ここ最近、深夜に奥山に向かう時は、月や星が綺麗に見えておる。
今が一年でも、夜空の星は最高の光度なのじゃ~ないのか? いつも暗いうちから山に登り始める時、空を眺めながら休憩をし、自分の位置を確認している。
暗い海で泳ぐときも、これはおんなじで、星の見えない夜は泳がない。
たくさんの星が瞬いているのは、なんということもない見慣れた景色だが、プラネタリウムよりも本物のほうが絶景なのは言うまでもないことで、そういう地球や宇宙の生の息吹をいつもの光景だと言っていると、よく・・・羨ましい・・・と言われる。
人間が、人間だけの世界で創ってるモノなんて、敵うわけもない。
日曜日は昼には山から戻って爆睡して、またいつものように深夜に銀座の店に出たが、留守番電話には家賃滞納常習者からのコロナ言い訳が2件入っておって、親が死んで弟も死んでとか、給料が出なくなったから・・・その証拠と裏付けがなければ常習者は信用できないわけで、日本でも飛びぬけて優秀な敏腕弁護士たちが後見人に入ってる案件なんかもやってると、いちいち証拠を残さなければいけないから、対応は冷たい応対に聞こえるんだろう。
そもそも泣いてくるという行為には、嘘がある。
法が正しいと言う訳ではないが、ひとつの社会で規範を作り、皆のバランスを取っているのだから、それを守れないということは罰則によって裁かれる。
中国には幇と幇外という価値観があるが、幇の外にいる人間は人間とは看做さない、そういう歴史もある。
幇内で定めた決まりは生死を賭けても絶対に守り、幇の外で生きる者にはナニをしても良いだけでなく、幇のためには略奪・強奪・殺人、なんでも良いことだという話で、小さく言えば新興宗教や組織、大きく言えば国家間の争いの縮図のようなものだ。
今回のコロナ自粛騒動は、強制ではなく要請だから、倫理や道徳というあやふやな線引きで社会は混乱してる。
統治する側は強制すると自分たちの責任と負担が大きくなるから、要請で止めているということもある。
要請であるから、俺は他者と接触しない形で山に登り続けている。
登山はダメ、自粛、山岳会や野口健あたりが言ってるのは、行列渋滞の出来る人気の山のことで、山小屋があったり、トイレや東屋があるような山のことで、俺のブログを読んでる山岳会やガイドの連中は・・・あんたは関係ないだろうと・・・と、笑っている。
人気の山を作り、百名山という訳のわからない小さなカテゴリーで括るから、創造力のない人が集まり、ゴミは大量に捨てられて、モラルだのなんだのと大騒動になってる。
人の寄り付かない奥山に行けば解るが、メディアでは取り上げない産廃が、あちこちの山の登山口に向かう未舗装路に散乱している。
廃村や廃屋、原発が儲かるからと放置したまんまの水力発電もたくさん残骸になったまんまだ。
富士山だけを掃除してたって、日本の山は綺麗にはならない。
野口健のようなミ~ハ~アルピニストがメディアでもっともらしいことを抜かしてる限りは、無理だろう。
やるのなら、黙って独りでやっておれば良い。
それを見て共感するものも、黙ってやって行けば良い。
大事なことは言わない、これからの人間社会は、そうなってゆく。
ネット社会の進歩と、情報の氾濫とは言うが、発信する人間が未熟で幼稚である限り、そうなってしまう。
車のナビが良い例だ。
俺のような半世紀近く日本中を自ら運転して遊び惚けてる爺ィは、ナビは距離を見るだけのことで、同じようには走ってないのが本当だ。
データを入力する連中のオツムよりも、俺のオツムの経験と記憶の方がはるかに膨大なデータを持っている。
すでにお月様への往復を2回終えて、また片道届きそうな距離を走っている。
いま乗ってる2台の車も、新車で買ってすでに25万キロと16万キロを走ってる、月へ届いてる。
そうして山奥の人が寄り付かない登山口とも言えないような場所に車を停め、そこから登山は始まる。
同じ山でもいろんなコースがあり、道は縦横無尽に繋がっている。
大昔は、そんな山道だけを伝って、東北地方から熊野まで詣でていた山の民もいた。
ネットで見て、行ったつもりになる、解ったようなことを抜かす、経験者のような話をする、ナニも知らない同類の間抜けは騙せても、あらゆる経験を積んで来てるものには、通用しない。
すぐに嘘が解る。
現代社会は嘘と創りモノばかり、そうとも言える。
そういう立場で、いまでも現役で生きていると、いつも子供たちや若者たちには言ってる・・・好きに生きろ! お前らが怖れるような大人はほとんどおらんがな!・・・そういうことになる。
嘘を考え創るくらいなら、すべて自分で好きに動いて、生きて行く方が愉しいに決まってる。
人が生きる、これは猿の物真似じゃ~ないんだぜ。
騙されて無駄な時間を歪んだ自己満足で終わりにしたくなければ、自分で黙って動くことしかない。
俺はガキの頃からそれを続けている。
どうせ一度の道ならば、想う存分に好きに生きてやろう。
そのエピローグに、そろそろ入ってきてると想ってる。
愉しかったぜ、オモシロかったぜ、そうしてまだ大笑いして生きている。