堤保有つれづれ日記

つれづれに感じること

万年筆

2011年09月02日 | 日記

 近頃はテレビを録画する機会が多い、理由はいくつかある。
 一番多いのは、放送時間に他の用事で見ることができない時である。
 興味のある番組は、ノートに要点を筆記用にしている。速記能力は、明らかに低下してしまっている。
 聞き逃しや見逃しが続出する。そこで、ビデオが登場と言う事となる。

 私は生来悪筆である。
 そのために、和文タイプも独学で習得した。ワープロも現在のデスクトップほどの大きさで、モニターもダークグリーン、プリンターはA3で布製のリボン、音の凄いワイヤードット型と言う一番初期の段階から使っている。
 今、パソコンを使いこなすことができるのも、私の悪筆が遠因でもある。

 手紙をはじめとして、心を伝える文章は手書きで、しかも、万年筆に勝るものはない。
 このことは悪筆ゆえのコンプレックスとして、常に、頭の隅にこびりついている。

 半年ほど前、机の引き出しを整理していた時に、一本の万年筆が出てきた。
 現職時代に大変にお世話になった方から頂いたものである。

 その万年筆で、録画した番組の要点筆記に使っている。
 書かれている文字は相変わらず悪筆である。
 来年の年賀状には、少しでも心の思いが伝えらたらと、この万年筆で一筆書き加えてみたい。

 東日本大震災で、海外のメディアで伝えられている日本の素晴らしさの基本の一つに、相手を思いやるという、日本人の心根の優しさがあるのではなかろうか。
 万年筆で下手な字を書きながらふと思った。


防災の日

2011年09月01日 | 日記

 今日、9月1日は防災の日、関東大震災の日である。
 今年は、全国各地で、何時もとは違う形で、この日を迎えた。
 言うまでもなく、東日本大震災が、従来の考え方を変えた。

 関東大震災とも阪神淡路大震災とも異なる。津波と原発が大きな要因である。

 立川市においては、立川断層にどのような影響が出たのかが問題である。
 きっちりと調査をしてもらいたい。
 ただし、何時起こるのか、確率はどうかなどはあまり問題ではない。つまり、防災対策は、災害はいつ起こるかわからない、明日起こっても不思議ではない、と言う前提で立てなければならない。

 一口に防災対策と言ってもやらなければならないことは山ほどある。それを全て、今やることは不可能である。
 そこで優先順位をどうつけるかが問題となる。また、実際に起こった災害は、現在行っている防災対策を修正し、より効果的なものにするチャンスともなる。
 現に、津波の予測される地域では、避難所の見直しなどに着手している。

 今、立川では市長選が行われている。候補者全員が防災対策の必要性を訴えている。手元に具体的に考え方を示す資料がないので甲乙はつけられないが、判断の材料とはなるであろう。
 政治とは、一つの現象にスピード感を持って、的確に対応することが求められるのではなかろうか。防災については一般論や抽象論では対応できない。今、直ちになすべきことは何なのか、将来展望に立って長期的になすべきことは何なのか、具体的に示すべきである。

 地域で、防災活動をしていて感じることがある。
 いざ、災害が発生すれば、公的な機関だけではどうすることもできないと言う事は、今や常識である。
 であれば、行政は、平常時に、どう住民や地域組織に接するべきかが見えてくるはずである。
 地域で、自主的に防災訓練を行う場合、行政は積極的に対応し、指導力を発揮すべきである。地域の防災力をつけるため、素人集団である地域組織に専門的知識と経験を生かし、総合的な見地から、積極的に関与すべきである。それが、行政の務めであり責任であると思う。 

 8月の26日から28日まで夏祭りが行われた。
 地域のイベントとして毎年行われる。
 盆踊りと並んで地域の子どもを中心に大人たちも含めて多くの人が集まる。
 地域コミュニティーの構築も、いざと言う時の人と人とのかかわりで大事である。災害が発生した時も大きな力になることは間違いない。

     


湧水・・・矢川から城山へ

2011年08月03日 | 日記

 古本屋を覗いた帰りに、矢川緑地に行った。
 橙色の見慣れない花が咲いていた。

     

 雰囲気は彼岸花と同じである。茎がつっんと伸び、先端に花が咲いている。
 ネットで調べると「キツネノカミソリ」と言う、やはり、彼岸花科の植物であった。

 ガマの穂を撮ろうと思ったが、蚊がひどく諦めた。

 先日、矢川の流れの先の「滝野川学園」の南にある、ママ下湧水に行ったので、今日はもう少し先の城山まで行くことにした。

     

 途中、ヤクルトの東側にある、江戸時代後期に建てられた、古民家・旧柳沢住宅に寄った。

      

 城山公園では、コミスジがいたので写真に撮った。

     


柳通り・・・柳は何処

2011年07月30日 | 日記

 柳通り商店街に節電キャンペーンを展開している旨のポスターが店頭に貼ってある。

 柳通り商店街は、JR立川駅の北口を降りて、線路に沿って東側にある。
 街路には様々な愛称がついている。
 立川に住んでいても「柳通り」の名前の由来を知っている人は少ないのではないだろうか。
 想像の域を出ないのであるが、私が子どもの頃、あまりきれいでない、どぶ川の様なものが線路沿いに流れており、その端に柳の木があった。そこで、柳通りと名付けられたのではなかろうか。

 現在は、柳通りをまっすぐに東に進むと、立川通りに降りる階段にぶっつかる。立川通りに降りずに直角に右に曲がると中央線の下を通る地下道となる。

 昔、川はどこに流れていたのだろうか。今から思うと疑問である。

 子どもの頃、南から北に抜けるには、踏切を渡った。
 錦町から曙町に行くのには、当然、駅には自由通路はなかったので、柳通りに抜ける以下道の真上あたりにあった踏切を渡った。
 柴崎町から曙町に行くのには、諏訪通りを直進して、同じように、地下道の上にあった踏切を渡った。
 当時、東の踏切、西の踏切と呼んだいた。

 しかし、中央線と立川通りがどのように交差していたのか全く記憶にない。
 踏切の記憶もないので、中央線の下を通っていたのであろうが、柳通りの川がどのように流れていたのか、どこに流れていたのかもわからない。

 立川通りについては、子どもの頃の強烈な記憶がある。
 米軍が、当時、進駐軍と呼んでいた、ブルドーザーやグレーダーや見たことも名前も分からない重機をを使って、道路工事を行ったことである。
 舗装道路等ない時代、見る見る間に見事な舗装道路が出来上がった。
 軍事的理由で他の施設と結ぶ幹線道路として、占領直後のことだと思う。
 現在でも、立川で南北を結ぶ唯一の幹線道路である。
 当時、4歳か5歳であったので、大きな機械がものすごい勢いで働いているのが面白かったのである。

 米軍の工兵からチョコレートであったと思うが、何かお菓子の様なものをもらった。
 甘いものに飢えていたので、それも楽しみの一つで、毎日、飽きもせず見に行っていえた。

     
                             柳 通 り


ラジオ体操会場から根川緑道へ

2011年07月25日 | 日記

 錦六公園で毎年の恒例行事である「ラジオ体操」が行われた。
 夏休みはどこの家庭も色々な予定がある。
 子ども会行事も日程的に制約される。夏休みが始まったばかりの時期は、比較的に無難である。
 従って、ラジオ体操も今頃である。
 何年続いている行事なのだろう。私も、小学生時代に参加した記憶があるが、場所については忘れてしまった。

 場所は錦六公園。昨日までの盆踊りの提灯のもとで。

         

 ラジオ体操の会場を後にした。
 カワセミの様子も知りたかったので、根川緑道に行くこととした。

 カワセミが一羽飛んできたが、直ぐにいなくなってしまった。
 カワセミの生態はよく知らない。夏の朝、7時前後に、いつもの場所にいることが分かっただけでも収穫である。
 土手を降りて見上げると貝殻坂橋があった。
 ちょっと違ったアングルで写真に収めた。

     

 根川緑道は、詩歌の道とも言う。
 所どころに歌碑がある。この橋のすぐそばにもある。
 
 私自身、短歌・和歌は俳句ほど親しみを持てないが、これを機会に、根川の下流から上流に向かって、気の向くまま紹介していきたい。

     

 この歌は、「立川連合短歌会」の創設者でもある八木下禎治の歌碑である。

 「日の色の 寒き川原に ひらめける
     芒(すすき)の そよぎ 声のごときもの」

 冬の多摩川の様子を読んだ歌であろう。 
 


看板建築

2011年07月23日 | 日記

 偶然に、「建築探偵の冒険 東京編」と言う本を見つけた。
 著者は藤森照信、ちくま文庫である。
 その中に「看板建築」と言う一項があった。
 昭和レトロの建築物に興味がある。そのうちの一つが看板建築である。
 命名者は建築史が専門の本書の著者である。路上観察学の面でも著名である。
 ちなみに本書は「サントリー学芸賞を受賞している。

 何日か前に、復興小学校のことを書いたが、看板建築も関東大震災直後に建てられたものである。

 看板建築は、軒を出さずに、平坦な前面に銅板等で装飾を施したものであり、二階建て以上の木造の商店である。

      

 この建物は、小金井公園にあるものである。

 だいぶ前に、神田の古本街では多く見かけたような記憶があるが、もうしばらく足を運んでいないが、今はどうなっていることやら。


災害と学校施設

2011年07月20日 | 日記

 今月、「東日本大震災の被害を踏まえた学校施設の整備に関する検討会」が緊急提言を行った。
 学校施設が災害発生時の地域の中核施設であることは論を待たない。
 従って、中核施設としての安全性の確保と機能の強化が求められている。

 この提言は、「学校施設の安全性の確保」「地域の拠点としての学校施設の機能の確保」「電力供給力の減少等に対応するための学校施設の省エネルギー対策」の3章からなっている。

 一読しただけで、詳細な検討をした訳ではないが、日頃から気になっていることを書いてみたい。

 我が地域の第一次避難場所は三小である。
 耐震診断を行い、補強工事も行った。
 少なくとも、倒壊の恐れはないであろうとは思う。しかし、確実に安全なのであろうか。提言にもあるとおり、構造部材の被害により、応急避難場所として使えなかった学校もあったとのこと。
 また、天井や照明器具、体育館のバスケットゴール、窓ガラスなどの非構造部材の安全性。
 これらに問題があれば、余震等による第二次被害も予測される。

 安全・安心と対で語られるが、両者の関係は微妙である。
 単に、耐震診断を行い、耐震補強工事も完了した。そのことを、単純に信じれば安心していられる人もいよう。
 逆に、全て完全に行われていたとしても、行政への不信や、猜疑心の強い人は、そうは思わないであろう。
 大事なことは、いかなる診断が行われ、いかなる対応がなされたかが、明示されることであろう。
 情報が開示され、それを的確に判断しすれば。客観的に安全であり、主観的に安心できる。

 今回の大震災で、スピードの問題が論議されている。
 6月の立川市議会定例会でも、一般質問等で防災問題を多くの議員が取り上げている。一般質問の性質上、散発的で、非体系的である。
 以前このブログで、まちづくりについての特別委員会が、特別委員会の本旨にそぐはないものであることを指摘した。
 今回の大震災を教訓に立川市の防災・減災対応が適切なものであるかどうかを、集中的に審議し、一定の結論を早急に出すべきである。
 正に、特別委員会はそのためにある。6月議会で設置すべきであったにも拘らず、その機を逸したことは誠に残念ではあるが、9月議会で設置し、防災・減災に対する議会意思を明確にすべきである。
 これも、議会改革の眼目であると言ってきている、通年開会を早急に実現すべきである。
 今回の検討会の緊急提言も次回の定例議会が開かれる9月までは議論できない。


復興小学校・・・広尾小学校

2011年07月18日 | 日記

 山種美術館のすぐそばに広尾小学校がある。
 美術館の帰りに寄ってみた。
 是非、見たい小学校の一つである。理由は、関東大震災後に行われた、小学校復興事業の末期に建設されたものだからである。所謂、復興小学校である。
 広尾小学校は、
歴史のある学校で、大正5年4月1日に開校した。
 関東大震災で被害を受けてしまった。

     

 復興に当たり、東京市は、学校を災害発生時の避難場所として、都市計画上で位置づけた。
 震災当時、東京市立の小学校は195校あり、殆どの小学校が被害を受けた。
 従って、倒壊や火災に強い鉄筋コンクリート造りとし、公園を併設すというようなことも行った。
 広尾小学校には消防署を併設した。現在は消防署はないが、望楼はある。
 復興小学校として建設されたものは117校に及ぶ。
 当時の東京市が小学校を地域の防災拠点として重要視していたかがうかがい知れるというものである。

 復興小学校のデザインは凝ったものがあるが、広尾小学校は復興事業の後半の昭和7年であったので、デザイン性は後退し、わずかに玄関部分がデザイン化されている。

 同校は、登録有形文化財として文化庁より指定を受けている。

 なお、同校建設に当たって、子爵であった、土岐章の財政的支援も受けたとのこと。近くにあった土岐氏の邸宅は郷里の沼田市に移築されている。
 一見に値すると思う。

     

 単に防災拠点としてだけではなく、昭和の建築物としての価値をもっている。
 当時の東京市の行政の文化性も垣間見たような気がする。
 他にも、復興小学校の初期の段階のものには芸術的に見ても優れたものも多いようである。
 幾つか見てみたい。

 旅をする機会は少なくなったが、身近なところに意外なものがある。


立川市八ヶ岳山荘

2011年07月11日 | 日記

 立川市の八ヶ岳山荘を予約した。
 8月はほぼ一杯いで。ようやく1日とれた。キャンセルがあって開いていたとのこと。
 何故か、今年は予約が多かったみたいである。
 丸々1日ゆっくりできないのは残念であるが仕方がない。
 去年は丸々1日雨にたたられ、全く外に出られなかったので、今年こそはと思っていたが、今年もあまりゆっくりできない。
 そこで、今年の目的の一つに、小諸に一泊し、小海線を小諸から乗ることにした。

 今まで、キャンプなどで行ったとき、鉄道の日本最高地点は何回も行っているが、小海線全線を乗ったことはない。
 グーグルの地図には、小海線を八ヶ岳高原線としてある。
 真夏の高原をローカル線でゆっくり旅するのも一興であろう。

 もともと、私は地方に出たとき、郊外であろうと都市部であろうと各駅停車で行くのが好きである。
 ゆっくり走る、電車の車窓に流れる景色を眺めていると日頃の憂さを忘れ、心が豊かになる。
 旅に出て、文庫本や新聞を読んでいる人の気持ちが分からない。
 気ぜわしい現代人にとっては、時間がゆっくり流れ、のんびりとした旅はリフレッシュのために必要なのではなかろうか。
 近頃のテレビ番組で、路線バスやローカル線の旅を扱ったものが多いのも、そんな理由があるからではなかろうかと思う。

 丁度、青春18きっぷが使える時期なので、それを利用する。
 1枚余るので、日帰りの旅を考えている。どこになるかわからないが、真夏の暑い時期ならではの計画を立てたい。

     

 去年の、八ヶ岳山荘から見る、雨に煙る景色。


ハンゲショウ

2011年07月03日 | 日記

 7月1日、金曜日、通常は、三小の放課後子ども教室「さんさんクラブ」は開かれない。
 保護者会があるため、臨時に開く。100人以上の子どもが来た、

 校門を入ると、門の傍にハンゲショウが咲いていた。
 子ども達が来る前に、ジャガイモや稲を育てている場所に、毎年ハンゲショウが咲いているので、写真を撮りに行った。

     

 ハンゲショウは「半夏生」と書く。
 「半夏生」とは、夏至から数えて11日目を言う。丁度その頃、花が咲くのでこの名がついたとも言われている。
 今年は、7月2日が半夏生。この写真を撮ったのが、7月1日金曜日。
 何日か経ってしまったが、7月2日が半夏生であると知り、タイミングが良かったので、今日、載せた。

 ハンゲショウのもう一つの名前の由来は、葉の一部が白くなリ、半分化粧しているのでので「半化粧」というのだそうだ。
 ところが、この時点では、三小のハンゲショウは葉の正面は全て白くなっている。徐々に白くなり今は全部白なのであろうか。
 棒状の花の下の葉が白くなり、花を目立たせて、受粉のために虫をおびき寄せるために葉を白く変化させるのだという。
 従って、花が終わる真夏には葉は全て緑になる。
 緑に変わる過程ではどうなるのか見てみたい。
 葉の正面は真っ白だが、裏側は緑である。その意味では正に半化粧である。