柳通り商店街に節電キャンペーンを展開している旨のポスターが店頭に貼ってある。
柳通り商店街は、JR立川駅の北口を降りて、線路に沿って東側にある。
街路には様々な愛称がついている。
立川に住んでいても「柳通り」の名前の由来を知っている人は少ないのではないだろうか。
想像の域を出ないのであるが、私が子どもの頃、あまりきれいでない、どぶ川の様なものが線路沿いに流れており、その端に柳の木があった。そこで、柳通りと名付けられたのではなかろうか。
現在は、柳通りをまっすぐに東に進むと、立川通りに降りる階段にぶっつかる。立川通りに降りずに直角に右に曲がると中央線の下を通る地下道となる。
昔、川はどこに流れていたのだろうか。今から思うと疑問である。
子どもの頃、南から北に抜けるには、踏切を渡った。
錦町から曙町に行くのには、当然、駅には自由通路はなかったので、柳通りに抜ける以下道の真上あたりにあった踏切を渡った。
柴崎町から曙町に行くのには、諏訪通りを直進して、同じように、地下道の上にあった踏切を渡った。
当時、東の踏切、西の踏切と呼んだいた。
しかし、中央線と立川通りがどのように交差していたのか全く記憶にない。
踏切の記憶もないので、中央線の下を通っていたのであろうが、柳通りの川がどのように流れていたのか、どこに流れていたのかもわからない。
立川通りについては、子どもの頃の強烈な記憶がある。
米軍が、当時、進駐軍と呼んでいた、ブルドーザーやグレーダーや見たことも名前も分からない重機をを使って、道路工事を行ったことである。
舗装道路等ない時代、見る見る間に見事な舗装道路が出来上がった。
軍事的理由で他の施設と結ぶ幹線道路として、占領直後のことだと思う。
現在でも、立川で南北を結ぶ唯一の幹線道路である。
当時、4歳か5歳であったので、大きな機械がものすごい勢いで働いているのが面白かったのである。
米軍の工兵からチョコレートであったと思うが、何かお菓子の様なものをもらった。
甘いものに飢えていたので、それも楽しみの一つで、毎日、飽きもせず見に行っていえた。
柳 通 り