今年の流行語大賞に「絆」という言葉が選ばれた。
昨年は「無縁社会」がノミネートされた。
人々のつながりを、大震災で見直したという点で救われるような気もするが、問題提起をし解決に向けて模索をするという点で、
昨年の無縁社会は意味があったような気がしないでもない。
先日、毎日新聞に精神科医の斎藤環氏が「絆」の連呼に違和感を感じると書いている。
「絆」はもともと馬や犬など、動物をつなぎとめる綱の意味である。(広辞苑①)どちらかと言えば人を縛り付けるという意味のほうが強い。
それが段々、「断つにしのびない恩愛、離れがたい情実」(広辞苑②)というような使われ方になり、束縛の意味が薄くなってきている。
斎藤氏は、「ピンチはチャンスとばかりに大声で連呼される、絆を深めようについては、少なからず違和感を覚えてしまう。」と書いている。
ちなみに三省堂発行の新撰漢和辞典(昭和24年8月新修版)には、①馬の足をつなぎとめるもの、転じて、すべて人の行動を束縛するもの②つなぐ、ほだす、繋ぎ止めるとあり、現在使われているような肯定的な意味は記されていない。
従って、家族の絆、親子の絆、地域の絆などと使われだしたのは、つい最近のことだと思う。明確な検証をしているわけではないが、
マスメディアで使われだし、一般化したもののような感じがする。正に流行語大賞の対象として納得する。
自分自身、この言葉に若干の違和感を感じていた気分が理解できたような気がする。
人と人との関係、地域と人の関係、組織や団体との関係は目に見えない信頼や心と心の結びつき等、内面的な非条理(不条理ではない)な関係であると考える。
「絆」に表されている様に、糸や紐で強制的に結び付けられたものではないと思う。例えれば、磁石のNとSが引き付け合う磁力線のようなものだと思う。
単に理屈であり、言葉遊びと感じる人もいようがそうではない。
表面的には大差ないと思うが、事がより本質的なものに迫った時、その差が現れる。
一例をあげれば、親子関係である。親がエゴや権威と言う紐だけで子どもを育てていれば、何もなければ平穏におさまるであろう。しかし、子供が自立し、主体性をもって行動を起こそうとするとき、その紐だけに頼れば、子どもは反発し、紐を噛み切って親から離れてしまう。身体的にも精神的にも。
紐には握るものと、縛られるもの、主と従の関係が出来てしまう。そこに問題がある。
「絆」と言う言葉の語源はまさにそこだからである。
ともあれ、人間関係が希薄になり、隣の人は何する人ぞという風潮が強くなりつつある現在、振り返るきっかけとして、この言葉が注目されたことには意味があると思う。
蛇足になるが、言葉の意味を考えるとき、初版が昭和12年、新修版が昭和24年の三省堂の「新撰漢和辞典」を引く、少なくとも50年の歴史の隔たりがあり、言葉の変遷もある。
この辞典は、病気で日光への修学旅行に行けず、その小遣いで買った、我が人生で最初の本格的な本である。愛着があリ、座右に置く。
流行語大賞は阪神・淡路大震災の年に始まった。その年は「震」だった。
単に物理的現象を表す言葉から、心の働きを表す言葉に変わったことは、同じ大震災の年の流行語大賞としては、社会がより良い方向に進んできたとも感じられる。