成年後見人制度というものがある。
銀座で当社が管理している賃貸建物の土地の所有者が長男名義で、建物の名義が母親になってる不動産があって、昨年も賃料滞納してる2世帯の悪質な賃借人を相手に裁判を起こして、年末に判決を勝ち取ってる。
弁護士は使わずに、原告が自ら訴訟を起こすという形で、俺が一緒に最初から最後まで動いている。
この母親が脳溢血で昨年末に倒れてしまって、意志表示が出来なくなったことで、この不動産の売却がスムーズに行かなくなったわけだ。
遺言公正証書にも長男の土地の上に建つ母親の建物は長男に譲ると記載されているが、すでに意思表示が出来なくなった母親の所有物を勝手に処分することは出来ない。
しかも厄介なことに、その母親の持ってる筈の建物権利書が無くなってしまってた。
長男自らが成年後見人となって動くしか道は残されてない。
この成年後見人を専門職に任せてしまうと、毎月の手数料だけで10万くらいはすぐに飛ぶ。
今日も朝からその打ち合わせ、午後も打ち合わせ、俺が出来ることは専門職には頼まずに、ぜんぶまたやってみようと想ってる。
俺は弁護士でもなければ司法書士でもない、ただの周旋屋。
法律がある、良い悪いは関係なしに法律がある。
その法律を最大限に解釈して、生きて行く、これを知恵と言う。
大事なのは、専門職に丸投げして、自分では動かずにボケた顔してゼニカネだけ払って過ごさないこと。
良いように利用されるシステムが社会には出来上がっている。
それに安住して知恵もないのに資格だけで威張ってる間抜けばかり。
不動産の所有権移転登記だって、司法書士は使わずに買主が自分でやることは出来るから、身内や仲の良い連中の不動産登記は、俺が代理人としてやってあげたりもしてる。
あくまでも原則は 自らで! これが法律の基本の筈だが、なんでもかんでも専門職という、弁護士や司法書士に任せっきりになってる現代社会は、お子ちゃまで幼稚な大人をどんどん増やしているだけだ。
昔はうっかりミスのせいで、上場企業に当社が訴えられたこともあったが、俺は弁護士など使わずに俺自身が裁判所に何度も出向き、相手の弁護士とやりあって、損害賠償金が100分の1になったこともあったが、それとて納得できる法律ではなかったから、ずいぶんと悪態ついたもんだ。
今の年寄りは 戦争で苦労した! 食いものも無かった! とばかりは言うが、その後の高度経済成長ではエコノミック・アニマルと呼ばれるほどの無分別な贅沢三昧で、実際は今は亡きその親の代が一番に苦しい時代だったのは、俺なんかはつぶさに眺めて生きて来た。
ただただ主義主張のない、洗脳・煽動されるがまんまの消費生活に、阿呆みたいにうつつを抜かしておった。
そんないまの高齢者のほとんどが、その親には決して頭は上がらず、逆らうことすら出来なかった事は語らない。
・・・調子の良い嘘と自己正当化はエエかげんにしとけや!! これが俺の本音だ。
親が逝って、上がらなかった頭が子や孫や社会に向かって上がっている。
ま~だ年金だってたくさんもらってるから喰うには困らず、栄養も摂りすぎくらい食べてるから、だから脳がイカレテ植物状態になっても、すぐには逝かないだけの体力がある。
これからは団塊の世代がそうなってくると、世の中社会は要介護だらけになるとも言える。
年金も怪しいもんだろう。
どうやって生きて行くのか?
別居して暮らすよりも一緒でなければ生活できなくなる。
付加価値だけの不動産は余るね。
30数年前にそのど真ん中で経験した不動産バブルの崩壊よりも、もっとジワジワと酷いその時はやってくる。
今のような自由に生きようと想えば生きることも出来る時代ですら、オツムの先入観と古臭い価値観の虜となって、息苦しい封建時代を生きてる大人が多いけんども、もっと酷かった明治の時代に、とんでもない生を生きた詩人がいるが・・・そんな明治の時代でも群を抜いて生きた詩人は誰か? と言えば、岩野泡鳴いがいにはいないだろう。
身勝手な翻訳が蔓延り、文章の技術的なことや、詳細についてばかり言葉や語彙を弄する詩人や作家ばかりが増え始めた時代に、その時代の常識や良識など見向きもせずに、女たらし・放蕩モノ・鬼・ゴミ・・そんな解釈にも聞く耳を持たず、その時代に樺太まで出掛けて蟹の缶詰事業に手を出して失敗して、また放蕩を繰り返す、見事な詩人だったと俺は想っている。
よく似た価値観で、違う時代を俺は生きてるようでもある。
ランボーなら許されて岩野泡鳴はキチガイ扱い、おかしな国だぜ。
外観ばかり着飾って、欧米の猿真似ばかり、そもそも芸術とは何ぞや? という問いには答える術も無い。
技術的な学問? 言葉の遊び? 綺麗で素敵な文言は弄するけんども、その人にはなんの魅力も無い。
ありきたりの、退屈な日常と、腐り果てた価値観での暮らしだけ。
俺は歳をとればとるほどに、会話してみたいと想う相手がいなくなってる。
なんの真新しい日常もなく、古風な道徳と倫理と、答えは見えている。
人間の新しい時代を先に生きる、これが詩人であり、芸術家の仕事。
自由自在に自分の好きなように生きて見る、孤立をなんも怖れずに生きて居る、そういう芸術家がいない。
媚びを売って、相手に合わせ、食い扶持・餌をもらうためには言われた通りの広告塔にだってなる、こればかり。
ロボットでエエだろう、AIロボットで事は済む、そんな呆れ果てた大人社会が終焉に向かう時、そこで新しい芸術家が自由自在に生き始めるんだろうかね?
ま~だ俺の方が愉しい生を生きておるだろう。
保険に入って、投資に運用、老後・介護を考えてるような芸術家ばかりの酸鼻な光景は、見るに値しない豚の檻。
なんだかな~、若い人たちを見て居っても、そんなのばかりになってるようで、ナニが愉しくて生きているんだろうか? 不思議だな~。
最後はお見事、野垂れ死にでエエやんか?
詩人とは、死から解放されて生きる者のことを言う。