油屋種吉の独り言

日記や随筆をのせます。

種吉版「おくのほそ道」

2024-06-30 03:12:20 | 随筆
 月日は百代の過客にして
        行きかふ年も又旅人也。
 舟の上に生涯をうかべ
        馬の口とらえて
 老いをむかふるものは
        日々旅にして
           旅をすみかとす。

 
 「おくのほそ道」(元禄15年刊)の巻頭である。
 元禄文化期に活躍した俳人松尾芭蕉の紀行
および俳諧。

 1689年春に江戸深川を舟で出発、千手から
陸路を北上。
 当時芭蕉は46歳。弟子で6歳年下の曾良を
伴ってのふたり旅だった。

 最大の目的地は、松島と平泉それに象潟で
あった。
 
 「月日というものは、永遠の時間を旅する
旅人みたいなもので、やって来ては去ってい
く年月も、やはり旅人のようなものなのだ。
舟の上で一生はたらく船頭さんも、馬をひい
て年をとっていく馬方さんも、毎日の生活
そのものが旅なわけで、旅を自分の家にし
ているようなものなのである」

 芭蕉は、門人曾良ただひとりを連れ、てく
てくと歩きに歩いた。

 東北から北陸へと歌枕などをまわり、終着
点は大垣。
 5か月間2400kmにおよぶ長旅だった。

 一方わたしと言えば、近畿から箱根の山の
トンネルをひかり号でくぐりぬけた。
 そして関東へ。

 友人宅などをめぐりにめぐり、ついには鹿
沼へやって来た。

 この地にも、芭蕉らの足跡をたどるよすが
がある。

 白沢街道を黒羽そして雲巌寺へ。
 わたしも40代の頃、芭蕉の歩いた道を少し
ばかりたどった。

 それでも漂泊の思いやまず、北海道へ。
 と行きたかったが、諸事情で断念。
 
 鹿沼で暮らし始めて、早や半世紀。
 いつか芭蕉翁が歩いた道をすべて、歩い
てみたいもの。
 そう思っているだけのことだった。

 結婚後、ひとりふたり三人と子ができるた
びにせわしさがつのった。

 さすらい欲は頭の隅に追いやられた。
 そしていつの間にやら、ずいぶんと月日が
経った。

 上方(かみがた)と話し言葉が違う。
 発想も生活習慣も異なる。
 不慣れな土地。

 働くのに楽ではない日々が数十年続いた。
 
 しかしながら、何やら楽しみを、と生来の
好きを求めた。

 クレヨンでのお絵描きはあまりに幼い。
 歌に活路を見出し、童謡から歌謡曲へ演歌
へと。

 文学はずいぶんと広くて、どう書いてもい
い随筆や小説へ。
 だが才は浅く、一流には届かず。

 決まりのある俳句や短歌は、うたごころあ
りといえども、一行たりとも書けず。

 さいわいにして歌謡界の大御所のバラード
を唄ったのが縁になり、名を残す。

 そうしてあちこちの舞台に、思うままに出
ているうちに眼が、耳が、歯が……。
 そして筋肉の衰えがきわまりし時。
 思わぬ災難にあいし。

 何事にも時(とき)がある。

 生まれるにも。
 死ぬるにも。
 
 人と会うにも。
 別れるにも。

 事故や災難にあうにも。

 まあ、人生50年。
 それ以上生きるのは相当の無理があるよ
うだ。

 今や、人は先進医療にすがり、百歳まで
はと考えるようになった。

 還暦の前後のこと。

 わたしはわたしの人生
 おおよそ八十歳まで。
 勝手にそう決めつけた。

 それがなんとも具合のわるいことに……。
 強く願ったわけではないが、なんども繰
り返して思うことになり果てた。

 わが潜在意識の番人は、
 「ああ、お前は八十を過ぎて生きるのはい
やなんだな。よし、それならばその通りに
してやろう」
 と、わが根深い思いを見透かされた。

 生きなおしは困難をきわめた。

 しかし、ついには
 「でも、大丈夫」
 と切り返した。

 国外はむろん、国内でさえ、いまだ訪れ
ない土地が少なからずある。

 数えで七十六歳。
 機会があればどこへでも行きたい。
 そんな思いが強くなった。

 幸いなことに、このたび、富士のすそ野
を訪れる機会がふってわいた。
 一泊二日。
 山梨の郡内地方で教員になるため、学ん
だり遊んだ5年間をかえりみる機会を得た。
 
 いざ行ってみると、観光よりも、人に興
味をそそられた。

 「元気でね」
 幼い子に会うたびに、そんな言葉を投げ
かけてしまう。

 大人たちには、工夫をかさねた。
 短い時間で打ち解けるよう努め、より親
しみのある会話を待ちのぞんだ。

 いつの間にか、生きとし生ける者に対す
る愛着が強くなっていた。

 人の世に存在する理由も何も、あったも
のではない。

 ああだからこうだから。
 科学的思考、即ち因果の認識しようのな
い世界。

 自分とは何ぞや。
 宇宙とは何か。
 かむかえたが、依然として判らず。

 大いなる力の存在を認め、ありのままに
暮らそうと、さかしらな思いはすべて捨て
て成り行きにまかせることにした。

 生きるのが楽になった

 人生航路の目的地がうすぼんやりと見え
てきた。

 我が、おくのおくのほそ道。
 長い長い旅路の終わりが近づいている。
 
 

 
 


 

    
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いかに生きるか。

2024-06-12 18:15:23 | 随筆
 なんとも生きづらい時代ではある。
 齢七十五になって、そう思う。

 しかし、生きている限り、嘆くばかりで
はいられない。

 自分に何が可能か。
 試してみたくなる。

 いじめは日常茶飯事。
 おさな子が親に虐げられるにいたっては
何をかいわんやである。

 最近はとみに涙腺が弱くなってしまい、
 そんな話を聞くと、たまらなくなる。

 みっつやよっつの子でも、親は親。
 ぶたれようが、蹴られようが、親を信じ
てついていこうとする。

 その子の心の内を思うと、いたたまれな
くなってしまう。

 「そんなに虐げるのなら、決して生むべき
ではなかった」
 声を大にして、訴えたい。

 いつだったか、こんな事件があった。

 学校に刃物を持ち、男が侵入した。
 生徒を追いかけまわし、手当たり次第に
ふかでを負わせた。

 致命傷を負いながらも、一歩二歩と歩き、
ついに力尽きた子もいた。

 大阪で起きた事件だった。

 秋葉原で起きた事件をおぼえておられる
方がたくさんおられることだろう。

 地方から中年男がトラックに乗り、上京。
 人でにぎわう大通りにしゃにむに突っ込
んで行き、道行く人を次々にはね飛ばした。

 車が使えなくなっても、男はその場から
逃走しようとはせず、持参した刃物を、思
う存分ふるうありさまだった。

 少年Aの事件をご記憶だろうか。

 ある小学生の男子の首をすっかり切り取っ
てしまい、それを、彼が通っていた小学校
の校門の上にさらした。
 犯人がなんと中学生だった。
 被害者のご家族の悲しみはいかばかりか。

 少年心理について、数多くの学者が意見
を述べられているのを耳にしたが、どれも
的を得たものとは思えなかった。

 鬼の仕業と言うしかない。

 人の世が汚れに汚れてしまい、もはや自
浄作用を失くした時、鬼が何処からか、こっ
そりしのびこむ。

 「我々だけが正しい」
 そう思い込んだ時にも、悲劇が起きる。
 むかしの内ゲバ、地下鉄サリン事件を少
しふりかえってみるだけで、わかる。

 表情が誰もかれも同じようで、口をつい
て出る言葉も一様である。

 人間は動物である。
 だが、精神を持っている。
 考える機能を有しているのだ。
 この働きを充分に使わない手はない。

 「初めに言葉ありき」
 「世界を創った言葉は人間を創る」

 その実用性、コミュニケーションの手段
としてのみ、言葉があるわけではない。
 「言葉そのものが価値なのだ」

 ひとつの水槽に、入るめだかのかずは知
れている。
 許容量がある。

 一定程度以上に増えると、めだかがおか
しくなってしまい、共食いを始めたりする。

 人の世も同様であろう。

 ロシア軍が侵攻したウクライナの惨状。
 眼を覆い、耳をふさぎたくなる。

 西側と東側の体制の違い。民主主義と全
体主義などなど。
 長年にわたる紛争の種がとうとう芽を出
し、次々に葉をつけ始めた。

 戦火は広がりつつある。
 永らく中東でくすぶり続けていた負のエ
ネルギーも、ついに火山のごとく爆発した。

 イスラエルとパレスチナの争い。
 大人も子供もない。
 どちらかが消滅するまで続くように思わ
れる。

 憎しみが憎しみを生む。
 もはや誰もその火を消すことができまい。
 燎原の火のように燃えさかる寸前だ。

 テレビの中の世界にとどまらない。
 もうすぐわれわれの身近に迫ってくる。

 戦争の時代を生きることになる。
 それでも、その中で、一個の人間として
善く生きることである。
 言葉を正しく使うことだ。
 
 
 


 
  
 
 
 
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生まれついてのせっかち者で。

2024-06-01 08:34:26 | 随筆
 いつの間にか古希を過ぎ、喜寿に近づくきょう
この頃である。

 もはや若くはないなと感じるのは、どんな時だ
ろう。

 つい最近、こんなことがあった。
 一反に満たない田んぼを耕そうとした。
 八馬力の耕運機をつかい、表面をならそうとこ
ころみた。

 その機械、なんと昭和四十五年製。
 爪をひんぱんにまわすと、どこからかオイルが
滴ってくる。

 おそらく機械内部の小さな鋼鉄の球がすりきれ、
その隙間からオイルがにじみだしてきているのだ
ろう。

 購入した機械屋さんに問いあわせると、
 「もう、部品がないんですよ」
 その一言でかたづけられた。

 広い田んぼの耕すのに、躊躇せざるをえないよう
なご老体である。

 「この機械、おらに似てるな、まあなんとか共に
がんばってくれやな」
 と声をかけ、ハンドルあたりをなでさすった。

 我が家には息子が数人いるが、だれひとり、 
「おれがやるから、父さんはやすんでいなさい」
 間違っても、そうは言わない。
 「おれ、やらないかんね」
 と、ぷいとあらぬ方を向く。

 当然、老いたる馬どうようの、わたしの出番とあ
いなる。

 田んぼや畑に出て、ほぼ五十年。
 むかしとった杵柄とばかりに、ジーゼルエンジン
をかける。

 小さな取っ手に左手をかけ、右手でクランクの形
をした金属製のパイプの穴を、エンジン部分のでっ
ぱりに差し入れる。
 力強く、右手を、時計と同じ方向にまわす。
 一度ではエンジンがかからない。

 燃料は軽油。ガソリンより火がつきにくいのだ。

 二度、三度、四度、……。
 ころがらないよう、両脚を、コンクリートの床に
踏みしめた。

 (もうこれくらいで点火するだろう)
 クランク型のパイプをまわすのをやめた。
 だが、機械はプスッと煙をひと息吐いたのみ。

 もう一度やり直しである。
 ボンッとエンジンがかかった時が、ほっとする瞬
間である。

 この田んぼまで出向いて来るのにも、ひと苦労。
 タイヤの空気圧の違いで、右に行ったり、左に行っ
たり。
 なんとかなだめながら、片道、五六分かけこの田
んぼまでやってきた。

 爪も摩耗している。
 大きな石をひっかいたりすれば、おっかけないと
も限らない。

 耕す前の準備段階で、ビニル袋をたくさん持って
きて、そこに川原石をひろって入れた。

 この辺りはむかしむかし、大川が流れていた。

 「さあ、やっとくれ」
 と、機械に声をかける。

 きつい段差だと、機械が前のめりになってしまう。
 バックで田んぼに入るのが鉄則である。

 と、そこまでは良かった。
 縦五十メートル、横十メートル。
 どのように耕すか。
 ここでかんがえあぐねてしまった。

 前進で動かせば良いところを、短い距離で耕そうと、
先ずはバックで動かしてしまった。
 それがいけなかった。

 爪の動きをオンにしたまま、後ろに進んだ。
 何かの拍子で、わたしが転んだ。

 機械は当然ながら、そのことを一切、とんちゃくし
ない。

 バックしたまま、わたしの体に、のしかかってくる
形になった。

 (このままじゃ、大けがしてしまう)
 そう思ったわたしは、なんとかして、身に迫った危
険から逃げることができないものかと考えた。

 爪が足をひっかく寸前で、わたしは起き上がった。

 先ずは、爪の動きをとめた。
 つづいて、機械自体の動きをとめた。

 八馬力の耕運機はとても重い。
 前のめりになったかと思うと、たちまち逆立ちして
しまった。

 「勝ってにしやがれ」
 である。

 「先祖さまが、守護神どうよう、おらの肩にのっかっ
ていてくださった」
 見えないものの力を感じた瞬間だった。

 昨年は、この田んぼが荒れてしまい、冬場には全面、
枯れ草だらけになってしまった。
 鹿やイノシシが入った。

 この耕運機と十六馬力のトラクターの調子がわるく、
農地なみに保全することがかなわなかった。

 ちょっと逡巡しているうちに、田んぼに雑草が生い
茂った。

 最近はゲリラ豪雨とやらで雨が多く、田んぼを保全
するのがほんとうに困難である。
 
 この人生、何が起きるか知れない。

 こうしてまた、記事を書き、読んでくださる諸氏と
相まみえることができるのはたまさかの僥倖ではある。
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