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油屋種吉の独り言

日記や随筆をのせます。

米とともに生きて。  (2)

2025-03-26 17:26:47 | 随筆
 一番初めにわたしのこころのスクリーンに
登場するのは、若き日の母の姿です。
 
 わたしは五歳くらいだったでしょう。

 母はわたしの目からは後ろ向き、お風呂で
使うくらいの高さの腰掛にすわって、何やら
ジャブジャブ音立ててやっています。

 はいているのは、モンペでした。
 
 わたしはほかのことに夢中。
 母が何をやっているかなど、まったく興味
がありませんでした。

 苗間の水口から流れ込んでくる水を、一心
に見つめていました。

 いったい、何が目当てでそんなふうにして
いたのでしょうね。

 「気をつけるんやで。苗間でおぼれるような
ことになったらあかんよ」
 
 母のやさしい声が、ときどき、わたしの耳に
届きます。

 「いたあ。石亀さんの赤ちゃんだ」

 ひとつひとつつかんでは、バケツに入れてい
きました。
 
 わたしの嬌声に、母がふりむいて、にこりと
笑いました。


 母だけではありません。
 親せきのおばさん連中もいっしょでした。

 田植えも取り入れも、一族郎党、みなが寄り
集まっての作業でした。

 彼女らはたくみに、両手で苗を引っこ抜いて
は、苗の束作り上げていました。

 ちょうど、両手の親指と人さし指で、わっか
を作るくらいの数量です。

 口にくわえた少し濡れたわらから、さっさと
二本抜き取るとすぐに、苗一束作ろうと、わら
をくるくると巻きます。

 とてもすばやい動作です。

 昭和二十八年の時分。
 秋篠の川の水。
 それはそれはきれいでした。

 上流にある堰で、流れがふたつに分けられ
ていて、そのうちのひとつの流れが、堀をつ
たってくるのでした。

 生き物が豊かでした。
 
 ナマズやうなぎ、鮒に鯉。
 きらきら光る小さな魚。
 あれはきっとタナゴだったのでしょう。

 シジミやカラス貝。
 台湾どじょう。
 ああそうそうモクズガニもいましたよ。

 男の子にとって、川や堀っこはすばらしい
あそび場でした。

 食管法が活きていた時代。
 コメはすべて、荷車を牛に引かせて、農協
に運びました。
 
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米とともに生きて。  (1)

2025-03-10 23:35:40 | 随筆
 「米がとっても高くてね。困ったわ。年金暮らしだし、
収入はきまってるし。しょうがないからパンやうどんに
スパゲッティ、ああそうそう、それから、すいとんなん
てご存じかしら。若い方はわからないでしょうね」

 ある年老いた婦人の嘆きです。

 「米だけじゃないぞ。電気代に水道代。なんだって値段
が上がってる。おれたち年寄りはどうやって生きて行け
ばいいんだろ」

 もうひとりの老人がこう応える。

 ちょっと前は十キロで四千円くらいだった精米がなんと
二倍にも値が上がりましたね。
 
 昨年の「令和の米騒動」以来、ほんとうに庶民の生活が
苦しくなりました。

 一方では、マスメディアがテレビニュースなどで盛んに
危機意識をあおる。

 「ウクライナとロシアの戦いを見なさい。たくさんの人が
傷ついたり命を落としたりしている」

 「日本ひとりだけが、もはや平安ではいられない。ぼやぼ
やしてると、まわりの国々に攻め込まれるかもしれないぞ。
北朝鮮をみよ。中国をみよ。ロシアをみよ」

 そういわんばかりの勢いである。

 こうなると、ああ、そうか。生きてるだけで幸せなんだな
と思ってしまう。

 所詮、国際政治など、国々の思惑次第で、ころころと変わっ
てしまうもの。

 庶民の暮らしが極端にわるくなるとき、為政者がこうしたこ
とを、盛んに喧伝するのは昔からのことである。

 農業問題はたしかに難しい。
 コメに限らず、ムギや野菜もの。

 たくさん収穫できたりそうでなかったり。お天気に左右され
る点を、もちろん考慮しなくてはなりません。

 しかしですね。
 もっと本腰を入れて、お上がこの問題に取り組んでいれば、今
回の米騒動は起きなかったのではないだろうか。

 この五十年近く、兼業農家としてやってきたからわかること
があります。

 この際、瑞穂の国としてのわが国土を、自分なりにふりかえっ
てみるのも、何かの役に立つかもしれません。


 もっとも他人のせいにできることなどなんにもない。

 所詮この世のことですもの。

 自分がすべてを見たり聞いたりして認識しているのですから。

 今、生きている。

 今こそ、真善美をモットーにして生きるのもわるくはないで
しょう。

 哲学めいてしまいましたね。
 
 あれがない。これがない。
 不平ばかりいってもらちがあかない。

 なんとか、かんとかして、食べるものを手に入れて暮らして
いくすべを身に付けることにいたしましょう。

  さて、それでは始まり始まりです。
  まずは、幼い時分のお話でスタートといたしましょう。
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涼をもとめて。  (2)

2024-07-24 08:04:29 | 随筆
 ここ連日、体温を超す気温がつづく。
 奈良や京都も盆地であったから、昔から
けっこう暑かった。
 手もとに一冊のアルバムがある。
 表紙は深緑色。
 らせん状の金属で、アルバムの何枚もの
分厚い紙が支えられている。
 左上にさくらの花をかたどったM小学校
の紀章があるから、きっと卒業式の際にい
ただいたものであろう。
 たたずんだままで、それをパラパラめく
りだすと、青っぽい封筒が一枚、はらりと
畳の上に落ちた。
 以前にも、その中身を観たおぼえがある
が、もうしばらく前のことで、何だったか
思い出せない。
 調べると、自分の履歴のごとき、幼児期
から少年期にかけての三枚の写真が入って
いた。
 そのうちの一枚を観て、あっと思った。
 それほど驚くにはあたらないのだが、何
しろ、およそ七十年以上も前に撮られたも
のである。
 幼子がふたり、砂利道でできた四つ角で、
カメラに向かい顔を向けている。
 女の子なら、きれいに撮ってもらおうと
品を作るのだろうが、双方とも男である。
 思い思いの感情やら考えが入り交じって
彼らの表情を形づくっていた。
 当時いくら暑くても、気温が三十二度く
らいだった。
 ひとりはじっとすわったまま。
 つい先ごろ、坊ちゃんふうに調髪された
らしく、広いおでこにじっとり汗がにじん
でいる。
 上半身は裸だ。
 ようやくへそを隠すようにはいた半ズボ
ンの裾から、白い下着がはみでている。
 ふたりともせっかく写真におさまるのに、
にこりともせず、ただただ、言われるまま、
前を向いてる風情だ。
 もうひとり黄ばんでしまったらしいちゃ
んちゃんこを着ている。
 シャッターが切られる瞬間に何か興味を
おぼえるものを見つけたのだろう。
 さっとわきを向いてしまった。
 その四つ角に、T商店があった。
 軒先の旗がひらひら、風に吹かれている。
 よく観ると「氷」と書かれていた。
 長椅子にすわった、大人の左足だけが写っ
ている。
 「すぐ済むからちょっとだけ、じっとして
るんやで」
 とでも言われたのだろうが、相手が幼子で
ある。
 そんな言葉は逆向きに働いてしまい、思わ
ず、どこかに遊びに行きたくなってしまった
のだろう。
 昭和の二十年代の末ごろに、撮られたもの
と思われる。
 当時、写真機をお持ちの方など少なかった。
 おそらく、うちの家主さん宅の大学生にお
なりのおぼっちゃんに撮っていただいたのだ
ろう。
 時代が大幅にすすんで、現代。
 令和の時代に入ったばかりの時期だった。
 「どっちが今のおれさまだと思う?」
 いつぞや、かみさんに訊ねた。
 「こっちでしょ?」
 かみさんの推理は当たらなかった。
 (おらはこっちの子だよ。……と思うんだけ
どなあ)
 他人を観るごとき眼で、おのれの幼い頃の
姿を観ている自分がいるのに気づいて、驚い
てしまう。
 自分だって、よく判らない。
 おそらくどなたに訊ねても、間違ってしま
われるに違いない。
 七十年の歳月の永さは、それほどに深くて
広い。 
 
 

  
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涼をもとめて。 (1)

2024-07-04 17:08:48 | 随筆
 わたしのふるさとは大和盆地。
 海なし県でいざ涼をもとめるとなると、「うぐいすの
滝」を観がてら、サワガニを採るのが子ども時代の楽し
みでした。

 遠くは三重県名張市の「赤目四十八滝」がありました
が、容易に訪ねられるところではありませんでした。

 「赤目に行って白目になるよ」
 歩き疲れるほどに遠い。

 そんな意味のことを、今は亡きおふくろが言いいいし
たことです。
 ちなみにオオサンショウウオが生息していることで有
名です。

 水泳場は木津川の土手に造られた駅まで電車で行きま
した。

 木津川はご存じの如く、淀川水系。
 近鉄京都線の新田辺駅から数分で当時、川の土手に造
られた簡素な駅に着きました。

 ベビーブーム世代で、夏休みともなるとたくさんの人
でにぎわいました。

 とにかく水がきれい。
 魚の種類も多く、夢中で網ですくったり、ヤスで突い
たりしたものです。

 水中めがねをはめ、もぐったまま、となりにいる人た
ちが歩いたり泳いだりしている様子を観察するのは興味
深いものでした。

 もっと上流に行きますと、どんどん石の大きさが変わっ
ていき、とうとう小山ほどにもなる大岩が出現したのに
は驚いたことです。

 jr笠置駅。
 奈良と亀山をむすぶ関西本線のひとつの駅が木津川沿
いにありました。
 キャンプ場として当時から知られています。

 奈良から北へ北へ。
 木津駅で京都線と関西線にわかれました。
 関西線で次が加茂、そして笠置へとつづきました。

 川幅がどんどん狭くなってきます。
 当時は蒸気機関車が走っていましたから煙がもくもく。
 窓を開けておくと、せき込むほどの勢いでした。

 初めて笠置駅を訪ねたのは、昭和34年夏、叔父夫妻の
新婚旅行をかねたキャンプにいっしょに連れて行っても
らったのですから、良き思い出です。

 叔父にしてみれば、初めての甥っ子でしたので、すい
ぶんと可愛がってもらったことです。

 大岩を縫うように水が流れていますから、よほどの水
泳の達人でなければ、大岩と大岩の間にできた深みには
まりこんでしまう。

 「助けて、助けて」
 おぼれる人の声を耳にするなり、大岩の上で肌を乾か
していた叔父が、一目散にかけだして川にとびこむあり
さまが今でも目に浮かびます。

 飯ごう炊飯はなんともめずらしく、
 「ぎょうさん、枯れ木を採って来てな。けいじはまめ
な子やな」
 ほめられた時はうれしいものでした。

 人命救助です。
 叔父さんがたくさんの人から褒められた時はわがこと
のように喜び、ちょっと誇りさえ感じました。

 南北朝の時代、その騒乱のさなかにご醍醐天皇さまが
お隠れになったことで有名な笠置山。
 空をあおぐと深緑が目に染みたことです。

 鈴鹿の山なみを越え、三重県津市の海浜までドライブ
しなきゃ、海を眺めることができませんでした。

 大阪湾は今はどうでしょう。

 小さいころは助松の海辺で水浴びを楽しんだことを憶
えていますが、あまりにむかし昔すぎて、ただ大きなタ
イヤのチュウブを浮き輪代わりに、両手でしっかりつか
んで放しませんでした。
 
 今もなお、助松海水浴場が存在しているようなら、う
れしいかぎりです。

 六十年もの月日が経ったのですから、その間の工業の
発達やら関西国際空港ができるやら、そんなことをのぞ
むほうがむりというものでしょう。

 機会があればもっとお話ししましょう。
 
 
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水晶に魅かれて。

2023-09-12 20:10:05 | 随筆
 こんばんは、ブロ友のみなさん。
 この日もなんて暑かったことでしょう。
 わたしの住む町では午後二時前後に、摂氏30度をかるく超えたと思われます。

 「残暑お見舞い申し上げます」
 いつもどおりそう申し上げようとして、はたと指先がとまりました。
 まるで真夏のよう、いまだに酷暑がつづいているからです。
 
 しっぺ返しのごとく、先ほどから音立てて雨が降り出しました。
 夕立です。それもとても激しい。
 二階の窓を手始めに一階まで、わたしはあわてふためいて歩き回りました。
 いまようやく窓という窓をやっと閉め終え、パソコンの前にすわったところです。

 パソコンは立ち上げたままの状態。
 ひとつふたつとあちこちページをめくりますと、ふとひとりのブロ友さんの詩に
 興味をおぼえました。
 わたしの目に、水晶という言葉が飛び込んできました。

 わたしのパソコンのわきに、ふたつの小石が載っています。
 それらは黒っぽいのと白っぽいもので、お気に入りは白いほうです。
 石英です。
 それらは、わたしが四十四歳のとき、小5だった三男とともに、夏休みの課題に応
 えるため、河原で拾ってきたものでした。
 拾った年月が、黒っぽい石の表面に、H5年とはっきり書かれています。
 
 地球誕生以来、四十五億年。
 その年月の移り変わりを、それらの石は正直に刻んでいます。

 なんだか不思議な気がして、ため息をひとつ、吐きました。
 白い石は直径五センチくらいしかなく、あちこちとがっています。
 もとは赤ん坊の頭くらいの大きさのある丸いもの。
 わたしが、ある理由でわざと割ったのです。
 それの結晶を見たかったからでした。

 水晶についてもウンチクをここで披露するのが目的ではありません。
 でも、わたしが述べたい内容にかかわることなので、少し書いておきましょう。

 まだまだ器械にうとく、その石英の破片をみなさんにお見せできないのが無念です。
 おそらくそのもとの石の一部に非常な圧力がかかったのでしょう。
 凸レンズで拡大しましたら、小さいながらも、しっかりした角柱が互いに寄りかかる
 ようにしていました。

 最初、それを発見したとき、わたしは驚きで目を丸くしました。
 この石英の結晶の第一発見者なんだぞ。
 そう、世界に向けて、自慢したくなりました。

 すべてのものを浄化し、マイナスエネルギーを取り払い、余分なものを排除する。
 潜在能力を引き出し、直感力、想像力をはぐくみ、生命力を高める。
 雑念を取り去り、集中力を高める。
 他のパワーストーンの個性を引き出し、その能力を充分に発揮させる。
 以上、水晶の働きの主なものです。

 水精とも呼ばれ、妖精のひとつに数えられています。
 わたしと水晶との出会いは、今をさかのぼること、およそ六十年。
 わたしが高校一年生のとき、京都府の南部に避暑に出かけました。
 家族ともども、後醍醐天皇で有名な笠置山にのぼりながら、道端に散らばる白い石を
懸命に拾いました。

 詩人sunnylakeさんが書かれた、最近の詩をごらんになってはいかがでしょう。
 彼女の世界観を、どうぞ充分にご堪能ください。
 

 
 
 
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