油屋種吉の独り言

日記や随筆をのせます。

涼をもとめて。  (2)

2024-07-24 08:04:29 | 随筆
 ここ連日、体温を超す気温がつづく。
 奈良や京都も盆地であったから、昔から
けっこう暑かった。
 手もとに一冊のアルバムがある。
 表紙は深緑色。
 らせん状の金属で、アルバムの何枚もの
分厚い紙が支えられている。
 左上にさくらの花をかたどったM小学校
の紀章があるから、きっと卒業式の際にい
ただいたものであろう。
 たたずんだままで、それをパラパラめく
りだすと、青っぽい封筒が一枚、はらりと
畳の上に落ちた。
 以前にも、その中身を観たおぼえがある
が、もうしばらく前のことで、何だったか
思い出せない。
 調べると、自分の履歴のごとき、幼児期
から少年期にかけての三枚の写真が入って
いた。
 そのうちの一枚を観て、あっと思った。
 それほど驚くにはあたらないのだが、何
しろ、およそ七十年以上も前に撮られたも
のである。
 幼子がふたり、砂利道でできた四つ角で、
カメラに向かい顔を向けている。
 女の子なら、きれいに撮ってもらおうと
品を作るのだろうが、双方とも男である。
 思い思いの感情やら考えが入り交じって
彼らの表情を形づくっていた。
 当時いくら暑くても、気温が三十二度く
らいだった。
 ひとりはじっとすわったまま。
 つい先ごろ、坊ちゃんふうに調髪された
らしく、広いおでこにじっとり汗がにじん
でいる。
 上半身は裸だ。
 ようやくへそを隠すようにはいた半ズボ
ンの裾から、白い下着がはみでている。
 ふたりともせっかく写真におさまるのに、
にこりともせず、ただただ、言われるまま、
前を向いてる風情だ。
 もうひとり黄ばんでしまったらしいちゃ
んちゃんこを着ている。
 シャッターが切られる瞬間に何か興味を
おぼえるものを見つけたのだろう。
 さっとわきを向いてしまった。
 その四つ角に、T商店があった。
 軒先の旗がひらひら、風に吹かれている。
 よく観ると「氷」と書かれていた。
 長椅子にすわった、大人の左足だけが写っ
ている。
 「すぐ済むからちょっとだけ、じっとして
るんやで」
 とでも言われたのだろうが、相手が幼子で
ある。
 そんな言葉は逆向きに働いてしまい、思わ
ず、どこかに遊びに行きたくなってしまった
のだろう。
 昭和の二十年代の末ごろに、撮られたもの
と思われる。
 当時、写真機をお持ちの方など少なかった。
 おそらく、うちの家主さん宅の大学生にお
なりのおぼっちゃんに撮っていただいたのだ
ろう。
 時代が大幅にすすんで、現代。
 令和の時代に入ったばかりの時期だった。
 「どっちが今のおれさまだと思う?」
 いつぞや、かみさんに訊ねた。
 「こっちでしょ?」
 かみさんの推理は当たらなかった。
 (おらはこっちの子だよ。……と思うんだけ
どなあ)
 他人を観るごとき眼で、おのれの幼い頃の
姿を観ている自分がいるのに気づいて、驚い
てしまう。
 自分だって、よく判らない。
 おそらくどなたに訊ねても、間違ってしま
われるに違いない。
 七十年の歳月の永さは、それほどに深くて
広い。 
 
 

  
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涼をもとめて。 (1)

2024-07-04 17:08:48 | 随筆
 わたしのふるさとは大和盆地。
 海なし県でいざ涼をもとめるとなると、「うぐいすの
滝」を観がてら、サワガニを採るのが子ども時代の楽し
みでした。

 遠くは三重県名張市の「赤目四十八滝」がありました
が、容易に訪ねられるところではありませんでした。

 「赤目に行って白目になるよ」
 歩き疲れるほどに遠い。

 そんな意味のことを、今は亡きおふくろが言いいいし
たことです。
 ちなみにオオサンショウウオが生息していることで有
名です。

 水泳場は木津川の土手に造られた駅まで電車で行きま
した。

 木津川はご存じの如く、淀川水系。
 近鉄京都線の新田辺駅から数分で当時、川の土手に造
られた簡素な駅に着きました。

 ベビーブーム世代で、夏休みともなるとたくさんの人
でにぎわいました。

 とにかく水がきれい。
 魚の種類も多く、夢中で網ですくったり、ヤスで突い
たりしたものです。

 水中めがねをはめ、もぐったまま、となりにいる人た
ちが歩いたり泳いだりしている様子を観察するのは興味
深いものでした。

 もっと上流に行きますと、どんどん石の大きさが変わっ
ていき、とうとう小山ほどにもなる大岩が出現したのに
は驚いたことです。

 jr笠置駅。
 奈良と亀山をむすぶ関西本線のひとつの駅が木津川沿
いにありました。
 キャンプ場として当時から知られています。

 奈良から北へ北へ。
 木津駅で京都線と関西線にわかれました。
 関西線で次が加茂、そして笠置へとつづきました。

 川幅がどんどん狭くなってきます。
 当時は蒸気機関車が走っていましたから煙がもくもく。
 窓を開けておくと、せき込むほどの勢いでした。

 初めて笠置駅を訪ねたのは、昭和34年夏、叔父夫妻の
新婚旅行をかねたキャンプにいっしょに連れて行っても
らったのですから、良き思い出です。

 叔父にしてみれば、初めての甥っ子でしたので、すい
ぶんと可愛がってもらったことです。

 大岩を縫うように水が流れていますから、よほどの水
泳の達人でなければ、大岩と大岩の間にできた深みには
まりこんでしまう。

 「助けて、助けて」
 おぼれる人の声を耳にするなり、大岩の上で肌を乾か
していた叔父が、一目散にかけだして川にとびこむあり
さまが今でも目に浮かびます。

 飯ごう炊飯はなんともめずらしく、
 「ぎょうさん、枯れ木を採って来てな。けいじはまめ
な子やな」
 ほめられた時はうれしいものでした。

 人命救助です。
 叔父さんがたくさんの人から褒められた時はわがこと
のように喜び、ちょっと誇りさえ感じました。

 南北朝の時代、その騒乱のさなかにご醍醐天皇さまが
お隠れになったことで有名な笠置山。
 空をあおぐと深緑が目に染みたことです。

 鈴鹿の山なみを越え、三重県津市の海浜までドライブ
しなきゃ、海を眺めることができませんでした。

 大阪湾は今はどうでしょう。

 小さいころは助松の海辺で水浴びを楽しんだことを憶
えていますが、あまりにむかし昔すぎて、ただ大きなタ
イヤのチュウブを浮き輪代わりに、両手でしっかりつか
んで放しませんでした。
 
 今もなお、助松海水浴場が存在しているようなら、う
れしいかぎりです。

 六十年もの月日が経ったのですから、その間の工業の
発達やら関西国際空港ができるやら、そんなことをのぞ
むほうがむりというものでしょう。

 機会があればもっとお話ししましょう。
 
 
コメント (1)
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