油屋種吉の独り言

日記や随筆をのせます。

MAY   その45

2020-03-30 22:01:48 | 小説
 玄関の扉は猫がちょうど通れるくらいのす
き間が空いている。
 ジェーンの居所を確かめようと、メイが扉
を全開にした。
 玄関先に、男女の区別が一目でつかないよ
うな人がたたずんでいる。
 メイは驚きであっと声をあげた。
 森の色に染まるような、保護色っぽい装い
がメイの目を引いた。
 厚手の上着にパンツ。
 たぶんジェーンなんだろうが、丁度もの影
に入っていて、彼女かどうかはっきりしない。
 「誰なの。そこにいるのは?」
 メイはおそるおそる訊いた。
 「わたしよ、わたし」
 メイの聞き覚えのある女の声だった。
 「ごめん。わたしといったってね。影になっ
てて顔がよく見えないわ。もっとよく姿を見
せてちょうだい」
 「うん」
 妙に沈んだ声をだしてから、その女性は二、
三歩前にすすんだ。
 彼女の顔に光があてられた。
 「ああ、やっぱりジェーンなんだ。でもど
うしたのかしら。いつものあなたらしくない」
 メイが知っていたジェーンはいつも活発で
暗い表情など、ほとんど見せたことがなかっ
た。
 衣服が黒っぽいからだろうか。いや、それ
ばかりのせいじゃない、とメイは思う。
 「まあいいわ。もうわかったから。でもど
うしたっていうのよ。ここまで来るのに自転
車じゃずいぶん時間がかかったでしょうしね。
とっても怖かったでしょ。そんな目にあって
まで、あなた、わたしのところに来る理由が
あったの?」
 「うん、まあ、それは・・・」
 ジェーンは言いよどんだ。
 「こんな時代だし、途中で事件に巻き込ま
れないとも限らないしね。隣のケイなんてね、
かわいそうなものよ。やつらに拉致されて」
 ジェーンはふいに顔をあげ、きっぱりした
口調で、
 「あの子のことは言わないで。あんまり仲
良くなかったしね。小学校の時から。でもね、
もちろん、かわいそうだとは思うわよ」
 「そうよね。ケイったら、ジェーンとはよ
く遊んだでしょうしね」
 「それはもう。遊ばない日はなかったくら
いだったわ。それだけにね・・・」
 「わかる気がする」
 メイが同調すると、ジェーンは背筋をしゃ
んと伸ばした。
 「そうそう、その調子。そうでなきゃ」
 メイの口調に、うふふっとジェーンは笑っ
てみせた。
 足もとでじゃれていた三毛猫を、ジェーン
は、ほら、ぽっけと呼び、両手で抱き上げた。
 (ジェーンはよほどの覚悟をもって自分に
会いに来たらしい)
 そう思ったメイはジェーンを誘い、塀には
め込まれている戸口から、森の中へ数メート
ル一歩踏み出した。
 「ほら、ここなら誰かに聞かれる心配はな
いでしょ」
 メイはそう言い、倒れて横たわっている木
に、ジェーンと二人ならんで腰かけた。
 「ひょっとしてうちで何かあった?誰かに
ひどく叱られたとか」
 メイが水を向けたが、ジェーンはすぐには
返事をしない。
 三毛猫の喉をしきりになであげる。
 ごろごろという鳴き声が次第に高くなって
くる。
 それは、メイにとって、耳ざわりなものに
なるのにさほど時間がかからなかった。
 「もううるさいわね。ぽっけちゃんの声っ
てさ」
 「いいじゃないのさ」
 「うん。まあいいけどさ。ごろごろしても。
あなたがちゃんと話してくれれば。わたし絶
対に誰にも言わないわ」
 メイの声が一段と大きくなった。
 「ほんと、ほんとよね」
 「はい。今まであなたにうそ言ったことあっ
たかしら?」
 ジェーンは首をよこに振り、胸に抱えてい
た猫を地面に下ろした。
 「ぽっけはそこで待ってなさい。わたしメ
イちゃんと大事なお話があるんだから。こと
によったら、あなたにも運が向いて来るかも
よ」
 三毛猫は話がわかったのか、みゃああっと
鳴くと、近くの草むらに姿を消した。
 メイはちょっと前に起きたことをふり返っ
てみた。
 途中から折れたり、焼け焦げた木ばかりの
景色の中でひとりたたずんでいるジェーン。
 彼女を目にしたとき、メイは言いようのな
い哀しみにおそわれた。
 それは、ジェーンのこころの奥からわきあ
がって来たものが、メイのこころの琴線に触
れたから違いない。
 「助けてほしいのメイ。お父さんは闘いに
行っちゃってるし、お母さんは体調がわるく
て入院してる。家もめちゃめちゃだし。わた
したちきょうだいみんな、ろくに住むところ
も食べるものもないの」
 ジェーンはおもむろに、針葉樹の幹に立て
かけてある赤い自転車に乗ると、ゆっくりと
ペダルをこぎだした。
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ちょっと、前橋まで。  (1)

2020-03-29 18:29:33 | 日記
 きのうは、せがれとかみさんのお供
でちょっと遠出のドライブ。
 わたしの役どころは、車の運転。
 若い頃からわたしが車の運転が好き
なところを買われたらしい。
 目的地は利根川沿いにある、かみさ
んの知人の家。
 スマホのナビシステムで検索すると、
所要時間はおよそ三時間である。
 車のナビシステムはとっくの昔に故
障していたため、わたしは大きな不安
をかかえての出発となった。
 だが、予想に反して、スマホのナビ
はきっちり仕事をこなしてくれた。
 難をいえば、なにがなんでも、高速
に乗せたいらしい。
 一般道でいいのに、といやがるわた
しを、ナビは伊勢崎あたりで北関東道
に引きずり込んでしまった。
 「おいおい、どうする?高速料金っ
てのは?これは想定外だったよな、そ
れにさ・・・」
 一般道から高速道にいたる曲がり道
で、かみさんとわたしとのやりとり。
 「そんなこといいわよ。ここからそ
んなに遠くないんだし。大したお金が
かからないわよ。このまま突っ走って
ちょうだい」
 「ええっ、ほんまに。そんなの困る
んだよなあ」
 「なっなんで困るのよ。男らしくな
いわね。しゃんとして、しゃんと」
 大きな不安がわたしのこころにのし
かかってくる。
 高速を走る準備をしていなかったか
らである。
 頭の中で、瞬時に、車を点検する。
 四本ともスタッドレスタイヤのうえ、
高速用の空気圧に調節していない。
 わるくすると、パンク、なんてこと
になったら、大事故につながりかねな
かった。
 わたしは是が非でも一般道にもどり
たいと思った。
 その時の車の位置はというと、運転
席から見て右側に、まっすぐな黄色の
実線がずっと描かれている。
 もはや後戻りするために、車線変更
することがかなわない。
 わたしはこころを決め、ええい、ま
まよとばかりにインターに突き進むこ
とにした。
 あとは自分の運転技術を信じるしか
なかった。
 ぐるっとまわりこんで行くとようや
くゲートが見えてきた。
 だが不慣れなため、どこのゲートを
くぐったらいいか、わからない。
 赤や緑のランプが点灯した、いくつ
かのゲートの約十メートル手前で、の
ろのろ運転になった。
 「父ちゃん、どこへ行くんだよ、そっ
ちじゃない、あっち。一般って書いて
あるだろ」
 せがれが悲鳴に近い声をあげる。
 わが車の後ろについていた貨物トラッ
クが大きく警笛を鳴らした。
 いつもなら気が動転し、頭がまっし
ろになり、どうしていいかわからなく
なってしまう。
 だがどうしたことか、わたしはわり
とおっとりしていた。
 きっと年老いたせいだろう。
 はいよ、とばかりにわたしはゆっく
りハンドルを切ると、遮断機の下りた
通路にむかった。
 器械がぺろりと、舌ならぬ紙切れを
出している。
 わたしはそれを、えいっとばかりに
右手で抜き取った。
 よし、行くぞ、とこころの中で言い、
ひとつため息をつくと、いざ鎌倉といっ
たこころ持ちになった。
 スピードアップを図るためのレーン
で、それなりにアクセルを踏み込んで
いく。
 走行車線で、70キロ。
 「なにやってんの。もっと出して」
 かみさんが後部座席で金切り声をだ
した。
 後ろから走ってきた車が、どんどん
前に出ていく。
 なに言ってんだい。おれはこの車の
ことを考えて、運転してんのっ。
 のどまで出かかった言葉を、わたし
はぐっとのみこんだ。
 
 

 
 
 
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MAY  その44

2020-03-23 17:53:58 | 小説
 森の中をひんやりした風が通りぬけていく。
 冬をまじかに感じるようになり、人々のこ
ころはますます暗くなった。  
 昼間、人々は、もっぱら地下室住まい。
 もぐらのような暮らしに、不安やうっぷん
がつのるばかりだ。
 彼らのこころは日に日に荒んでいき、日常
のささいなことでもすぐにかっとしてしまい、
収拾がつかなくなった。
 小中高の学校の建物は、ほとんど壊されて
しまっているから、生徒たちは家庭で学ばざ
るをえない。
 そんなある日の早朝。
 めずらしく、春を思わせる陽気だった。
 メイは、高校の先生がよこしてくれたホー
ムワークのその日の分を早めにやり終え、充
実した気持ちになっていた。
 南向きに造られた部屋の窓をとおして、朝
の光が差しこみはじめている。
 メイのお気に入りのハーブ茶を蝶がらのカッ
プにいれ、三畳ばかりのメイの部屋にやって
来た。
 「メイや、ちょっとは休んだら。あんまり
根を詰めると、からだにわるいからね」
 メリカがメイの背後で語りかけても、椅子
にすわったままのメイは。口をきかない。
 ふいに机のわきにあった、鳥の図鑑をばさっ
と机の上に置くと、一枚、二枚とページをめ
くりだした。
 「もうメイったら。何をそんなにおかんむ
りなんだい。わたしに当たるのは、お門違い
ってもんだろ」
 「そんなのわかってる。ドアが閉まってた
でしょ。入るときにはノックくらいしてちょ
うだい」
 メイは椅子から立ち上がると、右手で机の
上をバンッとたたいた。
 「おおこわい。何すんのよ。おばさんを殺
す気?近ごろね、血圧が高いの。ドキドキさ
せないで」
 「わかったわよ」
 メイはもう一度椅子に腰かけ、両手で長い
髪の毛をつつむようにし、上から下へとなで
ていく。
 こうすると気分がやわらぐのを、メイは幼
い頃から知っている。
 「ねえ、メリカおばさん」
 「何なのよ。急に優し気な声だして。気味
がわるいわ」
 「ちょっと森に行ってもいい?」
 「いいわけないでしょ。もう忘れたの、ひ
どいめにあったじゃない」
 「ちょっとだけでいいのよ、だめ?わたし
ねだいたいわかったの。どこの誰さんが、わ
たしんちをうらやんでるかってことが」
 「良かったわね。それさえわかれば、問題
が解決したようなものね」
 「ああそう、でもね。それでもなせがいら
いらするの」
 「困ったわね。わかる気がするけど、わた
しだってどうしたらいいか。とにかく森へは
行かないでちょうだい。何が起きるかしれな
いから」
 メリカは優しく語りかけた。
 メリカおばさんにつっけんどんな態度をと
るのは、あきらかに八つ当たり。
 失礼きわまりないことだ、とメイはじゅう
じゅうわかっている。
 怒りをぶつける相手はメリカおばさんでは
なく、自分を拉致した連中だ。
 しかし彼らをとことん責めたところで、問
題は根本的に解決されない。
 (ほんとうの敵はお父さんやお母さんをエッ
クス星から追い出したやつらだ)
 メイは、ふとそう思ったが、一番ふがいな
いのは自分自身に違いない、とも思う。
 この頃、前より、力強くなってきたように
思えるが、この程度ではまだまだ。
 お母さんの期待に沿うようになるにはどう
したらいいのか。どうやったらもっと力を出
せるのか、メイはわからなかった。
 「そうだわ。ケイを陥れた連中が早くこの
星から出て行ってもらったらいいんだわ」
 ふいに、メイはそうつぶやいた。
 「何だって、メイ?もう一度言ってごらん」
 メリカが、メイに問いただす。
 「ああもう、うるさいったら、ありゃしな
い。おばさん、済まないけど、出て行ってく
れる」
 メイは、机の上を、両のこぶしで、ドンド
ンたたいた。
 これ以上、メイの部屋にいるのはまずいと
感じだのだろう。
 メリカが急ぎ足で部屋を出た。
 とたんにドア付近で、みやああと猫の声が
した。
 (あれれ、うそでしょ、わたし、猫ちゃん
なんて飼ってないのに。どこから来たのかし
らね、ほんと)
 メイの瞳がぱっと輝いた。
 「あれっ、どこのねこちゃんなの。こっち
へおいで。おいしいものあげるわ」
 メイは左手にビスケットを一枚持ち、椅子
がうしろに倒れないよう、右手で椅子の背も
たれをつかんで立ち上がった。
 メイの足もとにじゃれついて来た三毛猫を、
彼女は両手でかかえ上げた。
 「まあ、きれいなねこちゃんだこと。かわ
いいわね。あなたどこから来たの。この辺じゃ
見かけない子ね」
 メイが三毛猫の首のあたりをなで始めると、
彼女はごろごろごろ喉を鳴らした。
 「メイちゃん、お友だちよ。ジェーンちゃ
んが来たわよ」
 間延びしたようなメリカの声が、遠くから
メイの耳にとどいた。
 
 
 
 
 
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MAY  その43

2020-03-19 14:12:37 | 小説
 草むらから現れたのは、小さな鳥。
 ふらつく足どりで、メイがいる方にむかっ
て来る。
 かなり年老いている。 
 羽は濡れてうす汚れ、猫にでもひっかかれ
たのだろう、あちこち羽毛が逆立っていた。
 寒いのか、時折、体をひくひく震わせる。
 ずいぶんな変わりようだが、メイは自分の
大切な友達、ピーちゃんだとわかった。
 メイはかけより、地べたにしゃがみこむと、
右手を差しだした。
 「ピーちゃんでしょ、あなた?しばらく会っ
てないけど、面影があるもの。どこかけがし
てるのね?きっとそう」
 メイの目がうるむ。
 小鳥はなにも応えず、やっとの思いでメイ
の左手のひらにのると、にわとりが卵をあた
ためる格好で、すわりこんだ。
 「ちょっと待ってね」
 メイは右手をつかい、ずぼんのポケットか
らハンカチをとりだすと、ピーちゃんのから
だを丹念にふきはじめた。
 小鳥の体を温めようと、メイはなんどもな
んどもはあはあ、熱い息をふきかけた。
 いくらか元気が出てきたのだろう。
 小鳥は閉じていたまぶたをあけ、なんとか
してさえずろうとした。
 「いいの、いいの。何もしなくて。あなた
はわたしのそばにいてくれるだけでいいのよ。
今までほんとにありがとう。わたし、ほんと
にうれしかったわ。今度はあなたの子どもに
まで、助けてもらって」
 メイはそう言って涙ぐんだ。
 ピーちゃんの体はメイのふたつの手に包ま
れ、モンクおじさんの家に向かった。
 当然のことながら、モンクの家の周辺は騒
がしかった。
 メイの帰宅に気づき、駆け寄ってくる人々
ひとりひとりに、メイは丁寧に頭を下げた。
 「すみません、すみません。わたしの不注
意で。道に迷ってしまって」
 メイはうそをつくことにした。
 (ひょっとして彼らのなかに、敵が、今回
の事件の首謀者がいるかもしれない)
 彼女はそう思った。
 「なんだい。忙しいさなかに来てやったの
にな。自分で迷子になったんだって?」
 「まあいいやね。無事に戻って来たんだか
ら。他人の子でもうちの子といっしょ。恩に
きせるんじゃねえ」
 ひとりふたりと、群衆の中から声が上がる。
 「さあ帰ろう。もう用はないやね。大事な
大事なメイちゃんがお戻りなんだから」
 木こりらしい身なりをした中年の男が、黒
い毛糸のセーターの右腕をまくってから、そ
の手でこぶしをつくった。
 彼はそのこぶしを、天に向かって無言で突
きあげるようにした。
 「そうだ、そうだ。もう用は済んだ。モン
クんちはいいな。ちょっとのことでも、こう
やってみなが来てくれるんだから」
 彼の連れが、調子を合わせる。
 メイを出迎えに家から出ていたモンクに対
して、中年男とその連れは挑むような視線を
投げかけた。
 「みなの衆、ほんとにありがとう。心配か
けてしまって、すまない」
 モンクは苦笑いをうかべ、群衆にむかって
深くこうべを垂れた。
 「へん、おらちの娘なんか、いなくなったっ
て誰ひとり心配してくれやしねえ」
 さっきの中年男が振り向きざまに、捨てぜ
りふをはいた。
 モンクは怒った。
 彼の顔がさっと赤く染まる。
 メリカはそれを見逃さず、モンクを軽く抱
いた。
 「おまえさん、ここは辛抱おしね」
 メリカは家の中に取って返すと、かごに山
盛りのサツマイモを持って出てきた。
 「さあさあ、これを持ち帰って、奥さんと
いっしょに食べておくれ」
 メリカの一言で、その場の険悪な空気がお
さまってしまった。
 
 
 

 
 
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晩秋に、伊勢を訪ねて。  (13)

2020-03-18 17:39:58 | 旅行
 「運転手さん、どうもお世話になりました。
こちらのホテルのみなさんのサービスぶりに
は頭がさがりました。いい思い出がたくさん
できましたよ。機会がありましたら、また日
光をたずねてくださいね」
 鳥羽駅で送迎用のバスをおりるとき、わた
しはそういって、見知ったバスの運転手に別
れを告げた。
 「楽しんでいただけたようで、わたしも嬉
しいです。そうですね。機会があれば行って
みます。今度は、奥さまとおふたりでお越し
ください。お待ちしています」
 彼がそう言ってから、わたしたちは互いの
顔を見た。
 そのとき、わたしは彼の心のひだのひとつ
に触れた気がした。
 ほんの少しのわたしとの会話。
 それが、彼の若かったころの思い出を、い
とも簡単によみがえらせる働きをしたかもし
れない。
 もちろん、わたしもそう。
 苦しかったこと、楽しかったことを、即座
に思い出していた。
 ひょっとして、今言ったことはすべて、大
いなる誤解かもしれない。
 でも、それはそれでいい。
 「若いという字は苦しい字に似てるわ」
 そんな歌の文句があったのを、今でも覚え
ている。
 わたしにしても、若いがゆえに世の中を知
らず、血のにじむような日々を過ごした。
 先に時間がいっぱいあるように思え、みん
ながみんな何か不安をかかえて生きていた。
 直情径行なわたしと違い、運転手の彼は熟
慮タイプ。
 彼は、じゅうぶんに大人だった。
 そんなことを、わたしは彼の表情から察す
ることができた。
 ひとつ勉強になった。
 旅の恥はかき捨てとばかりに、うきうきル
ンルン気分なのは、わたしひとりだったのか
もしれない。
 こんなわたしを、本当のところ、彼はどう
思ったか。
 何も考えず、ただ楽しむ。
 そんな時間もあってもよい。
 無用の用、である。
 あの運転手さんともっともっと彼と話がし
たかった。
 だが、運転手さんには彼なりの考えがある。
 彼なりの境遇がある。
 わたしにはわたしの、かれにはかれの五十
年にも及ぶ川の流れがあったのだ。
 何よりも、運転することが彼の現在のなり
わい。
 見ず知らずの、赤の他人にすぎないわたし
とだけ、特別な思いで、語り合うことなどで
きるはずがなかった。
 一瞬の出会い、そして別れ。
 そんなえにしも世の中にはあるのだ。
 余韻の残る別れ方だった。
 これからの人生に、彼との出会いがひとつ
の教訓になりえただろう。
 せがれに感謝しなくてはなるまい。
 こちらに着いたとき運転手さんと話し、わ
かったことだが、彼はわたしとほぼ同い年。
 戦後二十年くらいしか経たない時代の空気
をともに吸ってきたということである。
 1970年、大阪で万国博覧会が開催。
 ベトナム戦争。
 米国はベトナムに多くの若者を兵として送
り続けたが、抵抗運動は激しさを増した。地
下にトンネルを掘り、唐突に米兵を攻撃した。
 結局、おびただしい量の武器を使用しても、
米国は勝利にはいたらず、国内では徐々に厭
戦気分がまんえんしはじめた。
 日本国内でも、反戦運動が高まりをみせて
きていた。
 疾風怒涛の時代だった。
 彼の話によると、彼は二十代の頃に日光を
訪れたようだった。
 わたしも二十一の夏にそこを訪れている。
 JR日光駅は今も昔もかわらずに、明治の
姿そのまま。
 あたりの景色もほとんど変わらない。
 考えてみると、彼と出会ったことは奇跡に
近い。
 たとえこれきり彼と再会できずとも、互い
の心の奥底に残るだろう。
 せがれに感謝しなくてはなるまい。 
 過ぎ去った思い出にひたる。
 それも旅の醍醐味である。
 (了)
 拙作を読んでいただき、ありがとうございました。
 
 
 
 
   
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