堤保有つれづれ日記

つれづれに感じること

1941年12月8日

2011年12月12日 | 日記

 今年は太平洋戦争に突入してから70年。
 私の生まれた年である。
 日本の現代史の中でも最も重い年であろう。
 何故あのような無謀な戦争をしてしまったのか。
 阻止する考えも動きもあったのであろう。にも拘らず、悲惨な戦争に突入してしまった。
 その原因は何なのか、指導者も国民もメディアもどう考えどう動いたのか。真相を知ることが今後の日本にとって極めて重要であると思う。
 東日本大震災が今年日本を襲った。政治も混迷している。TPP、沖縄普天間基地の問題なども含め、国際関係も重要な瀬戸際にある。
 「温故知新」ではないが、太平洋戦争へと突き進んだ当時の真相を知ることは今後の日本にとって極めて大事であると思う。

 何冊か本も買った、年末から年始にかけ読んでみたい。新たな年の日本を考えるためにも。

 余談だが、今年、古希を迎えたと思っていたが、思い違いと言うか無知であった。還暦は満60歳であるが、古希は数えの70歳、私の古希は昨年であった。年末に初めて知った。

 12月10日は皆既日食であった。
 寒い中、写真を撮ったが大失敗。
 太陽は撮ったことはあるが、月は初めて。月の明るさに驚いた。恥ずかしくてデーターは言えない。
 満月の翌日、三脚なしで部屋の中から改めて撮った。
 参考までに撮影データーは、ISO200、絞り11、シャッタースピード125分の1である。
 レンズは450㎜。
 少しは良くなったが、まったくよくない。恥ずかしい限りである。カメラとレンズのせいにはしたくない。

     

 失敗作です。次の皆既月食が何時かは知らないが、その時はもっとまともなものを載せたい。

     

     

 


元気だ状

2011年12月04日 | 日記

 2、3日前に、NHKのあさイチをちらっと見た。この時間じっくりとTVは見られない。
 年賀状についてやっていた。
 東日本大震災があった今年、「おめでとう」や「謹賀新年」等は被災地の人々には勿論のこと、他の人にも使いずらい感じはする。
 番組では、「おめでとう」や「謹賀新年」などを使わず、平和や幸せを願うメッセージを添える年賀状が発売されていることや、学生たちが考案した、被災地から感謝や近況を伝えるためのハガキ「元気だ状」が紹介されました。

 新年になると、年賀状だけではなく、「おめでとう」の挨拶を交わす。
 年が明けると、おめでたい。何故なのか。数え年の頃は、一つ年を取ったからとも考えられる。大変なことや、厳しいこともあったが、無事新年を迎えられたからか。
以前にも考えたことがある。

 その時に「予祝」と言う言葉があり、豊作を祈る予祝儀礼があることを知った。
 年賀状や正月の挨拶は、正にこの予祝が一番妥当ではないかと思う。
 年賀状の文章でも「今年が良い年でありますように」とも書く。
 年頭に当たり、今年が良い年であるように祈り、決意し、新たな出発をする。正におめでたい事である。

 今年は、「賀正」や「おめでとう」と言う慣用句ではなく、予祝の意味が明確にわかる言葉は何か、考えてみたい。

 先日、昭和記念公園で、ユズリハの実を見つけ、写真に撮った。
 正月飾りに使うので、年賀状と無関係でもないので、写真を載せてみた。
 「譲葉」とも書く。
 名前の由来は、春に枝先に若が出たあと、それを見届けて、古い葉が譲るように落葉することから。その様子を、親が子を育てて家が代々続いていくように見立てて縁起物とされ、正月の飾りに使われる。
 イチョウと同じように、雌雄異株なので、実をつけたユズリハを今まで見なかったのかもしれない。

     


昭和記念公園の紅葉

2011年12月03日 | 日記

 11月の半ばに、昭和記念公園の傍まで用事で出かけた。時間が中途半端だったので、どうしようかと考えた。
 丁度カメラを持っていたので、今年もチャンスを逃してしまってはと思い、入った。
 案の定、日本庭園まではたどり着けなかった。
 従って、紅葉は少なく、全体的に黄色と茶色の色調となってしまった。
 イチョウも若干遅すぎの感じ。
 帰りは、日の入りに間に合わず。駅前のイルミネーションがきれいだった。
 今年は暖かそうなので、何年振りかで昭和記念公園のイルミネーションを撮りたい。

 写真を撮ってから、忙しい日々が続き、大分時間が経過してしまったが、年を越さないうちにと思い、写真を載せた。
 ご覧ください。


国民負担率と議員定数削減

2011年11月26日 | 日記

 消費税等の国民負担の増加が議論されるとき、「自らも身を切る」との論調で、議員定数の削減が話題になる。
 しかし、これは論理的におかしい。
 議員定数は選挙制度の一つの要素である。選挙制度は民主主義の根幹である。
 選挙制度は、民意が正確に議会に反映されるものでなければならないのは当然である。その前提に立って財政的考えも含めて、ミニマムな定数を割り出すことが重要である。
 従って、現行の選挙制度を徹底的に検証し、新たな選挙制度を確立し、その帰結として議員定数が確定する。単純に数だけを議論することは全く非論理的である。
 現行の選挙制度に問題はないのか、そこが議論の出発点である。最初に、議員定数と言う終着点に言及すると言う事は明らかに誤りである。
 選挙制度改革は極めて難しい。
 言うまでもなく選挙制度は議会の議決により決する。当然、どの政党が与党であっても、自らの立場・議会の最大勢力を維持しやすい制度に固執する。また、野党であっても与党の失政があれば、政権交代の可能性があり、自らの政党にとって有利な制度に固執する。
 大政党にとってより有利な選挙制度は、与党野党の差がなくなり、利益を共有する。しかも議会では多数決の論理が支配する。
 選挙制度改革は難しくなり、現行制度を大幅に変えることは至難の業となる。

 議員定数を削減すると言う事は世論である。私も大いに賛成である。
 しかし、単に数合わせであれば、それは単なる人気取りであり、日本の民主主義を停滞させるか迷走させるしかなく、国民にとって不幸な結果となる。

 先日、三小の展覧会を見に行った。
 大人と違って、子どもたちは素直に物事を見る、技術的に劣っているから、大人から見ると稚拙な表現と思うがそれは違う。子供たちは見たまま、感じたままを表現しているのだと思う。
 だから感動する。

     

 


ギャラクシータブ

2011年11月19日 | 日記

 私はかつて、「電子手帳」なるものを使っていた。今は知る人もいないだろう。
 シャープの「ザウルス」だったと思う。機種もいくつか変えたように記憶している。入力の仕方は、現在のケータイとほぼ同じだったと思う。
 大きさは小さめだった、後続機種は薄くなったように覚えている。
 ギャラクシータブの大きさは、インターネットを見るにしても他のアプリを使うにしても不自由はない。
 但し、携帯性は乏しい、やはり大きい。丁度いい大きさのバッグを、たまたま持っていた、あまり使っていなかったので、物置から引っ張り出してきた。
 ギャラクシーはキーボードがついているので、入力は格段に速いし、使いやすい。
 ケータイと比較しても同様である。

 電子手帳を思い出したのは、電話をしながら、日程やメモを書き入れることが出来るからである。
 今まで使っていたA4版の手帳が不要となり、バックの中が入れ替わったにすぎない。重量もほぼ同じである。違いは空身で出かける時である。これからは、常にバック携帯となる。

 


立川第三中学校60周年

2011年10月30日 | 日記

 我が母校である立川三中の60周年の記念式典と祝賀会に参加した。
 ほぼ30年前、40歳ごろから色々な形で三中とかかわってきた。60周年と聞いてふと思った。三中のの歴史の約半分である。
 様々なことがあった。公立の学校と言うのはある意味で地域の象徴でああると思う。特に中学校区は地域住民の身近な生活圏としてとらえることが出来る。地区図書館、学習館(公民館)、市の出張所なども中学校区に一つと言うのが各自治体にとって標準となっている。中学校区の面積は各自治体にとってだいぶ異なるが、中学生の移動・活動の範囲がその地域住民の日常的な生活圏とほぼ一致する。

 三中の歴史の中で、一番思い出として残り、印象深いことがある。他の中学校がそうであったように、三中も荒れた時代があった。合唱コンクールでは誰も声を出さず、歌わず、沈黙だけが続く、市民会館のステージに異様な雰囲気が流れる。学校の壁には穴が開き、紙飛行機が校庭を舞い、授業時間中なのに生徒が廊下を歩く。

 卒業式、終わって校長室、無言が続く、誰も声を出さない。
 PTAの会長が声を上げた、「何とかしよう」、三中学区の小学校、PTA、地域、議員等で、三中学区教育懇談会が発足した。全てを可能な限り明らかにする、一切公言しない。その上で、色々なことを行った。細かいことは忘れたが、徐々に改善された。学校は地域の象徴である。良いことでも悪いことでも、そのことで地域がどう反応し、行動できるか、地域の底力が試される。

 PTAの人たちと居酒屋で飲んだ、一つの大きな課題が提示された。前から思っていたこと、何とかしたい。また、新たな歴史が始まる、難しいことだが愉快なことでもある。


三小秋の風情

2011年10月14日 | 日記

 水曜日、三小に久しぶりにカメラを持って行った。
 さんさんクラブで校庭に立っていると、季節を感じさせる虫や木々の姿に接することが出来る。
 比較的長い時間校庭にいるので、シャッターチャンスもある。
 できるだけカメラは持って歩くようにしている。わざわざ写真を撮りに行く時間もないので、何かのついでに撮っている。

 この時は比較的多くの被写体を見た。

 校庭の南西の花壇でタテハチョウの仲間が飛んでいた。
 アカタテハかヒメアカタテハであろう。翅の裏側に黒い斑点が線状に並んでいるので、多分ヒメアカタテハであろう。もし正確にわかる方がいたら教えてほしい。
 錦町の町民運動会で七小で撮った蝶は黒い斑点がはっきり出ていたので間違いなくヒメアカタテハであろう。(運動会のフォトチャンネルに載せてあります)
 

     

     

 校庭の東側の、稲が実っている付近で、ヒョウモンチョウを撮った。
 これは間違いないと思う。
 余談だが、蝶の数え方は意外と知られていない。一匹、二匹ではない。一頭、二頭である。
 数詞は意外と面倒である。

     

 赤とんぼもいた。

     

 三小の北側にイチイの垣根がある。
 赤い実をつけている。
 この実が食べられることも意外と知られていない。ほのかに甘い。但し、種は食べてはいけない。アルカロイド系の毒物が含まれている。
 イチイは漢字で書くと一位となる。この木は貴族の持つ笏の材料となった。正一位などの笏を持つことが出来る貴族の位の「一位」から取ったとも言われている。

 材質が緻密で加工し易いことから、飛騨の一刀彫や木彫の素材ともなっている。小平にある平櫛田中記念館で見た作品を思い出す。
 イチイは別名アララギともいう。

     

 同じく北側に棗の木がある。
 その実が赤く熟している。
 ナツメは中国で五果の一つとされ、食用にも漢方薬としても使われた。

      

 校庭の南側には柘榴が口を開いていた。
 時期的には少し食べごろを過ぎている感じである。

     

 花梨も今年は沢山なっている。まだ収穫するには早すぎる。

     


戦中戦後4大地震

2011年10月12日 | 日記

 第2次世界大戦の終戦を挟んで大きな地震が4回おこった。
 つい最近まで、そのことを知らなかった。たまたま見たテレビ番組で知った。

 4大地震とは、
 1943年(昭和18年)9月10日発生のマグヌチュード7.2の鳥取地震。
 1944年(昭和19年)12月7日発生、マグニチュード昭和東南海地震。
 
1945年(昭和20年)1月13日発生、直下型の三河地震。
 1946年(昭和21年)12月21日発生、マグニチュード8.0昭和南海地震。度々起こる中で一番大きかったので、単に南海地震と言えばこの時の地震
をさす。

 これらの地震は戦中戦後の混乱期に起こり、報道もあまりなされていない。
 特に、戦争中の地震では、軍需工場等が甚大な被害を受け、戦争相手国に知らせないために、被害は微少と報道されている。
 従って、あまり知られてはいない。

 東南海、南海地震は過去に約100年から150年間隔で発生している。
 その歴史を振り返ると、同時に発生した1605年の慶長地震、1707年の宝永地震、1854年には安政東海地震の発生した32時間後に安政南海地震が起こっている。
 昭和に入って、1945年の三河地震を挟んで2年間隔で起きている。

 先日の毎日新聞にNHKのBS歴史館「復興のカギは民にあり-幕末・安政の大地震に立ち向かった男」という番組について書かれていた。
 この番組は私も興味を持って見た。

 主人公は、醤油商(ヤマサ醤油の前身)の主人・浜口梧陵、醸造所は千葉にあったが、出身地は紀州の広村。
 安政南海地震の時、田んぼの稲村に火をつけ、村人たちに津波を知らせるとともに足元を照らし、村人たちを救った。これは「稲むらの火」と題して、昭和12年から22年まで、尋常小学校の5年生用の教科書に載っている。
 この話は、小泉八雲によって外国にも紹介されている。

 浜口梧陵は、災害復興にも資材をなげうって尽力した。
 中でも、特筆すべきことは、津波からまちを守る堤防の構築である。
 この堤防のおかげで、昭和南海地震の際、津波の被害を防いだ。
 今、被害発生はやむを得ない、被害を最小限に留めるという意味で、「減災」と言う言葉が使われるが、梧陵の築堤は、正に、防災であった。
 為政者は、決して減災と言うような言葉を使ってはならない、あくまで、その精神は防災であるべきである。


横浜 夕景から夜景

2011年09月30日 | 日記

 ヨコハマトリエンナーレの日本郵船海岸通倉庫を見た後、赤レンガ倉庫まで行った。
 その時の写真を、遅くなったが、フォットチャンネルでまとめてみた。

 途中、歴史的な建築物もあったが、これも後でまとめてみたい。
 彫刻も、過去のトリエンナーレや彫刻展で創作された作品が市内に点在しているようである。
 日を改めて、見てみたい。なかなか旅行にも行けないので、近場に注目してみたい。

 赤煉瓦倉庫での催し物を見ているうちに、日が暮れかかった。
 ランドマークタワーの夕景を撮り終わった時、水上バスの出発を告げるアナウンスがあった。
 水上バスに飛び乗り、暮れゆくランドタワーやパシフィコ横浜を写真に収めた。
 夜景を撮るつもりはなかったので、三脚は持っていかなかった。
 夜景の撮影は、やはり、三脚が無いと厳しい。

 あまり良く撮れてはいないが、フォトチャンネルをお楽しみに。