堤保有つれづれ日記

つれづれに感じること

暑い夏

2011年06月22日 | 日記

 今日はこの夏を予感させるような暑さだ。
 去年の酷暑を思い出させた。
 私の書斎にはクーラーはない。
 クーラーは嫌いである。しかし、もともとクーラーが嫌いなのではないと思う。
 クーラーのない日常生活を送っているうちに、クーラーが体質に合わなくなってしまったのであろう。
 夏は、外出する時、上に羽織るものを持っていく。電車や飲食店などの冷房が強すぎるからである。

 今年は大震災の影響で、冷房の温度も高めに設定するであろう。大歓迎であり、その意味で、過ごしやすい夏となるであろう。

 クーラーという人工の環境のもとにいると、自然の恵みも感じられないであろう。
 昔は、縁台を出して、蚊取り線香を焚き、打ち水をして、夕涼みをした。将棋をしたり、線香花火に代表されるような地味な花火を楽しんだ。
 夕涼みという言葉、それ自体が死語に近いのではなかろうか。
 今、クーラーのない暑い部屋でこのブログを書いている。時折、涼しい風が窓から入ってくる。この感じは部屋を閉め切り冷房の中にいる人には絶対に味わえないだろう。ある意味で、至福の一瞬である。確かに、昔と違って、夜になっても暑い。何とかしてほしいとも思う。夕涼みどころではない。

 大震災以来、日常生活を見直そうという流れができてきている。
 特に、原発事故以来、節電が、必要に迫られて叫ばれている。夜の照明はいたるところ明るすぎる。
 電気の消費だけではなく、あらゆる面で、見直すべきであろう。
 文化論的というべきか文明論的というべきか正確には分からないが、転換期に来ていると思う。

 石原都知事が「天罰」という言葉を使ってひんしゅくをかった。
 私は、どのような状況で、どんな話し方をしたのかわからないので、知事の発言を評価することはできない。しかし、現在のわれわれの生活を見て、その本質をついているとも思う。
 大量消費、それに伴う多量生産。電気もその例に漏れない、電気代さえ払えば、東電の電柱から無制限と言ってよいほどの電気を自由に消費できる。
 その裏に、大量生産がある。地球温暖化で化石燃料の消費が抑えられれば、当然の流れとして、原発絵の依存度は高くなる。
 そんな意味をも含めて、人間・日本人のおごりが現代の風潮でもあるような気がする。その意味で天罰かもしれない。

 今年も、酷暑に耐えながら、冷房のない部屋で、わずかに、一陣の涼風を楽しむ生活を送っていきたい。
 以前から、クーラーはないので、節電には影響ないのが残念。

     

 真夏の炎天下に生き生きと咲く向日葵のように、今年の夏を乗り越えよう。
 年を考え、熱中症に気を付けて、水分補給と帽子の着用を忘れずに。


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