録画リストを見ていてふと気が付いた。
撮りっぱなしで未だに見ていない録画がたまっている。
その中に無縁社会についてのものが二本ある。
「無縁社会」は西欧ではなんというのであろうか。
英語ではinvolvementを使うのであろうか。
「縁」とはもともと仏教からきた言葉であり、日常的にさまざまな形で使われている。
「縁は異なもの味なもの」「縁もゆかりもない」等であろう。
この「縁」という言葉が象徴的に使われている例として「袖すりあうも多生の縁」というのがある。
「多生の縁」と正確に書ける人はどのくらいいるのだろうかと思う。特に若い人は。「多少」と書く人が多いのではなかろうか。
「袖すりあう」のも、その人と少しは縁があるからだろうと解釈されがちである。
本当は、袖すりあったその人とは、前世で縁があり、今世で袖すりあうという結果が出たと言う事である。
縁という言葉には哲学的に深い意味がある。
無縁社会という言葉の裏には、日本的、東洋的な人間関係が言い表されているような気がする。
企業形態も日本型からアメリカ型に変化してきている。そこからさまざまな問題も起き、今再び日本型企業形態、経営形態が見直されてきている。
「縁」で思い起こされる言葉に「縁側」というのがある。
「縁側」というと、今の若い人は、多分、すしネタのヒラメの縁側を思い浮かべるだろう。
都会育ちの若い人は建物の「縁側」での体験を知らない人が多いのではなかろうか。
家の内でもなければ外でもない、その中間で曖昧な場所が縁側である。
日常的な付き合いでは、玄関からではなく縁側から家の中に入る。
そこに、日常的な人間関係が生まれ、近所づきあいが円滑に進行する。
地域の結びつきも、当然に濃密になる。
防犯上の観点からは、現在の様な壁で厳然と外界を遮断した建物の方がよいに決まっている。
しかし、玄関という公式の入り口から入るより、気軽に縁側から家に上がる方がより自然な人間関係が築かれるのではないだろうか。
個人と地域の関係にも影響してくるのではなかろうか。