山に登らないときでも、毎日、少なくとも1万歩は歩いてる。
ところで、魚止めの滝というのがあって、さして有名でもないし、どこにでもあるようなもんで、紅葉は綺麗な場所だったが・・・このところの台風と大雨で魚どころか人間まで止めてしまってた。
・・・死んだら葬式もせず、骨は海や川に撒いてくれ、墓標もいらないし、法律にひっかからないようにうまい事、適当に処分してくれりゃ~それで良い、墓のように一か所に閉じ込めることだけはしないで欲しい・・・
80歳になる顧客との会話のなかでそんな愉しい話をしておったら、
・・・おれも息子たちには同じことを言ってるよ・・・
・・・そうそう、どのみちただのモノになってまで、名前つけて都合よく遺されちゃ~、たまらんわな
・・・何事もなかったように消してくれれば良いんだよ
大笑いだった。
小さな子供を二人抱えて離婚して、膠原病の母親も引き取って、開業医として働き始めてる女医と関り合いを持つようになってるが、自分で仕掛けて生きてゆく以上は、そこに甘えは許されない。
他人よりも多くの荷物を背負って生きてゆくには、それを楽々担いで山を登って行く体力や精力も必要だし、まわりに振り回されない強靭な脳みそも必要になってくる。
俺はそうやって生きてるうちにどんどん身体は強くなり、独りで悠々と生きておれるし、まだまだ背負っても良いような、そんな余裕すら手に入れている。
なんでもさ、心持ちひとつ、さ。
引退して、それまでの職場に残る、これが現代社会の癌となり、甘ったれた世界をどんどん狭くしてる。
いかにも優しい先輩、いかにも物わかりの良い先人、いかにも大きな人間性・・・そうやって安穏と組織の側に組み込まれて、後輩を扱いやすい演芸猿に染めて行く役を演じる。
そのうち大メディアに踊らされて、自民党からでも立候補するのか? そんな腐りきったスターや英雄ばかりが大衆に歓迎され? 本当に? 狭小な世界で、もっと歪な昭和の腐臭を振りまいている。
現代の健康と医学、これは国家にとって扱いやすい豚や牛を育てるための指針であって、それがすなわち人間にとって良いことだと考えるのは、どうかしてるぜよ、おっかさん、だろう。
生死を彷徨う大病をすると、そんなことが解ってくる。
治療や快癒というものは、結局は本人の意思と体力・精力、自己治癒能力しだいで変わってくるのが本当だ。
小児科や内科医は単なるカウンセリングの専門家で宗教家に近く、外科医はメカニック、そんなようなもんだ。
病院や医者にかかれば健康は維持できて、病は治る、これは大きな勘違いで、手助けはしてくれるが、最後は自分の力で生きて行くことしかない。
しかも、そこに政治的な国家というものが絡んできて、金儲けの医者や病院とつるんで国民を麻薬中毒のような状態に持って行こうとする、これが現代予防医学の本音だろう。
高齢化し、長生きすればあちこちがガタガタになる、これは自然なことだ。
生まれたら死ぬ、別に驚くことでもない。
例えば遺言や遺書を遺す、これは単なる他人や社会に認めて欲しいという自意識過剰の類で、満たされなかった後悔ばかりの自分に宛てた捨て台詞、そんなようなもんだ。
綺麗サッパリ無になるには、墓も名前も遺す必要などナニも無い。
在ったモノが、跡形も無くなる、これを生死、と言う。
小難しい理屈や説明など要らないし、大事なことはどれほど後悔なく、目いっぱい生きたか、それだけだ。
自己満足とは、それだけで良いし、それ以外には無いだろう。
ボクシングジムの会長の紹介の貸主のマンションに、元プロボクサーで今はウエートリフティングの選手になってる40のお兄ちゃんが入居することになった。
なんの関わり合いもないのに、たまたま、だ。
不動産は縁モノだとは言うが、俺の管理してる不動産では、そういうことも多い。
そこからまた関わり合いが増えて行って、この頃では、それぞれの名前すら浮かんでこない俺には・・・面白い人間と面白い人間がいてさ・・・俺がいなくなっても、ま~ま~仲良くやってきなよ、となる。
人と人をくっ付ける、これも周旋屋の大事な仕事でもある。