蒲田耕二の発言

コメントは実名で願います。

驕る平家は……

2013-01-17 | ステージ
近ごろソニーの凋落著しいが、ジョブス没後のアップルも、退潮目を覆うばかりだね。

iPad miniを買おうかと昨日、量販店をのぞいてみたんだが、製品の詰めの甘さにあきれて帰ってきた。木綿の生成りみたいな妙な色合いの縁が画面のブルーとしっくり来ないし、ポータブル製品だというのにサイズが微妙に手に合わない。なんか適当に決めてしまった感じ。

ジョブスが采配を揮っていた頃は、こういう細部を厳しく追い込んで、これ以上迷いようのないレベルまで突き詰めたデザインを採用していたのだが。

徹底したプロ意識で作られた商品だけが放つ、あのどうにも抵抗しがたいオーラがiPad miniには欠けている。そばに並べられていたグーグルのNexus 7やサムスンの端末の方が輝いて見えたぐらいだ。

完成度の高さが何よりアップル製品の魅力だったのに、これはどうしたことか。時価総額世界一の慢心? そういえば10年ぐらい前、下り坂をたどり始めたころのソニーも慢心が外部の目にさえ明らかだったよな。アイボとかいう、毒にも薬にもならないロボット犬なんか作ったりしてさ。独りよがり丸出し。

商品には商品自体の善し悪しとは別に、メーカーの勢いといったものが、おのずとにじみ出るのかも知れない。いまのソニー製品には、欲しいっ、と思わせる迫力がないもんねえ。
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著作権保護

2013-01-15 | 社会
DVDやブルーレイのレコーダーの売価に補償金が上乗せされていることは知ってる人は知ってると思うが、昨年11月、ディジタル専用機については支払いの必要なしと最高裁が判断した。

理由は、ディジタル放送の番組にはコピーガードが掛かっていて大量複製が不可能だから。

ワーッハハハハハハ。

CM入りの無料放送にコピーガードを掛けるなんてムチャクチャは、著作権のやかましいアメリカでさえやってない。日本だけが始めたのは、言うまでもなく総務省その他の利権がらみだ。関係団体が「私的録画補償金管理協会」だなんて、名前からして官僚の天下り先っぽいじゃありませんか。

ところが、自らの企みが原因で入ってくるはずのカネが入ってこなくなった。甘い汁を吸おうと導入したシステムがアダになった。ザマーみろ。

朝日の記者が昨日、補償金不払いは権利者の利害を無視している云々の記事を書いていたが、アホか。これだから朝日は官僚ベッタリだと言うんだよ。

著作者の権利ばかり一方的に尊重すれば、文化は衰退する。著作権保護期間をくり返し延長するアメリカは、低所得層の知的水準がどんどん低下している。著作権保護が厳しければ厳しいほど、向上心、知的好奇心をみたすカネは余計に掛かるからね。国民全体の民度を上げるには、知的財産の開放が不可欠なのだ。

そもそも、著作権保護の甘い国は権利意識の低い後進国、との観念が行き渡ったのは、アメリカのマインド・コントロールのせいだ。この国は1980年代以後、世界中からカネを吸い上げる装置に著作権制度を利用してるもんね。

日本の官僚とそのお先棒担ぎのマスメディアは、アメリカの手足になって日本人の意識改革、というより洗脳に精出してきた。おかげで大卒レベルの日本人は、著作権こそ神聖にして冒すべからざるものと、大半が盲目的に信じている。それが先進国の証しだと思い込んでいる。

それならいっそ、保護を無期限にして紫式部や近松やシェイクスピアやダンテやバッハやベートーヴェンやダヴィンチやミケランジェロの子孫にも著作権料を払ったらどうだ。子孫がいるかどうか知らんけど。

思わぬ収入でホクホクの人間が続出する一方で、出版社も図書館もレコード会社も映画会社も劇団も放送局も美術館もバタバタ倒産・閉館するかもね。
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体罰

2013-01-12 | 社会
また教師の体罰。何度目だ。そのたびにコメンテイターらが「熱意」「指導」「行き過ぎ」などの記号を口にするが、バカ言ってんじゃないよ。行き過ぎもヘッタクレもない。

体罰とはサディズムなんだよ。

サディズムはターゲットが弱ければ弱いほど、無抵抗であればあるほど快感が増す。立場上、暴力を肯定できる余地が少しでもあれば罪の意識が薄まるから、なおさら気持ちよくなる。こうして教師、職場の上司、母親が「教育」「指導」「しつけ」名目でパワハラ、アカハラ、幼児虐待をやる。これらは全部、同根のサディズムなんだよ。

オレが田舎から東京に出てきて入学した小学校の担任もサディストだった。授業中にアクビをしたというのでオレを壁際に立たせ、立っている態度が悪いというので殴りつけた。10歳の小学生を、だよ。あのキツネ目の小男が暴力を揮うとき、血走った瞳孔の奥に燃えていたエクスタシーの炎をオレは60年後のいまも忘れない。あいつはあのとき、ズボンの中で射精してたんじゃないか。

幼い生徒たちは極度におびえ、完璧に教師の言いなりになった。

あるとき暴力がもとで、生徒の親が怒鳴り込んできた。学校中が大騒ぎになった。すると、この教師は言いなりの生徒たちに、いかに自分が教育熱心であり、いかに不当な言いがかりをつけられているかと説きつけて自分に有利な証言をさせた。教育委も校長も全員が、これ幸いと子供たちの偽りの証言に乗った。暴力教師は停職にも退職にもならなかった。

サディストは常に卑劣である。

始末に悪いのは、暴力是認の風土が日本には少なからず存在することだ。「お前を殴る先生もつらいのだ」などと言って泣いたりする。すると周囲も貰い泣きして、卑劣な行為を許してしまう。あたかも、崇高な自己犠牲か何かのように。何が「つらい」だ。密かに楽しんでやがるクセして。

こういう風土が変化しないかぎり、体罰は続く。イジメが続くように続く。今度の事件は、絶対にウヤムヤにしてはならない。刑事事件にすべきである。バスケット部の顧問だけではなく校長、市教委も、減給何か月とかじゃなく拘留とか懲役とか、物理的に罰せられなければならない。じゃないと、本質は変わらない。
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前進座

2013-01-10 | ステージ

閉館が決まった前進座劇場のファイナル公演に出掛ける。出し物は、河竹黙阿弥の『三人吉三巴白浪』。このところ、歌舞伎がマイブーム(©春口祐子)なんです。

前進座は台所事情がラクではないと見えて、松竹系の舞台に比べると書割なんかかなり見劣りするが、役者の力量では引けをとらない。いや、一部の突出した才能にその他大勢がぶら下がる構図の多い松竹系とは異なり、脇役の水準が隅々まで揃っている点、勝っているとも言える。レパートリー劇団の強みだ。

それに、ここの歌舞伎上演は常に演出が入って感覚的に近代化するよう努めており、だから伝統遵守一点張りの舞台のように間延びすることが、あんまりない。この年明けのファイナル公演も、きびきびしたテンポが心地よかった。

それにしても、幕末の黙阿弥って人は随分と面白いドラマを書いたんだねえ。主役の一人、お嬢吉三は捨て子から歌舞伎の一座に拾われて女形になり、女装で強盗を働く。裏声から地声まで、状況に応じて声色を使い分ける。女の振りが、何かの拍子に思わず男声になってしまうところが可笑しい。

これを演じた河原崎国太郎は裏声を使うとき、いかにも女らしい女声ではなく、本来男である女形が出すはずの女の声、を出す。黄色い響きだが、ザラッと荒れたところのある声である。初登場のシーンでお嬢吉三は、娼婦のおとせのカネを強奪する。このとき、この声によって役上の女形と女とのコントラストがくっきり際立つ。これは明らかに計算して出している声であり、怖ろしいほどの芸である。

この役をはじめ、登場人物はどれも悪党であり、同時に正義漢である。一番の善人に見える娼婦宿の主も、ドラマの発端の悪事を働いた盗賊の過去を持つ。

そういう重層的な性格のキャラが予定調和を裏切る形で、どんどんあらぬ方向へドラマを引っ張っていく。驚いたことに、日本人が生理的に嫌う近親相姦のエピソードまで出てくる。兄妹が畜生道に落ちたってんで、断末魔に犬の真似を始めるんだから、あんぐり口が開いてしまう。若く美しい恋人たちも、ここではいつまでも清らかな善玉ではおられんのです。これはもう作者が筆の赴くまま、サディズムまでも満たすべく書きつけたようなドラマですな。

先人がこれだけ面白いドラマを書きまくってしまったんだもん、明治以降の劇作家が四苦八苦したのも無理ないよなあ。新派新劇ってのは、ホントつまらん。

前進座が自前の劇場を失ってしまったのは残念だが、今後も水準を落とすことなく活動を続けてほしいものだ。
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パティ・ペイジ

2013-01-04 | 音楽
亡くなっちゃったね。享年85だそうだから、まあトシに不足はないが。

彼女の全盛期の50年代初め、日本の洋楽シーンはほぼアメリカン・ポップス一色だった。パティのほかドリス・デイ、ダイナ・ショア、ジョー・スタッフォードといった女性シンガーの人気がとりわけ高く、デビューしたばかりの江利チエミや雪村いづみが一所懸命コピーしていた。ひばりの「上海」も、デイのデッド・コピーだ。

中でもパティは、スロー・バラードのうまさで際立っていた。"I went to your wedding" とか "You belong to me" とか、声を張り上げたり技巧を誇示したりせず、サラリとメロディを流して匂うような甘さを漂わせる上品な歌手だった。

故・中村とうよう氏は、アメリカでは不遇だった、とどこかに書いていたが、とんでもない、ビルボードで全米No. 1になった曲が幾つもある。もっとも、アメリカでヒットしたのは「テネシー・ワルツ」「ワンワン・ワルツ」「オールド・ケープ・コッド」等々、オレのあんまり好きじゃない曲だけど。

ともあれ50年代までは、ロックもベトナムも知らなかったころまでは、アメリカにもこういう優雅な歌を愛する余裕があった。パティ・ペイジとは、アメリカ社会がもっとも安定して幸せだった時代を象徴する歌手、と言っていいだろう。
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