんだ。
 両手で左足首をつかみ、なんとか靴を引き
抜こうとするが果たせない。
 (なんてことだ。砂利ばかりで、泥はない
と判断したが、間違いだったのか)
 ニッキたちの観測によると、ずいぶん前に
惑星Xの陸地は、すっかり荒れ果て、人をの
ぞくあらゆる動物や植物がその戦いの犠牲と
なった。そのからだの最後のひとかけらまで
もパリパリに渇ききり、風によってどこかに
吹き飛ばされたという説が一般的だった。
 いったんは素晴らしい文明が築かれたよう
に見えたが、それはうわべだけのこと。
 人々のこころの中は黒雲がわきあがり、強
風が吹きあれた。もっと物が欲しい、人より
いい暮らしがしたい。 
 そんな気持ちに人々は分断され、内乱、内
戦が間断なく引き起こされた。
 今は、ほんの少しの海が残っているだけで、
陸地は湖がほとんどなく。荒野が広がってい
るばかりだ。
 食料の奪い合いが日常茶飯事になるのも自
然の成り行きである。
 突然大きな波がニッキの背後から迫った。
 ザアッと音たてて押し寄せて来て、動きの
とれないニッキの長くてかたい靴を水浸しに
した。
 チクリチクリと刺すような痛みが走る。
 ニッキはあわてた。
 (うぬ、靴の中に何かが入ったのか)
 あまりに強く靴ひもを結んでしまってある。
 靴を脱ぐのに途方もない時間がかかりそう
に思える。
 ニッキが靴のなかに手を入れると、何か魚
のような生き物がうごめいているのに気づい
た。
 「そんな馬鹿なことが。あつつっ、手もか
じられる」
 突然、誰かの手がニッキの腰のあたりに触
れたと感じたとたん、足もとがびりびりした。
 ふたりの人影がニッキにまとわりつき、か
いがいしく世話をしている。
 ふたつの足が靴から自由になった。
 傷の手当てをしてくれているのだろう。
 激しい痛みが次第にやわらいでくる。
 「さあ、ニッキ。もうだいじょうぶよ。み
なさんにお礼を言って」
 メイの声がニッキを安心させた。
 「どなたか知らないけれど、ありがとう」
 突然ニッキの目の前がぱあっと明るくなっ
た。百メートルはあるだろう。切り立った険
しい崖がニッキの前にそびえたっていた。
 絶壁のずっと上の雲の切れ間から、陽光が
いくつもの太い筋となって、地面に降りそそ
いでいた。
 
 
 
コメント (2)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

おみくじ  その4

2021-05-18 00:10:57 | 小説
 なで牛とある。
 大石に見えたのは、なんと牛の銅像。
 濃いめの緑色なのは青銅でできているため
らしい。
 でっぷりと太った牛がすくっと頭部をあげ、
氏神である道真さまが祭られている本堂のほ
うに顔をむけた状態でねそべっている。
 目もとがいかにも愛らしい。
 なで牛は、参拝者の具合がわるいところは
どこかと問うていて、たとえばおなかの調子
がわるいなら、おれの腹をなでろというわけ
である。
 思わず、三枝子はうっうんとうなずいてし
まった。
 この日がよく晴れた日で良かったとつくづ
く思う。
 もしも曇っていて、ときどき雨が降るよう
なお天気なら、自分のような気の弱い者は恐
ろしくて、ほんのつかの間もさえ、この境内
に滞在することができなかったろう。
 ご神体さまだって、あたたかくて明るい日
なら、好きなところならどこへだってすうっ
と飛んで行かれてしまう。
 暗くてじめじめしているときなどは、いく
らなんでもためらわれるだろう。
 行く当てがなくなり、本堂にいることしか
できないご神体さまが境内に寝そべっている
牛に向かって飛んできて、牛のからだの中に
入りこむやいなや、しゅるしゅると血をかよ
わせておしまいになる。
 三枝子は妄想ぐせがあるのか、ときどき不
可思議なことが頭に浮かぶ。
 奄美は絶海の孤島。
 広い海の向こうに一体何があるのだろう。
 小さいころにわいた問いは大きくなるにつ
れ、雪だるまのようにふくらんでいったこと
だろう。
 近隣の沖縄にはユタと呼ばれる占い師がい
て、人々の困りごとや悩みごとの相談にのっ
てくれるそうだ。
 ひょっとしたら、三枝子はユタの血筋かも
しれなかった。 
 なで牛はみるみるうちにからだ全体に血の
気を帯び、青銅のからを引き裂いてしまう。
 二三度、大きくからだをふるわせると、も
おおっと鳴き叫び、境内を我がもの顔で、のっ
しのっしと歩きまわる。
 三枝子は勝手にそんな場面を思い描き、や
せた体をふるわせた。
 それにしても、どうして天神さまが子を授
けてくださるのか。合点がいかない。
 菅原道真さまはかの藤原氏に畏怖の念を抱
かせるほどの立派な学問の神さま。
 あまりに立派な才能ゆえに、藤原氏のそね
みをかい、大宰府に左遷させられたのだ。
 あのママ友は、わたしに、A天満宮のご神
体は、子授けの効能をお持ちだと教えてくれ
たけれど、ひょっとして勘違いをしたんじゃ
ないのだろうか。
 道真さまは、子どもの守り神として知られ
てはいるけれども、子を授けてくださるお方
とは……。ほかの誰に訊いても知らないとい
われた。
 三枝子の不安はつのった。
 しかし、信じる者は救われる。
 ここに子をなせ、授けてくださいと、三枝
子は牛の腹を何度も何度もなでさすった。
 牛がくすぐったくて笑い出すんじゃないか
しらと思ったほどだった。
 社務所から、はかま姿の男の人がこちらに
向かってやって来るのが見えた。
 三枝子は恥ずかしくなり、後ろ髪をひかれ
る思いで立ち上がり、ご神体がおられる本堂
に歩み寄った。
 かぶりを二度振り、柏手をパンパンとかっ
こよく打とうとしたが、失敗。
 ぺちゃ、ぺちゃっとしか鳴らず、がっかり
した。
 「そんな音じゃ、願いが決して神さまに届
くことはないぞ」
 怒った牛に、腰のあたりをがぶりとかまれ、
むりやりうしろに引き倒されそうになった気
がして、ぞくりとした。
 賽銭箱わきで、希望者はおみくじを引くこ
とができる。
 赤い小銭入れのチャックをジイといわせて
百円玉を二枚、二本の指でつまみあげ、差し
入れるべき穴に入れ終え、天を仰いで右手を
箱のなかに差しいれた。
 

 
 
 
 
  
 

 
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

つむじまがり  (1)

2021-05-14 22:56:35 | 小説
 種吉の学校ぎらいは、何がどうだからとい
うわけではない。
 あえて言えば、人にああだのこうだの指図
されることがいやでいやでたまらなかった。
 「いつまでも、座敷で寝とる。お前はふと
んかぶって何しとるんや。はよせんと学校お
くれるやろが、ええっ?」
 となりの部屋でお茶をすすりながら、息子
の様子をうかがっていた母の美代が、こらえ
きれずに声をだした。
 感情をおさえているぶん、声にすごみが感
じられる。
 種吉はうんともすんとも言わない。
 ふとんのはじを両手でしっかりつかみ、美
代が引っぱがしに来るのにそなえた。
 やたらと歯ぎしりしてしまう。
 種吉はこうして寝転がっていることに、も
のすごい抵抗があった。
 小学生の時分なら、ほかのやり方を選んだ。
 五右衛門風呂に入り込んでふたをするとか、
押し入れに隠れたり、物置にひそんだりとか。
 当時の方法はもはや、母には通じない。
 正面突破でいくしかなかった。
 突然美代が仁王様の表情で立ち上がった。
 たたみを踏みしめ、ずかずかと歩いた。
 茶の間と座敷をへだてるふすまの取っ手に
右手をそえたとき、彼女はぴたりと動きをと
めた。
 ふすまをがらりと開け、どら息子を大声で
どなりつけたい衝動にかられたが、彼女は奥
歯をかみしめた。
 ほんの数センチ、片目でのぞけるくらいの
すき間をあけただけで、いったん引き下がっ
てしまった。
 茶の間にもどり、飲み残しの茶をすする。
 種吉からできるだけ距離を置きたいと思い、
ほころびを直していた夫の作業服を手にする
や、風呂場の脱衣所まで歩いて行き、丸椅子
にやおらすわりこんだ。
 手がふるえたりして、うまく集中できない。
 針が指を刺してしまい、
 「あっ、いたい」
 と叫んだ。
 飼い猫のクロが、彼女がすわっている椅子
のあしにしきりにまとわりつく。
 「ちょっと向こうへ行ってしもてんか。か
あちゃん、今ちょっと機嫌がわるいんや」
 そういうなり、美代は左足でクロを追い払っ
た。
 クロは大げさにぎゃっと鳴いて、土間をか
けおりた。
 「なんでまた、あんなすかたん、生まれて
きょったんやろ。ほんまにもう……」
 ぶつぶつつぶやくと、胸がどきどきしはじ
める。
 (あかん、怒ったら、また、血圧が高くなっ
てしまう)
 美代は、おちつけ、おちつくんや、と自分
に言い聞かせた。
 柱時計が、すでに九時をまわった。
 (なるだけ早く、担任に、きょうは欠席す
ると電話しなくてはならない)
 種吉はその時刻を見て、ちょっといらいら
したものの、美代との心理戦に疲れ果ててし
まったのか、すうすう寝息をたてはじめた。
 
 
 

 
 
 
コメント (5)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする