真珠湾攻撃は奇襲戦である。アメリカは開戦・戦争への大義名分を得、国民の戦意高揚を図った。リメンバー パールハーバーである。
日本の大義名分は、大東亜共栄圏の確立である。世界の共感を勝ち取ることはできなかった。日本は当時、太平洋戦争を大東亜戦争と言った。現在でも太平洋戦争を肯定する人は、大東亜戦争と呼ぶ。
真珠湾奇襲作戦の経緯を見ると、当時の日本の問題点のいくつかが見えてくる。
ハルノートに対する外交文書である「対米覚書」は、当初「将来発生すべき一切の事態については、合衆国政府において、その責めに任ずべきもの」であった。
「一切の事態」に戦争状態を含むと言う事は外交交渉上の通念であった。つまり、宣戦布告を意味する。
しかし、この「対米覚書」は軍部の圧力によって、「将来発生すべき一切の事態」は削除され、単に、交渉打ち切りの文書に書き換えられた。
しかも、野村駐米大使が、この「対米覚書」をアメリカに提示した時、激怒した。
その時には、既に真珠湾攻撃が開始されていた。
軍部は当初から、真珠湾作戦は、「奇襲攻撃とする」と決めていた。
従って、それを気づかれないため、戦争を意味する「一切の事態」と言う文言を削除し、本文を14のパーツに分け、暗号化し、真珠湾攻撃の開始直前に現地にに打電した。暗号解読とタイプに手間取り、アメリカ国務省に
「対米覚書」を提示したのは、真珠湾攻撃の開始後であった。
駐米大使は、宣戦布告を示す文言を含まない、単なる交渉打ち切りの文書を、既に戦争状態に入った後に手渡すという喜劇を演じたのである。しかも、現地大使館は日本が真珠湾を奇襲攻撃するという軍事上の情報をもっていなかった、正にアメリカ同様寝耳に水の状況であった。
軍部の極端な秘密主義から情報の共有が図られていなかった。
陸軍、海軍、外務省の極端なセクト主義と、秘密主義のもと情報の共有が無かったというのも太平洋戦争の大きな特徴の一つである。