オストメイトで山賊と海賊・・・銀座のコテコテ周旋屋のよもやま話

去年は100の山を愛し、今年は108の山に恋をする。
夏は太平洋の大波で泳ぎ続け、日本の自然を愛して66年。

日光東照宮、鳴き龍セールス坊主

2019-11-07 08:14:26 | 銀座の周旋屋

 

 日本人にとって、昔は山そのものが神であり、その麓には誰でも気軽に参拝できる本社が建ち、その山の頂上には奥社がごくごく小さく置かれていた。

 その名残りが日本中の古い信仰の山々にはそのまんま、朽ちてもなお残っている。

 俺のような毎週のように山に登る人間は、麓の賑やかな本社には参拝しない。

 頂上の奥社で、神々と同等の会話と挨拶を交わすだけだ。

 ・・・おう、登って来たで!! 

 神々の会話だと想ってるから、決して恭しく頭を垂れるということはしない。

 降りるときに安全の神頼みなど、絶対にしない。

 自業自得だから・・・じゃ~また来るわい!・・・で、ここの神は去って行く。

 この頃の大人たちは、お行儀が良くって、阿呆みたいにお化けを信じて生きてるのがまた増えてる。

 呆けて死んでまうで、そんな有りもしないモノを怖れて、有りもしないモノに頭を垂れている。

 新興宗教が、廃れない訳がそこにはある。

 ほとほと間抜けなことだでや。

 こういう山々の奥社へと、願掛け・祈りに、昔は講に出掛けていた信心深い人たちが多かった。

 足腰の弱ってる老人や病人に代わって、お札をいただきに参る、そんな代役が群れて山に登って行き、記念碑を建てて寄付を預け、規則正しい精進宿泊でもてなして、お札を渡して帰しておったもんだ。

 この代役が曲者で、ま~ま~それ以上は書くのはやめておこうか・・・石ころも、思う者の念が濃ければ宝石にもなる、これを流行りのスピリチュアルとも言う。

 

 テレビや新聞・ネットの報道媒体が、作りモノ・自作自演のサクラを使った事件や事故を起こし、そこに仲間の専門家や公務員を配置して横並びの解釈と解説を付けて置く、視聴者という猿の集団はそこで良いだの悪いだのと大騒ぎを始め、それで今日一日は中身のある一日だったとなんだか幸せな気分・・・これを、阿呆という。

 

 プロ・スポーツ選手とは、対価を金で貰う。

 よく頑張るのが当たり前で、凄いプレーをして当然、鍛え上げた肉体で常人の及ばない動きを見せるから対価を貰えるだけの話で、それ以上でもなければ、それ以下でもない。

 芸を見せて、金を貰う関係。

 ミスや失策など、民間の自営業だったら、即廃業にも繋がる話でしかない。

 そのうえ、やめてもOBとしてその世界に残ってしがみ付いてる連中は、カス、権力・スポンサーの側の伝書鳩。

 協会だの、理事だ理事長だの、担当大臣だの、みなカスの集まりでしかなくって、選手のことは使い捨ての奴隷くらいにしか考えてないのが本当だ。

 選手の立場を! 選手の気持ちを! と、叫んだところで、ゼニカネ目当てに頑張ってる選手は、その足元を見られている。

 つまりは猿回しの猿。

 

 アメリカン・ドリーム、これは国家が国民を統制するときに見せてやる劇場版の作り涙。

 国家に拠る自作自演のテロで身内を失って、傷を負って、そこから頑張って立ち上がる・・・そんなクサイ脚本なんて、最初から自作自演のテロがなければ別に要らない苦労でしかない。

 無駄なことをして、無駄を作って壊し、これが現代の資本主義の政治になっているだけ。

 いちいち心を動かす部分なんて、な~んもないがな。

 

 日光東照宮のお薬師鳴き龍の下では、坊主が物売りのセールスに夢中になってる。

 東照大権現も呆れかえって苦笑い? いやいや、わが国の歴史なんてそもそもが壮大な嘘とはったりなだけ。

 その本来の姿を明るみに出してきてると想えば、別に珍しいことでもないがな。

 騙されてたあんたらが、ただの猿だった、そんだけのことよ。

 これが令和の社会の世相でもある。

 それでも、見ざる聞かざる言わざるなんだろうな~。

 

 いつ死んでも良いように、後悔しないことだけを念頭にして生きてくると、人間社会の善や悪なんて基準は、どうでも良いビニール紐くらいにしか思えなくなる。

 集団で生きる社会での、一応の取り決めであって、別にそれが良いとか悪いとかとは考えなくなってしまう。

 法律やルールとはそんな程度のものであって、面倒な違反をして猿な衆愚らに吊るし上げられることがあればまた、これも時間の無駄でしかなく、だからその辺の機微を弁えて生きるようになる。

 そもそもだ、ひとりの人間の存在よりも先に在るものはナニも無い。

 人間より先に取り決めがあるとするなら、すべては群れの統治のための口実でしかない。

 名前や言葉や思考や感情すら、誕生の後にまわりの環境で身についたものだ。

 その既製服と言っても良い身についた洋服をいっさい脱ぎ捨て、そこから本来の生は始まる、俺はそう想ってる。

 これは20歳の頃に、すでに確信として持って実行していた。

 他人の評価なんてどうでも良い石ころみたいなもんだ。

 だから俺にとっては日本という国家などどうでも良いもので、この生まれた島国を満喫する、それしかない。

 そうして61年生き、そのまんま今が在る。

 

 モノの本質を極める、見抜く、これさえ自分独りで出来るようになれば、別に人や時間やゼニカネに追われて暮らす必要もなくなるんだがね~。

 斜に構えて、厭世自慰に浸ることもない。
 
 果てのみえない宇宙や地球と、そこで飽くことも無くトボトボと歩き続ける自分の小さな足元、それだけで充分だろう。

 愉しいよ。