堤保有つれづれ日記

つれづれに感じること

VTRの効用

2012年01月01日 | 日記

                        

 平成24年 明けましておめでとうございます。
 昨年中は大変にお世話になりました。今年も宜しくお願いいたします。
 ブログも毎日書く決意です。ぜひご覧ください。

 毎年、元日は、本を読んだり去年撮ったVTRを見て過ごす。
 VTRは結構便利であリ、その効用は幾つかある。

 第1に、本来の機能であるが、時間的に見ることが不可能な場合である。
 第2に、見る必要のない所は飛ばす。民放のコマーシャルはその最たるもの。時間の節約になる。
 第3に、電話や不意の来客があったとき止められる。
 第4に、長時間番組は何回かに分けてみることが出来る。
 第5に、聞き漏らしたり、見逃したところは何回でも再生できる。
 まだまだ有るだろうがこの辺にしたい。

 今年もやりたいこと、やらなければならないことが沢山ある。
 時間との闘い、時間の有効な活用が今年を勝利していくための必須の条件だと思う。
 当然、体力も若いころから比べれば衰える、体調管理のためにも、時間管理は大切だと思う。

 その為にも、VTRは、今年も更に活用されるであろう。

 


残すことと捨てること

2011年12月31日 | 日記

 いよいよ大晦日。
 今年も例年通り年賀状を本局に出しに行く。去年は日が暮れてからだったが、今年は午前中に出した。
 少しは進歩したのか。

 今年も追いかけられっぱなし。1年が何と早いことか。
 やることが無く、暇を持て余すよりはとも考える。ただ、いろんな人にご迷惑もかけた。年を越しての持ち越しも多い。

 午後から、書類の整理を始めた。
 1年間全く目を通してない書類のなんと多いことか。
 書類の整理には長きに亘り悩んでいる。
 本棚を見るとその歴史を示すものが発見された。
 最初はファイリングを試みた。日経文庫の野口靖夫著「ファイリングの進め方」。
 しかし、どうしても分類できず、どれにファイルしたらよいか悩む書類が出てくる。
 丁度その時、中公新書で、野口悠紀雄著『「超」整理法』が出た。ファイリングの問題点を指摘し、紙袋に資料を入れ、使ったり読んだりした資料や書類を左側に入れると言う整理法を用いるようになった。
 確かに、よく使う資料や書類は常に左側にあり、使わないものは右側にあるようになる。
 しかし、この整理法にも問題が出てきた。1つには、年に1回ぐらいしか見ないが、重要なものが入った紙袋は、紙袋の群れの中に紛れ込み発見が極めて困難な状況となってしまうこと。もう1つは、紙袋の数も多くなりすぎ、混乱してしまい、未整理状況に陥ってしまうこと。

 そこで、ファイリングを肯定する人も、否定する人も共に姓が野口なので、両者を折衷することとした。
 体系的に分類が容易で、悩むことのないものはファイルし、それ以外のものは袋に入れて縦積みにした。
 最初はファイルするほどのこともないもので、時が経過するに従って増えてきた物は改めてファイルを作った。

 情報は入手した時には常に新鮮である。
 しかし、時間が経つにつれ、使われずに古くなり、腐ってしまう。
 資料の整理とは、正に、古くなり、使用に耐えず、腐ってしまったものを捨てることである。
 腐った資料を捨てないと、書斎は足の踏み場もなくなり、腐臭に満ちる。我が書斎がその姿である。


 年末に整理するものは「超整理法」に従ってできた紙袋の一群である。殆ど捨てる事になる。
 きれいに整理できたら、書類棚の写真を公開しよう。今日整理できたものはほんの一部。
 年が明ければ、又、忙しくなる。その結果は明白。

     

 今年一年、色々なことがありましたが、充実した一年でした。
 これも一重に多くな方々の御かげと感謝で一杯です。来る年もご迷惑をおかけしたり、お世話になると思います。なにとぞ宜しくお願いいたします。
 皆様方のご健康とご多幸、ご活躍を心からお祈り申し上げます。良いお年を!


青年の力

2011年12月30日 | 日記

 今年は、辛亥革命100年の年であった。
 ジャッキ・チェーンの100作目の映画「1911」も大ヒット中である。
 是非見たかったが、立川では上映していない。残念である。

 NHKのBSで3回にわたり、辛亥革命についての番組を放映した。
 録画したが、まだ見ていない。今年の積み残しの一つとなってしまった。

 孫文は「三民主義」を掲げて辛亥革命を起こし、中華民国を建国した。
 三民主義とは、国家は人民が共有するものであり、政治は人民が共同管理し、利益は人民がともにうけとるというものである。

 辛亥革命を遂行する孫文を多くの日本人が支えた。
 その一人である、宮崎滔天は、孫文が亡命先のヨーロッパから香港に帰国した時、「今や中国は青年の天下なり、孫文、黄興の天下なり」と、叫んだ。

 事を成すにあたって、青年の力は必須の条件である。
 組織にあっても、団体にあっても青年の力を糾合し、活躍の場を与えられないものは衰亡してしまう。
 錦学習館では、今年に引き続き来年も、学芸大学の学生との連携事業・コラボレーションを行う。
 学習館を活性化するためにも若い力は絶対に必要である。

 来年は、地域に若い力を結集し、更なる地域の活性化を図っていきたい。
 私も青年の意気で頑張る。


ブログの効用

2011年12月29日 | 日記

 ブログを書きだしてから久しい。
 改めてブログの効用について考えてみた。毎日書くと言ってからまだ
1週間もたってはいないが、更に続けるために考えてみた。

 第1番めは、タイトルに示す通り、日記である。
 ただし、今まではとびとびに書いていたので、正確には日記とは言えない。
 毎日書けば日記であり、記録的要素が強くなる。

 第2番目は、備忘録である。
 本を読んでも、VTRを見てもすぐに忘れてしまう。
 余談だが、テレビではなくVTRを見るのには訳がある。時間が無く、放映の時に見られない。見逃したり、聞き漏らしても再度確認できる。民放の番組はCMを飛ばし、時間の節約になる。

 第3番目は、自分の考えをまとめ、理解度を確認できる。
 一般的に、文章を書く意味と同じである。ブログは当然文章であるからだ。
 十分理解していなければ文章として成り立たなくなる。

 第4番目は、表現意欲の実現。
 人間は自らの考えや思いを人に伝えたいという基本的な意欲がある。
 その為に言葉がや文章があり、自己完成度を高めたいと思う。
 写真を撮りだしてから久しい、自己流で、不勉強なので、人様に見せるような技術はない。
 しかし、見てもらいたいという思いもある。言葉や文章より伝達力があるのも確か。
 記録としての価値もある。旅の風景、建造物、彫刻やアート等々。
 写真を撮ることで、意外なことにも気が付く。
 木造の、昭和レトロの建物に温かみを感じ、写真を撮りだした。
 折々、気が付くと撮っている。
 災害の折の避難場所について考えた。関東大震災、阪神淡路の時の長田、東日本大震災の気仙沼等。
 立川の火災発生時の避難形態を考えた。ふと気が付くと、立川、特に中心部には昭和レトロの木造建築はほとんどない。
 防火、耐火建築が殆どだ。建築基準法でそうなったことを実感した。これも写真の効用か。
 地震発生時の立川の火災はどうなのか、どう予測しているのか不明。それにより、防災対策も違ってくる。

 第5番目は、近況報告。
 年賀状。現職時代、市内には全く出さなかった。公選法で、売名行為として禁じられているからだ。現実は議会報告と称して、脱法行為的に殆どの議員が出しており、空文化している。
 私は、市外=選挙区外には出していた。近況報告と、正に、ご無沙汰を詫びるために。
 ブログは、立川に縁し、立川を離れている人に私自身の近況報告と立川の様子を伝える手段として極めて有益であると思う。

 その他にもブログの有効性はあると思うが、思いつくまま書いてみた。

 後輩の現職の議員には、ブログを進めている。
 議員が、どんな本を読み、何を見、何を調査し、何処から情報を取得し、何を考え、どう行動したかを有権者は知りたがっている。
 議会改革の特別委員会が設置されたが、市議会のHPはあるが、市民への情報提供は極めて不十分である。議会改革の第一歩である。
 余談だが、太平洋戦争、開戦から終戦まで、国民と政府は言うまでもなく、政府内部でも情報の共有はなされていなかった。
 日本とアメリカの基本的な違いに、情報の価値と力に対する考え方がある。
 議員は、正確で良質な情報をできるだけ多く市民に伝える義務と責務がある。
 手軽な情報伝達手段であるブログを大いに活用してほしい。

        

 至誠学園の東、国立との境の根川にかかる橋。
 真直ぐ多摩川に向かい、市営陸上競技場の南東の広場が、今年のどんど焼きの場所。


真珠湾攻撃―宣戦布告

2011年12月27日 | 日記

 真珠湾攻撃は奇襲戦である。アメリカは開戦・戦争への大義名分を得、国民の戦意高揚を図った。リメンバー パールハーバーである。
 日本の大義名分は、大東亜共栄圏の確立である。世界の共感を勝ち取ることはできなかった。日本は当時、太平洋戦争を大東亜戦争と言った。現在でも太平洋戦争を肯定する人は、大東亜戦争と呼ぶ。

 真珠湾奇襲作戦の経緯を見ると、当時の日本の問題点のいくつかが見えてくる。

 ハルノートに対する外交文書である「対米覚書」は、当初「将来発生すべき一切の事態については、合衆国政府において、その責めに任ずべきもの」であった。
 「一切の事態」に戦争状態を含むと言う事は外交交渉上の通念であった。つまり、宣戦布告を意味する。
 しかし、この「対米覚書」は軍部の圧力によって、「将来発生すべき一切の事態」は削除され、単に、交渉打ち切りの文書に書き換えられた。

 しかも、野村駐米大使が、この「対米覚書」をアメリカに提示した時、激怒した。
 その時には、既に真珠湾攻撃が開始されていた。

 軍部は当初から、真珠湾作戦は、「奇襲攻撃とする」と決めていた。
 従って、それを気づかれないため、戦争を意味する「一切の事態」と言う文言を削除し、本文を14のパーツに分け、暗号化し、真珠湾攻撃の開始直前に現地にに打電した。暗号解読とタイプに手間取り、アメリカ国務省に
「対米覚書」を提示したのは、真珠湾攻撃の開始後であった。
 駐米大使は、宣戦布告を示す文言を含まない、単なる交渉打ち切りの文書を、既に戦争状態に入った後に手渡すという喜劇を演じたのである。しかも、現地大使館は日本が真珠湾を奇襲攻撃するという軍事上の情報をもっていなかった、正にアメリカ同様寝耳に水の状況であった。
 軍部の極端な秘密主義から情報の共有が図られていなかった。

 陸軍、海軍、外務省の極端なセクト主義と、秘密主義のもと情報の共有が無かったというのも太平洋戦争の大きな特徴の一つである。

  


有馬記念

2011年12月25日 | 日記

 今日は、有馬記念。
 例年、安協(交通安全協会)で、交通整理に立つ。今日は、寒そうだ。
 競馬は見るのは好きである。馬体の美しさ、正に、走るために作られた機能美。
 今まで馬券はかたっことはなかった。交通整理を始めてから、お付き合いで買うようになった。
 私の性格からいって、競馬ははまり込む要素は十分にある。だが、考える時間が無いので春のダービーと暮れの有馬記念だけ馬券を買う。

 有馬記念は、もともと中山競馬場で、暮れを飾るにふさわしい、華やかな看板レースをと、時の中央競馬会の理事長であった有馬頼寧がファン投票で出走馬を決めるというユニークなレースを中山グランプリとして創設したものだ。
 ところが、有馬理事長が開けて1月9日に急逝してしまった。そこで、有馬理事長の数々の功績を讃え、名称を有馬記念としたものである。

 余談だが、競輪全盛時代、立川競輪でも競輪グランプリを毎年のように暮れに行っていた。市長杯と議長杯が提供されていたので、市長と議長が揃って、観戦した。前夜祭も都内のホテルで開催され、招待されたファンと選手が一堂に会し、盛大なものだった。今は昔の物語となってしまったが。

 今回のファン投票1位は、ブエノビスタ。2年連続であるが、昨年は残念ながら2位。かの有名なディープインパクトも50回、51回で連続1位であったが、成績は50回が2位、51回が1位であった。この例に倣えば、ブエノビスタは今回1位か。
 昨日までのオッズでは、オルフェーブルが1位で、ブエノビスタが2位。

 レッドディヴィス、鞍上武豊。
 牡馬でもなければ、牝馬でもない。去勢手術を受けたセン馬だ
 武豊の24年連続G1勝利の記録も、今や首の皮一枚。

 今年のお付き合い、どうなることやら。


太平洋戦争開戦決定の日

2011年12月24日 | 日記

 今日から毎日書くこととした。
 些細なことで良いから、何でも毎日書く。

 明日は、錦六会の今年最後の資源回収日。
 書斎を整理しなければならないが、可能な限りで仕方がないとも思っている。

 
「BS歴史館:真珠湾への7日間~日米開戦・外交官たちの苦闘と誤算~」のVTRを見た。
 真珠湾奇襲作戦についは、
 太平洋戦争の発端となったこと、
 昭和16年12月8日であること、
 正式な宣戦布告はなかったことぐらいしか知らなかった。

 日本はいつの時点で、太平洋戦争開戦を決定したか。これについては、諸説ある。
一般的には、1941年7月2日から始まった御前会議、その4回目の12月1日に国家意思として決定したといわれている。
 NHKのBS歴史館のタイトルの7日間も、12月1日の御前会議から12月8日の真珠湾攻撃までを意味している。

 日米外交交渉の経過の中で、米国国務長官ハルから提示された、所謂「ハル・ノート」に対し、自衛権の行使として、
 12月1日にの御前会議で、開戦を決定したとする説。
 ハルノト-とは、①日本軍の中国及びインドシナ半島からの撤兵、②王兆銘政権の否認、③三国同盟の空文化等日本政府が殆ど容認できない内容の最後通牒である。
 ただし、ハル・ノートはアメリカ政府の正式文書ではなく、ハル国務長官の覚書的なものである。


この説に対し、12月1日の第4回御前会議の決定は、単なる形式的なもので、実質的には、11月5日の第3回御前会議とする説。
 この御前会議では、「帝国国策遂行要領」を決定している。その中で、「武力発動の時期を12月初頭と定め、陸海軍は作戦準備を完整す。」とある。実質的な開戦決定とみる。
 この要領を受け、11月26日に、千島列島ヒトカップ湾に集結していた海軍の機動部隊が真珠湾攻撃のため出港。
 この事実は、既に開戦の意志を確定的なものとし、戦闘行動を開始したものと解するのが正しいと思う。

 私は、12月1日説は、日本が到底のむことができない要求を突き付けられ、戦争に突入したとして、自衛のための戦争と太平洋戦争を位置づけられる危険性が伴う。
 戦争を回避しようと人々の意に反し、国家意思として開戦を決定したのは、11月5日の第3回御前会議であると思う。


どんど焼き

2011年12月21日 | 日記

 年が明けての8日の日曜日に恒例のどんど焼きを行うこととなった。
 今ま
では多摩川の河川敷で行っていた。
 多摩川の河川敷を使用する場合には、福生市にある国土交通省の京浜河川事務所多摩川上流出張所に申請をする必要がある。
 昨年の申請の時に、23年度は草刈の予算もつかず、従来行っている場所は「情操空間」に指定されているため、どんど焼きはできないと言われた。

 新しい年の出発を飾る地域の伝承行事であり、子どもから大人まで楽しみにしているので、何とか事業を継続してほしいとの地域の要望は強い。

 河川事務所では、日野橋以西、残堀川以東であれば、自然レクリエーション空間などで、どんど焼きをやることは可能であるという。
 ところが、現地に行って見ると、草は生い茂り、堤防から急斜面を降りなければならず、危険でとてもどんど焼きができる状況ではない。

 それから場所探しが始まった。

 どんど焼きは火を燃やし、煙もひどい。人も多く集まる。
 適当な場所がなかなか見つからない。
 最初、学校も考えた。教育委員会は使ってもいいと内諾はしてくれた。
 しかし、近隣住民からのクレームも気にかかる。学校に迷惑をかけてはとの配慮も働き、断念。

 再度、多摩川河川敷周辺を探す。
 幸い、立川市営陸上競技場の南東の、草も生えておらず、相当に広い広場に注目。
 河川事務所に相談したところ、「情操空間」から外れたところならばとのこと。

 ただし、河川事務所は、その場所は行政区域は国立市なので、国立市の許可を取るようにと。

 国立市と立川市に話をしたところ。
 立川市から、当該地域は、公園用地として、立川市が管理しているとの情報を入手。
 そうであれば、立川市に公園の使用許可申請を出せば、どんど焼きはできるとの結論に達した。

 本日、立川市から許可を得た。
 来年からは、場所探しの心配がなくなり、一件落着。

 河川事務所に相談した折、「多摩川河川環境管理計画」なるものをもらった。
 後日、その計画に基づき、多摩川について書いてみたい。

         
                           どんど焼きの予定地


旧式石油ストーブ

2011年12月20日 | 日記

 私は犬と同じで、鼻が乾くと風邪をひく。乾燥にめっぽう弱い。
 ヒーターやファンヒーターは駄目である。
 高周波の霧発生器もあまり良くない。やはり湯気でなければならない。
 従って、今でも薬缶をかけて湯気を出す、旧式の石油ストーブを愛用している。
 このストーブには、他に色々と役に立つ。調理用具としても便利である。時間をかけて煮るものには最適である。
 今は痛風で控えているが、もつの煮込みなどを作るにはもってこいである。他に、焼き芋、ギンナンも焼き芋同様アルミホイールに包んで乗せておけば酒のつまみになる。
 以前は365日、寝酒を飲んでいたが、今は、自粛して2日か3日おきの飲酒である。酒を飲まない時は、何か口さみしいのでスープを自分で作る。その時にもこの旧式石油ストーブが活躍する。

 この旧式ストーブも、東日本大震災の影響で人気が出てきたみたいである。
 石油ファンヒーターはモーターでファンを回すので、停電の時に使えない。停電を考え、旧式のストーブを買う家庭が増えたとのことである。

 昨日、どんど焼きの場所を、自治連錦町の中心者の皆様と見に行った帰り、多摩川の河川敷に降りてみた。
 丁度、白鷺と鵜が並んで河原に降りていた。残念ながら後ろ向きだったが。

     

     

     

 帰り道、南天の実が鈴なりになっていた。近頃、これほど実をつけた南天は珍しい。
 南天が実を付けにくくなっているのは、花粉を媒介するのがハエで、そのハエが少なくなっているからだとも聞いたことがある。
 昔は、南天はトイレの窓のあたりによく植えられていた。
 正月の飾りに、千両や万両、南天など赤い実をつけるものが多い。

     

 ピラカンサと見間違えそう。

         


2011年12月18日 | 日記

 今年の流行語大賞に「絆」という言葉が選ばれた。
 昨年は「無縁社会」がノミネートされた。
 人々のつながりを、大震災で見直したという点で救われるような気もするが、問題提起をし解決に向けて模索をするという点で、
 昨年の無縁社会は意味があったような気がしないでもない。
 先日、毎日新聞に精神科医の斎藤環氏が「絆」の連呼に違和感を感じると書いている。
「絆」はもともと馬や犬など、動物をつなぎとめる綱の意味である。(広辞苑①)どちらかと言えば人を縛り付けるという意味のほうが強い。
 それが段々、「断つにしのびない恩愛、離れがたい情実」(広辞苑②)というような使われ方になり、束縛の意味が薄くなってきている。
 斎藤氏は、「ピンチはチャンスとばかりに大声で連呼される、絆を深めようについては、少なからず違和感を覚えてしまう。」と書いている。
 ちなみに三省堂発行の新撰漢和辞典(昭和24年8月新修版)には、①馬の足をつなぎとめるもの、転じて、すべて人の行動を束縛するもの②つなぐ、ほだす、繋ぎ止めるとあり、現在使われているような肯定的な意味は記されていない。
 従って、家族の絆、親子の絆、地域の絆などと使われだしたのは、つい最近のことだと思う。明確な検証をしているわけではないが、
 マスメディアで使われだし、一般化したもののような感じがする。正に流行語大賞の対象として納得する。
自分自身、この言葉に若干の違和感を感じていた気分が理解できたような気がする。

 人と人との関係、地域と人の関係、組織や団体との関係は目に見えない信頼や心と心の結びつき等、内面的な非条理(不条理ではない)な関係であると考える。
 「絆」に表されている様に、糸や紐で強制的に結び付けられたものではないと思う。例えれば、磁石のNとSが引き付け合う磁力線のようなものだと思う。

 単に理屈であり、言葉遊びと感じる人もいようがそうではない。
 表面的には大差ないと思うが、事がより本質的なものに迫った時、その差が現れる。
 一例をあげれば、親子関係である。親がエゴや権威と言う紐だけで子どもを育てていれば、何もなければ平穏におさまるであろう。しかし、子供が自立し、主体性をもって行動を起こそうとするとき、その紐だけに頼れば、子どもは反発し、紐を噛み切って親から離れてしまう。身体的にも精神的にも。
 紐には握るものと、縛られるもの、主と従の関係が出来てしまう。そこに問題がある。
 「絆」と言う言葉の語源はまさにそこだからである。

 ともあれ、人間関係が希薄になり、隣の人は何する人ぞという風潮が強くなりつつある現在、振り返るきっかけとして、この言葉が注目されたことには意味があると思う。

 蛇足になるが、言葉の意味を考えるとき、初版が昭和12年、新修版が昭和24年の三省堂の「新撰漢和辞典」を引く、少なくとも50年の歴史の隔たりがあり、言葉の変遷もある。
 この辞典は、病気で日光への修学旅行に行けず、その小遣いで買った、我が人生で最初の本格的な本である。愛着があリ、座右に置く。

 流行語大賞は阪神・淡路大震災の年に始まった。その年は「震」だった。
単に物理的現象を表す言葉から、心の働きを表す言葉に変わったことは、同じ大震災の年の流行語大賞としては、社会がより良い方向に進んできたとも感じられる。