神社や寺では、清められた綺麗なお札をもらう。
だからこそ、日々を精進している神社や寺でなければいけない。
深川の富岡八幡宮では宮司の親族同士の殺し合いがあったが、俺はいつも元八幡様とも呼ばれている富賀岡八幡宮で札をもらう。
日本の原始から続く富士山信仰の、富士塚がいまでもある古く小さな神社だ。
そこで頂いたまっさらな札に、今年一年、自分を入れる訳だから、簡素でも古くからきちんと小綺麗にしている神社や寺を選ぶ。
神や仏とは自分そのもののことで、それ以外にはいない。
怪しい宗教や団体ではなく、俺一人のいつもの儀式。
土人国家や後進国では、いまだに先祖や神や仏を信じて暮らしているが、俺はそうやって自分が神になって40年も過ごしている。
2礼2拍1礼とかは、神棚に入れた自分と会うためのただの暗号だから、なんだって良いわけだ。
自分と向き合うときに、神棚の札と語り合う。
神で生きているか?
すべてが自分から始まっている。
自分が終れば、すべても終わる。
霊だの魂だのは山の頂から天に帰り、肉体は地球に帰る。
俺の生活はそうなっている。
これが新しい年の儀式ではある。
山々の頂にある古く朽ちた祠に行けば、自分を入れる。
・・・神が来たぞ! と。
その年の良い方角は、これからたくさん登るあちこちの方角の山で決まる。
楽して決まることや、ゼニカネで決まることはナニひとつない。
今年一年、また神で生きる、大変なことだが、しっかり愉しんでやろう。
そのために、何千、何万という山の頂で神々と会い、俺を仲間に遺してくる。
それが俺が60年、生きて来て作った自分なりの儀式でもある。
区切りとして1年の始まり、そんだけのことよ。