修と岩下の話はもう、半時間にもおよぶ。
しかし、なかなか、根本洋子にかかわるこ
とに到達できない。
修はいらいらしてきた。
あえて目をほそくし、喫茶店の窓から外を
眺めた。
雨が小降りになっていた。
「あの旅から帰って来て、ずっとね。わた
くし気になってたことがあるんですのよ」
岩下がふいに言った。
「はあ、なんでしょう」
修がぼそりと言う。
「京都や奈良の観光地、どこも特色があっ
て素晴らしかったんですけれど……」
「そうでしょうとも。京都じゃどこに行か
れたんですか」
「嵐山まで足をのばしました」
「そりゃ良かった。保津川あたりの桜、き
れいだったでしょう?もっとも人出が多いか
ら、じゅうぶんに楽しめなかったでしょうけ
れど」
「ええ、とってもきれいでした。人出がま
あまあでしたね。ひばり館、楽しみにしてま
したけど、なんだか休みだったみたいでがっ
かりでしたわ」
「あれって確か、ちょっと前に閉館したの
じゃなかったかな?」
岩下の想いをさぐるような目つきをして、修
が言う。
「お詳しいんですね」
「ええ、ちょっとはね。いつだったか、わ
たしも嵐山を訪ねたことがありました。ずっ
と前でしたけど」
「いつごろ?一、二年くらい前ですか。ま
さか数十年前ってわけじゃないでしょうね」
うそ、おっしゃってと、修は、岩下がひと
りごちたのをとらえたように思い、
「えっ、何か?」
と問うた。
「何でもありませんわ」
ふいに岩下は背筋をのばした。
すぐに小太りのからだを前に倒し、
「わたしね、あなたのこと、とっても気に
なってました」
さりげなく言った。
修は、えっと言ったまま、しばらく中空
に目線をおよがせた。
「うそよ、うそ。あなたを気にしていた
のは、ほかの誰かさんでした」
岩下がうすく笑う。
「誰かさん?」
「忘れたなんていわせないわ。わたしな
んてそっちのけで、その人とおしゃべりし
てらしたでしょ」
岩下の話が核心にせまる。
「まあ、いやですわ。そんな眼でわたしを
見ないでください。ほんとのこと言ってるん
ですから」
岩下の親指と人差し指が、コーヒーカップ
のみみをそっとつかんだ。
「普通ですよ。あなたのこと、別になんと
も思ってはいません。誤解なさらないでくだ
さい。たまたま若草の山で逢って、そしてま
たまた、何の因果か、あなたはわたしを追い
かけて来られた。奇遇も奇遇、出会いを大切
にしなくてはなりません」
関西弁になるのを、修はこらえた。
偶然のふた文字を強調した。
「別になんとも思ってない……、クスッ、
そうでしょうとも」
岩下は、ルージュでうす紅色に塗り上げた
唇まで、カップをゆっくりと運び、音をたて
ずにしばらくすすった。
ほほのあたりが若いに似合わず、ちょっと
たるでるなと、修は思う。
岩下の前髪の先からつうっと、雨水の一滴
がたれ、彼女の右目に入った。
岩下は両目を閉じた。
右手の人さし指の先で、右まぶたを拭くよ
うにしてから、ふうと息を吐いた。
それからそろっと左腕を下ろし、コーヒー
カップをテーブルの上に置いた。
「洋子はね、旅に出たんですよ。誰かさん
のおかげでね」
岩下の唇がゆがんだ。
しかし、なかなか、根本洋子にかかわるこ
とに到達できない。
修はいらいらしてきた。
あえて目をほそくし、喫茶店の窓から外を
眺めた。
雨が小降りになっていた。
「あの旅から帰って来て、ずっとね。わた
くし気になってたことがあるんですのよ」
岩下がふいに言った。
「はあ、なんでしょう」
修がぼそりと言う。
「京都や奈良の観光地、どこも特色があっ
て素晴らしかったんですけれど……」
「そうでしょうとも。京都じゃどこに行か
れたんですか」
「嵐山まで足をのばしました」
「そりゃ良かった。保津川あたりの桜、き
れいだったでしょう?もっとも人出が多いか
ら、じゅうぶんに楽しめなかったでしょうけ
れど」
「ええ、とってもきれいでした。人出がま
あまあでしたね。ひばり館、楽しみにしてま
したけど、なんだか休みだったみたいでがっ
かりでしたわ」
「あれって確か、ちょっと前に閉館したの
じゃなかったかな?」
岩下の想いをさぐるような目つきをして、修
が言う。
「お詳しいんですね」
「ええ、ちょっとはね。いつだったか、わ
たしも嵐山を訪ねたことがありました。ずっ
と前でしたけど」
「いつごろ?一、二年くらい前ですか。ま
さか数十年前ってわけじゃないでしょうね」
うそ、おっしゃってと、修は、岩下がひと
りごちたのをとらえたように思い、
「えっ、何か?」
と問うた。
「何でもありませんわ」
ふいに岩下は背筋をのばした。
すぐに小太りのからだを前に倒し、
「わたしね、あなたのこと、とっても気に
なってました」
さりげなく言った。
修は、えっと言ったまま、しばらく中空
に目線をおよがせた。
「うそよ、うそ。あなたを気にしていた
のは、ほかの誰かさんでした」
岩下がうすく笑う。
「誰かさん?」
「忘れたなんていわせないわ。わたしな
んてそっちのけで、その人とおしゃべりし
てらしたでしょ」
岩下の話が核心にせまる。
「まあ、いやですわ。そんな眼でわたしを
見ないでください。ほんとのこと言ってるん
ですから」
岩下の親指と人差し指が、コーヒーカップ
のみみをそっとつかんだ。
「普通ですよ。あなたのこと、別になんと
も思ってはいません。誤解なさらないでくだ
さい。たまたま若草の山で逢って、そしてま
たまた、何の因果か、あなたはわたしを追い
かけて来られた。奇遇も奇遇、出会いを大切
にしなくてはなりません」
関西弁になるのを、修はこらえた。
偶然のふた文字を強調した。
「別になんとも思ってない……、クスッ、
そうでしょうとも」
岩下は、ルージュでうす紅色に塗り上げた
唇まで、カップをゆっくりと運び、音をたて
ずにしばらくすすった。
ほほのあたりが若いに似合わず、ちょっと
たるでるなと、修は思う。
岩下の前髪の先からつうっと、雨水の一滴
がたれ、彼女の右目に入った。
岩下は両目を閉じた。
右手の人さし指の先で、右まぶたを拭くよ
うにしてから、ふうと息を吐いた。
それからそろっと左腕を下ろし、コーヒー
カップをテーブルの上に置いた。
「洋子はね、旅に出たんですよ。誰かさん
のおかげでね」
岩下の唇がゆがんだ。