人は、大病を患うと己の死を強く意識するようになる。
とはいうが、俺は若い頃から身近な人間の死に振り回されることが多かったせいもあって、そのまま放っておいては道連れにされそうな状況も多かったから、早くから現実的なモノの思考と感情に変わっておったために、大手術を経験して死にかけて身体障害者となっても、別に生きる価値観は変わらないまんまだ。
その在るがまんまの身体で、またまた生きる工夫を凝らしてるだけのこと。
あの世や霊魂やお化けなど、祟りやバチや怨念など、生きて居る人間だけがそれに左右される詭弁だと、はっきりと言えるようになっている。
どう生きるか? は、すなわちどういう心持ちで日常を過ごしているか? ということだ。
死生観なんて仰々しい想いなどサラサラなくって、逆にスッキリ在るモノを在るがまんまに見るようになる。
情報が溢れ返っている現代社会では、多くの知識や思考や雑念を抱えて生きて居ると、それらを否定するために同じくらいの多くの雑念が生じる。
それらがキレイさっぱり解決済んで、迷いやらがなくなってくると、毎日毎日がそのまんまになる。
資本主義の世の中社会では、食い扶持を作っておらねば生きては行けないから、それが日常の時間を左右するだけのことであって、あとは確実に死に向かって生きて居る。
そこになんの問題も煩悩も無い。
人は死を意識すると諦めにも似た投げやりになったり、急いで生き方を変えたり、やり残した事を考え、相続や引き継ぐことを考えるようになるが、そんなことも俺にはナニも無い。
いつも後悔なく生きる、これで過ごして居ったおかげで、別にナニも変わらない日々を過ごしている。
借金や負債とて、会社も個人もナニも無い。
こう生きて居ると、人の欲望や歪みや表裏がよくよく見えるようになる。
生まれた日本の、いろんな自然の景色を味わい、この身で感じていたい、それが俺の生きて居る意味でもある。
そんだけのことであって、それ以外にはナニも無いとも言える。
淡々と笑って生きる、それがごくごく普通の人間の命だろう。
宮沢賢治の書いた『なめとこ山の熊』そのまんま、生きてるような感じだな。