先ごろは、わたしたちの代表である議員さんの口から、
子どもの数が少ない云々といった言葉を耳にすることが
多くなった。
いわゆる少子化問題である。
統計によれば、昭和三十年代の子どものかずと比べる
と今はそのおよそ半分らしい。
ううん、……。
ここで、わたしは思わずうなってしまう。
どうしてだろう。
三十を過ぎても、男女とも、いまだに未婚の方がたく
さんおられるらしい。
なぜだろう。
はたと考え込んでしまう。
わたしには子どもが男ばかり三人いたが、彼らはすで
に四十代に達している。
ふたりはなんとか結婚し、子をもうけたが、ひとりは
いまだに未婚。
どうやら孤独を楽しむのが好きらしい。
異性に対して、猪突猛進といった風情は見られない。
チュンチュンと雀が鳴くように、年頃になると女性に
興味をおぼえるのが当たり前と思っていたが、それは間
違いだったのかもしれない。
将来の社会を背負って立つ人間が少ないとどうなる?
働き手が少なくなる。生産性があがらない。
そういうことらしい。
もっとも今は、AIの発達がめざましい。
果たしてそれほど労働力が要るだろうか。
わたし自身昭和三十六年の春に小学校を卒業している。
三クラスあり、六年生だけで、120人はいただろう。
いわゆるベビーブーム真っただ中に生まれた。それぞ
れの学年にこのくらいいたとしたら、全校でおよそ70
0人いた勘定だ。
先だっての戦争。国内外でたくさんの方がお亡くなり
になった。
そのことが人々のこころに、大きな影響を与えたこと
だろう。
さきほどの続きになるが、中学校ではさらに校区が広
がった。
三学年でおよそ2000人もの子ども。古ぼけた木造
校舎である。
廊下の張り板が反り返っていたりで、とても歩きづら
かった。
高度経済成長以前の時代。昭和三十七年、わたしは中
学二年だった。
ちょうど今の上皇ご夫妻が、ご結婚されて三年くらい
経っていた。
総理大臣さんが吉田茂さんから、池田勇人さんへとバ
トンが渡されるころの話である。
「所得倍増」
その声が、当時の社会の中で、うつろに響いた。
経済は米国に多くを負っていた。
一ドルが360円で固定されていて、経済復興のあと
おしとなっていた。
庶民の生活は、今から考えると、とても貧しかった。
子ども心にそれが染みついていて、値の張るものは親
に頼んでも無理だと承知していた。
家の前の道路をたまに車がとおる。それがたいへんに
めずらしい。
玄関からとびでて、へこんで雨水のたまった砂利道を
走って来るのを近くまで駆けて行って、あきずに眺めた。
「アメリカには車もプールもなんだってあるんだって」
大人になったら、そんな生活をしたいものだと思った
ものである。
小学校から帰宅すると、
「かあちゃん、ちょうだい」
と小遣いをねだった。
最寄りの駄菓子屋に行くためである。
金額はたいてい、五円。
十円ももらえれば、御の字。グリコのキャラメルやアイ
スクリームそれに関西生まれだったから、たこ焼きがある。
十円で六つ買えた。
毎朝六時起きで、大阪に働きに出かける父親は、当時月
々いくら給料をもらっていただろう。
たかだか数千円だったか。
それだってまことに有難いことだった。
2023年酷暑、奈良。
遷都1300年祭を済ませ、はや十年ほど経つ。
平城旧跡が様変わりした。
朱雀門や大極殿が建っている。
わたしのいた奈良市M中学校はとっくの昔に、その土地
を市役所にゆずり、やや南の方に再建された。
佐保川の土手を、見あげて勉学に励んだもの。
そのはるか向こうに、三笠の山々。
この学校が生徒でいっぱいになるのはいつの日であろう。
「もっと暮らし良くなれば、子どもは多いほうが……」
若者の本音が聞こえてきそうだ。
子どもの数が少ない云々といった言葉を耳にすることが
多くなった。
いわゆる少子化問題である。
統計によれば、昭和三十年代の子どものかずと比べる
と今はそのおよそ半分らしい。
ううん、……。
ここで、わたしは思わずうなってしまう。
どうしてだろう。
三十を過ぎても、男女とも、いまだに未婚の方がたく
さんおられるらしい。
なぜだろう。
はたと考え込んでしまう。
わたしには子どもが男ばかり三人いたが、彼らはすで
に四十代に達している。
ふたりはなんとか結婚し、子をもうけたが、ひとりは
いまだに未婚。
どうやら孤独を楽しむのが好きらしい。
異性に対して、猪突猛進といった風情は見られない。
チュンチュンと雀が鳴くように、年頃になると女性に
興味をおぼえるのが当たり前と思っていたが、それは間
違いだったのかもしれない。
将来の社会を背負って立つ人間が少ないとどうなる?
働き手が少なくなる。生産性があがらない。
そういうことらしい。
もっとも今は、AIの発達がめざましい。
果たしてそれほど労働力が要るだろうか。
わたし自身昭和三十六年の春に小学校を卒業している。
三クラスあり、六年生だけで、120人はいただろう。
いわゆるベビーブーム真っただ中に生まれた。それぞ
れの学年にこのくらいいたとしたら、全校でおよそ70
0人いた勘定だ。
先だっての戦争。国内外でたくさんの方がお亡くなり
になった。
そのことが人々のこころに、大きな影響を与えたこと
だろう。
さきほどの続きになるが、中学校ではさらに校区が広
がった。
三学年でおよそ2000人もの子ども。古ぼけた木造
校舎である。
廊下の張り板が反り返っていたりで、とても歩きづら
かった。
高度経済成長以前の時代。昭和三十七年、わたしは中
学二年だった。
ちょうど今の上皇ご夫妻が、ご結婚されて三年くらい
経っていた。
総理大臣さんが吉田茂さんから、池田勇人さんへとバ
トンが渡されるころの話である。
「所得倍増」
その声が、当時の社会の中で、うつろに響いた。
経済は米国に多くを負っていた。
一ドルが360円で固定されていて、経済復興のあと
おしとなっていた。
庶民の生活は、今から考えると、とても貧しかった。
子ども心にそれが染みついていて、値の張るものは親
に頼んでも無理だと承知していた。
家の前の道路をたまに車がとおる。それがたいへんに
めずらしい。
玄関からとびでて、へこんで雨水のたまった砂利道を
走って来るのを近くまで駆けて行って、あきずに眺めた。
「アメリカには車もプールもなんだってあるんだって」
大人になったら、そんな生活をしたいものだと思った
ものである。
小学校から帰宅すると、
「かあちゃん、ちょうだい」
と小遣いをねだった。
最寄りの駄菓子屋に行くためである。
金額はたいてい、五円。
十円ももらえれば、御の字。グリコのキャラメルやアイ
スクリームそれに関西生まれだったから、たこ焼きがある。
十円で六つ買えた。
毎朝六時起きで、大阪に働きに出かける父親は、当時月
々いくら給料をもらっていただろう。
たかだか数千円だったか。
それだってまことに有難いことだった。
2023年酷暑、奈良。
遷都1300年祭を済ませ、はや十年ほど経つ。
平城旧跡が様変わりした。
朱雀門や大極殿が建っている。
わたしのいた奈良市M中学校はとっくの昔に、その土地
を市役所にゆずり、やや南の方に再建された。
佐保川の土手を、見あげて勉学に励んだもの。
そのはるか向こうに、三笠の山々。
この学校が生徒でいっぱいになるのはいつの日であろう。
「もっと暮らし良くなれば、子どもは多いほうが……」
若者の本音が聞こえてきそうだ。