月日は百代の過客にして
行きかふ年も又旅人也。
舟の上に生涯をうかべ
馬の口とらえて
老いをむかふるものは
日々旅にして
旅をすみかとす。
「おくのほそ道」(元禄15年刊)の巻頭である。
元禄文化期に活躍した俳人松尾芭蕉の紀行
および俳諧。
1689年春に江戸深川を舟で出発、千手から
陸路を北上。
当時芭蕉は46歳。弟子で6歳年下の曾良を
伴ってのふたり旅だった。
最大の目的地は、松島と平泉それに象潟で
あった。
「月日というものは、永遠の時間を旅する
旅人みたいなもので、やって来ては去ってい
く年月も、やはり旅人のようなものなのだ。
舟の上で一生はたらく船頭さんも、馬をひい
て年をとっていく馬方さんも、毎日の生活
そのものが旅なわけで、旅を自分の家にし
ているようなものなのである」
芭蕉は、門人曾良ただひとりを連れ、てく
てくと歩きに歩いた。
東北から北陸へと歌枕などをまわり、終着
点は大垣。
5か月間2400kmにおよぶ長旅だった。
一方わたしと言えば、近畿から箱根の山の
トンネルをひかり号でくぐりぬけた。
そして関東へ。
友人宅などをめぐりにめぐり、ついには鹿
沼へやって来た。
この地にも、芭蕉らの足跡をたどるよすが
がある。
白沢街道を黒羽そして雲巌寺へ。
わたしも40代の頃、芭蕉の歩いた道を少し
ばかりたどった。
それでも漂泊の思いやまず、北海道へ。
と行きたかったが、諸事情で断念。
鹿沼で暮らし始めて、早や半世紀。
いつか芭蕉翁が歩いた道をすべて、歩い
てみたいもの。
そう思っているだけのことだった。
結婚後、ひとりふたり三人と子ができるた
びにせわしさがつのった。
さすらい欲は頭の隅に追いやられた。
そしていつの間にやら、ずいぶんと月日が
経った。
上方(かみがた)と話し言葉が違う。
発想も生活習慣も異なる。
不慣れな土地。
働くのに楽ではない日々が数十年続いた。
しかしながら、何やら楽しみを、と生来の
好きを求めた。
クレヨンでのお絵描きはあまりに幼い。
歌に活路を見出し、童謡から歌謡曲へ演歌
へと。
文学はずいぶんと広くて、どう書いてもい
い随筆や小説へ。
だが才は浅く、一流には届かず。
決まりのある俳句や短歌は、うたごころあ
りといえども、一行たりとも書けず。
さいわいにして歌謡界の大御所のバラード
を唄ったのが縁になり、名を残す。
そうしてあちこちの舞台に、思うままに出
ているうちに眼が、耳が、歯が……。
そして筋肉の衰えがきわまりし時。
思わぬ災難にあいし。
何事にも時(とき)がある。
生まれるにも。
死ぬるにも。
人と会うにも。
別れるにも。
事故や災難にあうにも。
まあ、人生50年。
それ以上生きるのは相当の無理があるよ
うだ。
今や、人は先進医療にすがり、百歳まで
はと考えるようになった。
還暦の前後のこと。
わたしはわたしの人生
おおよそ八十歳まで。
勝手にそう決めつけた。
それがなんとも具合のわるいことに……。
強く願ったわけではないが、なんども繰
り返して思うことになり果てた。
わが潜在意識の番人は、
「ああ、お前は八十を過ぎて生きるのはい
やなんだな。よし、それならばその通りに
してやろう」
と、わが根深い思いを見透かされた。
生きなおしは困難をきわめた。
しかし、ついには
「でも、大丈夫」
と切り返した。
国外はむろん、国内でさえ、いまだ訪れ
ない土地が少なからずある。
数えで七十六歳。
機会があればどこへでも行きたい。
そんな思いが強くなった。
幸いなことに、このたび、富士のすそ野
を訪れる機会がふってわいた。
一泊二日。
山梨の郡内地方で教員になるため、学ん
だり遊んだ5年間をかえりみる機会を得た。
いざ行ってみると、観光よりも、人に興
味をそそられた。
「元気でね」
幼い子に会うたびに、そんな言葉を投げ
かけてしまう。
大人たちには、工夫をかさねた。
短い時間で打ち解けるよう努め、より親
しみのある会話を待ちのぞんだ。
いつの間にか、生きとし生ける者に対す
る愛着が強くなっていた。
人の世に存在する理由も何も、あったも
のではない。
ああだからこうだから。
科学的思考、即ち因果の認識しようのな
い世界。
自分とは何ぞや。
宇宙とは何か。
かむかえたが、依然として判らず。
大いなる力の存在を認め、ありのままに
暮らそうと、さかしらな思いはすべて捨て
て成り行きにまかせることにした。
生きるのが楽になった
人生航路の目的地がうすぼんやりと見え
てきた。
我が、おくのおくのほそ道。
長い長い旅路の終わりが近づいている。
行きかふ年も又旅人也。
舟の上に生涯をうかべ
馬の口とらえて
老いをむかふるものは
日々旅にして
旅をすみかとす。
「おくのほそ道」(元禄15年刊)の巻頭である。
元禄文化期に活躍した俳人松尾芭蕉の紀行
および俳諧。
1689年春に江戸深川を舟で出発、千手から
陸路を北上。
当時芭蕉は46歳。弟子で6歳年下の曾良を
伴ってのふたり旅だった。
最大の目的地は、松島と平泉それに象潟で
あった。
「月日というものは、永遠の時間を旅する
旅人みたいなもので、やって来ては去ってい
く年月も、やはり旅人のようなものなのだ。
舟の上で一生はたらく船頭さんも、馬をひい
て年をとっていく馬方さんも、毎日の生活
そのものが旅なわけで、旅を自分の家にし
ているようなものなのである」
芭蕉は、門人曾良ただひとりを連れ、てく
てくと歩きに歩いた。
東北から北陸へと歌枕などをまわり、終着
点は大垣。
5か月間2400kmにおよぶ長旅だった。
一方わたしと言えば、近畿から箱根の山の
トンネルをひかり号でくぐりぬけた。
そして関東へ。
友人宅などをめぐりにめぐり、ついには鹿
沼へやって来た。
この地にも、芭蕉らの足跡をたどるよすが
がある。
白沢街道を黒羽そして雲巌寺へ。
わたしも40代の頃、芭蕉の歩いた道を少し
ばかりたどった。
それでも漂泊の思いやまず、北海道へ。
と行きたかったが、諸事情で断念。
鹿沼で暮らし始めて、早や半世紀。
いつか芭蕉翁が歩いた道をすべて、歩い
てみたいもの。
そう思っているだけのことだった。
結婚後、ひとりふたり三人と子ができるた
びにせわしさがつのった。
さすらい欲は頭の隅に追いやられた。
そしていつの間にやら、ずいぶんと月日が
経った。
上方(かみがた)と話し言葉が違う。
発想も生活習慣も異なる。
不慣れな土地。
働くのに楽ではない日々が数十年続いた。
しかしながら、何やら楽しみを、と生来の
好きを求めた。
クレヨンでのお絵描きはあまりに幼い。
歌に活路を見出し、童謡から歌謡曲へ演歌
へと。
文学はずいぶんと広くて、どう書いてもい
い随筆や小説へ。
だが才は浅く、一流には届かず。
決まりのある俳句や短歌は、うたごころあ
りといえども、一行たりとも書けず。
さいわいにして歌謡界の大御所のバラード
を唄ったのが縁になり、名を残す。
そうしてあちこちの舞台に、思うままに出
ているうちに眼が、耳が、歯が……。
そして筋肉の衰えがきわまりし時。
思わぬ災難にあいし。
何事にも時(とき)がある。
生まれるにも。
死ぬるにも。
人と会うにも。
別れるにも。
事故や災難にあうにも。
まあ、人生50年。
それ以上生きるのは相当の無理があるよ
うだ。
今や、人は先進医療にすがり、百歳まで
はと考えるようになった。
還暦の前後のこと。
わたしはわたしの人生
おおよそ八十歳まで。
勝手にそう決めつけた。
それがなんとも具合のわるいことに……。
強く願ったわけではないが、なんども繰
り返して思うことになり果てた。
わが潜在意識の番人は、
「ああ、お前は八十を過ぎて生きるのはい
やなんだな。よし、それならばその通りに
してやろう」
と、わが根深い思いを見透かされた。
生きなおしは困難をきわめた。
しかし、ついには
「でも、大丈夫」
と切り返した。
国外はむろん、国内でさえ、いまだ訪れ
ない土地が少なからずある。
数えで七十六歳。
機会があればどこへでも行きたい。
そんな思いが強くなった。
幸いなことに、このたび、富士のすそ野
を訪れる機会がふってわいた。
一泊二日。
山梨の郡内地方で教員になるため、学ん
だり遊んだ5年間をかえりみる機会を得た。
いざ行ってみると、観光よりも、人に興
味をそそられた。
「元気でね」
幼い子に会うたびに、そんな言葉を投げ
かけてしまう。
大人たちには、工夫をかさねた。
短い時間で打ち解けるよう努め、より親
しみのある会話を待ちのぞんだ。
いつの間にか、生きとし生ける者に対す
る愛着が強くなっていた。
人の世に存在する理由も何も、あったも
のではない。
ああだからこうだから。
科学的思考、即ち因果の認識しようのな
い世界。
自分とは何ぞや。
宇宙とは何か。
かむかえたが、依然として判らず。
大いなる力の存在を認め、ありのままに
暮らそうと、さかしらな思いはすべて捨て
て成り行きにまかせることにした。
生きるのが楽になった
人生航路の目的地がうすぼんやりと見え
てきた。
我が、おくのおくのほそ道。
長い長い旅路の終わりが近づいている。