山に向かうか、海で沖に泳ぎ出るか、迷っている時に、これから支援や介護をと動き出した独り暮らしの婆さんが、先を見越した色んな動きを始めていることが重荷になり、面倒になり、自然に死にたいという短絡的な思考がまた甦って、元の木阿弥になったために飛んで行き、海と絶景の中に一緒に連れ出して、丁寧に話をやり直すことに費やした。
おなじような境遇から、最後は嫌々でも俺に従って、実家の整理から墓の問題もすべて解決してやり、自宅で眠るように父親を大往生させてやった動きをジッと見ていた89歳になる母親は、いまでは感謝しかないと笑ってるが、それも同行させて明るく賑やかなドライブにしてやった。
施設や病院の陰気で閉鎖的な空間には入れずに、慣れた自宅で無駄な延命措置もせずに自然に終わりを迎えさせてあげたいが為に、すべては始まったことだと、なんども笑って話をした。
ただし、余計なお世話の介護や支援を拒絶したいならば、自分たちでやらなければいけないことがあり、それをキチンとやらなければ、望み通りにはいかない現実の社会があるということも、解りやすく話をした。
今の時代、身勝手に簡単に死ぬことも出来ない。
帰りの車の中では、よく喋り、よく笑い、楽しく老いの愉快な話を笑い飛ばしながら戻って来た。
なんどぶち壊されても、なんどでも説得を続けて信用を得るまで笑って逃げない姿勢を見せる、これしかない。
子供の教育とも似ているが、成長ではなく退化ばかりしてゆくことを自分でもイライラしている高齢者には、それをすべて受け入れて理解してあげる笑いも必要なものだ。
誰かにそれを頼り、委ねるのではなく、身内のものがまずそれをやる。
責任の所在をはっきりさせて、安心させることが出来なければ、一人前の大人としては存在していないということになる。
それを根気よく離れずに笑って続けることで、信用は膨らみ、良い結果が生まれる。
頭で理解はできても、実際にやってみせることは難しいが、一人こなせば後は楽にこなせる余裕も手に出来る。
自営の周旋屋の営業は、なんにでも共通する信用創造ではある。
俺が動き出せば取り巻くまわりも巻き込んで、それで新しく楽しい毎日が始まってゆく、いつものことだ。
山に登るよりも疲れたが、丁寧に丁寧に、理解を得るために笑ったさ。
介護の始まりは、こうあるべきという、そんな気持ちを皆で持てただろう。
元気だし、まだ自分のことは出来るから、気ままな独り暮らしを続けたいという高齢者に、肉体の急激な衰えが始まる前に日常の支援や介護の公的なサービスを受けさせることを理解させて、一緒に前向きに準備して行こうとその気にさせることは、簡単なことではない。
頭で理解しても、いざ行動を起こさせる段になって、面倒だし、他人が色々と日常生活に入り込んでくるなんて嫌だと、拒絶するところから始まるのが常だ。
取り巻く身内の者の生活も、身勝手し放題マイペースだった日常から、常に気を配り続ける関り合いに変わって来て、優雅な綺麗事を謳歌する時間を奪われることになるから、それをまわりの身内にも徹底理解させることを同時にしなければならなくなって、余計な仕事が増えるケースが多い。
みながプレッシャーに感じ、面倒に感じ、なんで自分だけ? という思いを抱かないように持ってゆくには、愉快な笑いに満ちた関り合いにしていかなければならないが、身勝手な我欲生活に慣れてしまってる現代人には、コツコツ丁寧に相手に気を使うという関り合いが出来ないケースが多い。
家庭での子供の教育でもそれは同じことだが、まず自分から嘘は無しにして、腹の底から愉しんで、心を開いて目線を同じにして接することから、それは始まる。
人間関係が上手くできない、コミュニケーション能力の欠けた大人社会では、大混乱になってゆくだろう。
俺は自分の親を楽しくキチンと守ってやって、それを隠さずにすべて公開して生きていることで、他の閉じ籠っている高齢者たちの偏屈な自我の扉をはずしてしまう、そんな方法をよく使っている。
いまは89歳になる元気な気の利く母親を同席させたり、不安な高齢者を連れ出して一緒に老いを笑い合う、そんなことも多くなっている。
本気で走り回ってるおかげでいろんな人脈も出来上がっていて、有能な人たちのフォローも受けさせてやれる。
能書きや、他人事だからこそ素敵なことばかりほざいてる安易な連中には、いざ自分の話になると動転して身動きできなくなってる幼児も多い。
経済的にも、大人としても、社会的な生き様も、堂々と親や高齢者を越えていれば理解は得やすいが、介護や支援を受けさせようとする身内が、間抜けな貴方任せの消費生活ばかり、スネカジリの借金まみれだったりすると、上手くは行かないし、感情的に怒るだけではもっとガタガタになって行く。
支援や介護をする側にも、そんな準備がなければ高齢者本人だけでなく、関わってくれる人々からの信用など得られず、恥ずかしいだけの能書き綺麗事だけの口先だけでは、子供や高齢者からも胡散臭い奴だと密かに認識されるようになり、関り合いは上手くは行かないだろう。
楽しく笑って子を育て、高齢者を自宅で見守る、そんな普通の日常を送るには、そのすべての責任を負って笑ってみせる大人社会がなければダメだが、俺がアチコチから呼ばれてるケースを考えると、残念ながら時代は大混乱に向かっているな。
親や高齢者を超えてないお子ちゃまだらけの大人たちが、偉そうに介護や支援をやるなんて、ナンセンスさ。
挙句に金だけ払って貴方任せ、これじゃ~な、猿の盆踊りだろう。
ということで、今日は早朝から大病院の予約やナニやら、多忙な週がまた始まってる。
俺自身の視力が半分に落ちてしまった右目の検査も入っているが、自分のことは後回しになりそう。
まわりは心配してはくれても、じゃ~俺の代わりが出来る大人がいるのか? という話になって終わりだろう。
どいつもこいつも、しっかりせ~や。