「スピーディな意志決定」を売りにするこの「ヤンキー政権」は、自民党が過半数を握っているこの時期に一気に彼らの言う教育「改革」を進めるつもりらしい。
ろくな議論も反省も洞察もなく「気合さえあれば何でも解決できる」という斎藤環が言うところの社会の「ヤンキー化」は、憲法解釈の変更ばかりでなく、ついに大学教育の現場まで飲み込もうとしているのだ。その戦略的に畳み掛けるような政策の押し付けはある意味見事ですらあるが、根本的に間違っている政策なので、これによって国立大学、もしくは日本の大学教育全般が受けるダメージも半端なものではないだろう。元々腐りきっていてかろうじてふらつきながらも踏ん張っているような日本の国立大学が、これで最後の支え棒を奪われて崩壊してしまう危険性も高い。
ひとつはこれである。
学校教育法と国立大学法人法の改正だ。既に閣議決定されたこの法案は、すんなりと国会を通過して来年の4月から施行されることになっている。各大学の教職員組合などを中心に反対運動もいくつか起こっているがそのこと自体がほとんど報道されていない。
これによって、教授会からは大幅に権限が奪われ、人事権もすべて学長に委ねられる。経営協議会も外部の委員を過半数入れなくてはならないことになる。
産業界から「経営のプロ」を招き入れ、大学教育の民営化・効率化を通して「グローバルな競争力」を高めるのがその目指すところらしい。
すべての「ガバナンス」を学長に集中させるとなると、国立大学の営利企業化、あるいはブラック企業化を危ぶむ声も出てきそうだが、実はそうではない。
こんなに権限を集められた「学長」はとてつもなく不幸な人なのだ。あるいは、とてつもなく頭の悪い人でもなければ、これからは学長なんて務まらない。なぜなら国立大学がこれからやらなくてはならない「改革」はあらかじめ政府/文科省によって最初から道筋が決められているからだ。権力が集中させられた「学長」や経営陣に求められているのは、政府が決めたこれらの「ミッション」を忠実に履行することにすぎない。これをうまく成功させられなかった学長は責任を取って辞任することを求められるかもしれないが、ミッションを決めた文科官僚およびその事業をアウトソーシングされたどこかの総研(いまや政府の仕事はほぼ金融系などの総研にまるごと委託されている)は一切責任を取ることはない。その頃には退陣してしまっているだろう現在の首相や閣僚も同様である。誰も責任を取らないままにすっかり廃墟化した大学の死体だけが残るのではないだろうか? まあ、その頃にはぼくももう現役ではないだろうが……。
だから、実はこの法改正に対する反対運動もピントがずれている。問題は大学の自治や教授会の自治の破壊などではないのだ。なぜなら、そんなものはもう20年前にとっくの昔に破壊されている。国立大学が政府や文科省の言いなりの奴隷になるという基本的な流れはこれまでもこれからもちっとも変わらない。(ちなみに僕は電子版の署名運動という手続きは信頼していませんのでこれに電子署名はしません)。
昨年度6月に閣議決定された「国立大学改革プラン」に従って、呆れるほどスピーディに平成25年秋にはほとんど決定された「ミッションの再定義」によって各国立大学や各学部が目指すべき「ミッション」が、文科省によって一方的に各国立大学に通達された。「各大学との意見交換によって」と書かれてあるが、実際にはそうではない。文科省からすでに文言がほとんど書き込まれ、自主的な数値目標だけが空欄になった「ミッション」が一方的に各大学に突きつけられたのである。あまりに迅速であるために国立大学の教職員が唖然としているうちに、続く矢が次から次へと飛んできた。たとえば、これ。
「ミッションの再定義」に基づいて改革プランを申請した大学には補助金を与えて(最初に東大・京大といった強化大学が指名され、うちのような弱小国立大では第三次補正予算で2月末という年度ぎりぎりの時期に示された)、それを遂行することを強く求める。一般運営交付金が毎年縮減されているので、国立大学はこのような補助金なしには生き残れないようにされている。横浜国立大学の場合、3億数千万円の補助金を毎年与えられここに書かれている「ミッション」を迅速に遂行するように求められた。逃げ道はどこにも残されていない。
この表の2,3,4には埼玉大学、千葉大学、横浜国立大学と関東一円の地方大学が並んでいるが、文科省がこれらの大学に求める「ミッション」は共通している。つまりは理工系か医療系に力を注げということだ。実際、文科省の担当者からは多数の私学がある神奈川県では、教育コストがかからない文学部系は私学に任せて、理工系に集中させないと税金を投入する意義を問われると財務省から言われているとの発言があったそうで、その結果ぼくたちが所属している「人間文化課程」は、実態は全く異なるのに単なる教員養成系の「新課程」と一緒くたにされて「廃止」と告げられてしまった(リンクの後ろの方に書いてあります。ほんの二行だけ。これも最初っからこう書き込まれていた)。文科省が国立大学の課程・学科を直接「廃止せよ」と言ったのである。
ちなみに人間文化課程は人気も上々で、学生の満足度も高く、普通なら廃止させられるようなことは絶対にありえない優良学科である。
それでも私学の多い関東一円には国立大学文系の学部や組織は必要ないので廃止せよということなのだ。文学部なんて一種の贅沢品なのだから私学の高い授業料を払える学生だけで十分だと言うわけである。そこに大学の意見を差し挟む余地は一切ない。今回の国立大学法の「改正」はこういう道筋で進められているのである。だから、学長の独裁が心配なのではない。そうではなく、その背後にある政府・文科省そして彼らの政策に影響を与えている新自由主義系の政策決定者たちによる大学教育や大学文化の暴力的な破壊が心配なのだ。そして、その裏には国立大学どころではなく学生減少で経営そのものが危うくなってきている私立大学の圧力があったこともうかがえる。まあ、少子化に苦しむ私学も必死なことはよく分かるが、それにしてもこの極端な「ミッション」によって国立大学から人文系の学部や学科はどんどん縮減され、最終的には横浜国立大学は東工大に吸収合併されてしまうのではないかと危惧される。
考えてみれば、ぼくが国立大学に来た92年、いやその前の80年代後半から、この国の大学教育政策は一貫して間違った道を歩んできた。87年に設置された大学審議会が91年に出したいわゆる「大学教育の大綱化」は、各大学独自の教育・カリキュラム改革を推進させ、その結果約五年で教養部・一般教育部はほとんどの大学から姿を消した。80年代のレーガン、中曽根政権が推し進めた新自由主義経済学の影響が強いこの改革は、要するに大学教育に競争原理を持ち込むことにより、お互いに切磋琢磨することによって教育の質や効率を高めるという効果を狙っていた。だが、なかなか思い通りにはならなかった。教養部廃止にしても隣がそうするのを見て一律に同じことをしただけのことである。
改革が思い通りにいかない文科省はさらに締め付けを強め、そして2004年に国立大学法人化が実施され、国立大学は企業の形態を取ることになった(のくせ、文科省による運営交付金を武器としての国立大学支配は強まる一方である。公務員ではなくなったはずなのに、震災時の国家公務員の給与の一斉引き下げには強制的に参加させられた。またいつの間にか年金も一元化され、ぼくが65歳になるころには「ねんきん特別便」の試算によれば文科省共済だけだと30年弱務めても月15万円程度しかもらえない。もはや公務員イジメですべての特権が奪い取られて、安い給料・低い年金という末端知的労働者でしかないのだ。もちろん、更にそれより悲惨な退職金すらもらえない非正規職員や年俸制年期付き教員がどんどん増やされる)。こんなに長い間間違い続けてきたので、もはや何が間違いなのかすらも見えなくなってしまっている。
これまでも複数の論者によって論じられてきたように、大学に対するこのような政策は根本的に間違っていた。短期的な数値目標の設定や、競争原理の導入は、大学教育の質の向上に一向に結びつかず、大学教員は無数の計画書や評価書の作成に忙殺され、研究を行う時間を大幅に奪われ、科研費や競争的資金を獲得するための申請書づくりに追われるようになった。民間企業の論理を大学に持ち込むことが間違っていたばかりか、この数十年の世界を見れば分かるように根本的に新自由主義経済学の予測自体が間違っていたのである。大学は年期付きの非正規労働者を大量に雇用し、教職員間の格差が広がり、大学で働く誇りさえも奪われていった。財界、産業界の要請に応え「日本経済発展のため」に奉仕しなくてはならない都合のいい若年労働者供給機関にされてきたのだ。
だが、余りにこうした考え方が広がってしまったために、共産党や社会民主党のような弱小政党を除けばそのことを認めようとしないで、「改革の不徹底」をその不成功の理由だと考える人達ばかりがこの国の政治を動かしてきた。経営学の用語がどんどん大学経営に持ち込まれ、それがうまく行かないのは大学教員や教授会が抵抗しているからで、学長のガバナンスの強化によってうまく行くようになると考える、ぼくたちから見れば根本的にポイントがずれている人たちが「大学改革」を牽引してきたのであり、このままではもう立ち直ることが困難になるまでに大学を駄目にしてきたのだ。
というわけで、ぼくたちの大学では我々文系教員の組織は解体され「グローバルな理工系人材」を目的とした新学部作りをしなくてはならない状況である。細かいことは一応当事者なので秘密にしなくてはならないが、現在進行形で色々なことが進められている。もう少し昔なら、学長と団交するとか、霞ヶ関でデモをするとか、署名運動するとかいう抵抗もあったのかもしれないが、これらの度重なる「改革」にすっかりうんざりして牙を抜かれた同僚たちは諦め切ってしまって気力を失っている。それはそうだろう。敵は文科省の奴隷にされて苦労している学長ではないし、実際にプランを作った総研の社員や元社員は霞ヶ関にはそもそも居ないし、署名が集まってもそれを出したらそれ専門の処理班に回されるだけなのだから、どうしていいのかすら分からないのである。基本的に、自分の頭で考えずに国が与えた「ミッション」を忠実に遂行する者だけが大学教員に求められているような場所で、教員が良心を持って生きることなどできようもない。
2004年の独法化の時には全国的な反対運動も起きたし、怒って辞職する教員も多数居た。ぼくも含めてその時に辞めなかった教員は最初から敗北者なのかもしれない。それ以降、ぼくは自分の身の回りだけのことを考えてきた。自分の回りだけに「本来の大学」の砦を作れればいいと割りきってやってきたのだ。幸運なことにその願いは部分的には実現することができた。だが、これからはそうも行かないのかもしれない。自分の定年も近いし、もう少し自由な私立大学に移ることも本気で考えなくてはならないのかもしれない。もはやこんな「改革」が完遂された国立大学に知的な自由などが存在できるはずがないではないか?
もちろん、それじゃどんな大学改革が有効か? と言われてもそう簡単ではない。制度や枠組みから考えても、各大学にはそれぞれの個性と特性もあるし、地域性もある。だが、要するに大学とはいつでも具体的な「人」が作るものであり、教員と学生と職員という個別的な「人」の力によって成り立っているものだ。つまり、多様性を活かすことこそが大学の持っているポテンシャルなのではないかと思う。それを、これからはこうなるから、英語で教育しろとか、学長の(ということは、その学長を操り人形にしている政府の)言うことを聞けとか、一律のFDやカリキュラム改革をやれとかいうような政策の押し付けだけで何とかできるというような発想が根本的に間違っていると思うのだ。
それよりも優れた大学教員や大学人から提案される新しい発想やイノベーションを政策に取り入れればいいのではないかと思うが、それにはだいぶ時間がかかるだろう。そういう切り替えをするには、既に遅すぎるのだ。なぜならそんな創意や工夫などを自分たちがいくら考えても仕方ない、政府が決めた「良い大学」に近づけなければ運営交付金を減らされると脅かされてきた大学の中には、もはやそんな自由な発想やダイナミックな発信力を持った教員はいないか、あるいは本当に少数派になってしまっているからである。もしかすると片隅でExcelやWordなどを絶対に使わないようにして隠れている逸材がまだ居るのかもしれないが、日常的に求められるExcelファイル作りに自動的に反応している教員たちにはもはや望みはない。
さらに問題なのは、独法化や国立大学改革が間違っていなかったと本気で信じている新自由主義的な立場を奉じる(競争的資金を大量に獲得してきた、申請書づくりにだけ長けた)教員の数も実際に増えてきていることである。まあ、生まれた時からこんな感じなのだから、もはやこれがおかしいとすら感じられなくなっているのだろう。リストラによってしか日本は生き残れないと思っている人たちから見れば、国立大学の文系なんて単なる税金の無駄遣いにしか見えないのかもしれない。すべての人がシステムや制度ばかりを考えるエンドレスなゲームに巻き込まれてしまい、具体的な人が動かしている個別の現場をきちんと見る思考ができなくなってしまっているのだ。こんなことをやっている政府を信じている人たちが教員にも学生にも増えていることが本当の不幸なのだが、彼らは自分たちをどんどん不幸にしているのが誰かということが全く分からないので、二重三重に不幸なのである。
だから、最低の時代と最低の社会の中でいかにしてめげずに生き抜いていくかということだけが問題なのだ。もう大学という制度や社会システムに何かを求めることなんてできない。まあ、よく考えてみれば、程度の違いはあれすべての時代は最低だし、すべての社会は駄目なのだから、そんなにこの時代だけが特殊なわけでもないのかもしれない。しかし、教育が破綻し、無知で金儲けにしか価値を見いだせない国民ばかりになっていく――最近はマジに「日経新聞」さえ読んでいれば世界を知るのに十分だと口にするような、とんでもなく知性の低い学生たちが増えてきた!――この国にこのままでは未来はない。