爺さんが伝えたいこと

寡黙に生きて来た爺さんが、一つの言葉ででも若い人達の役に立つならば、幸いです。

「人に尽くす」喜びを知る

2021-12-17 12:26:34 | 日記
人はみな、自分で自分を作っている、と思っている。

そうだろうか。

では、貴方は貴方の体のどこを、貴方自身で作ったのか。

人は全ての瞬間に一生懸命集中して、自分の人生を作っている。

何かに興味を抱いたとたん、物凄い集中力が自分の体から、放出される。

が、これも宇宙の生成力(徳)である事に、気が付かなくてはいけない。

人間の生き方も、人それぞれである。

みんな自分の性格に合った生き甲斐を求めて、努力している。

宇宙の特は、無数の人の求めに応じて、間断なく活動のエネルギーを与えているのだ。

しかも、これ程の生命活動力を与えても、ノーコストである。

宇宙の徳は一切利益を求めず、他の為に働いている。

この他の為に尽くす力は、仮に「仁」と名付けた。

この他を思いやり、他に尽くす「仁」の心は、遠く宇宙に求める必要はない。

「仁遠からんや」ーもとより、自分の体にある。

私たちは他の動物と違って、モノを考える事が出来る人身を、天から授かった。

考える事は素晴らしい。

素晴らしい反面、社会が発達し、人間が考える能力を鋭くすればする程、お互いの強い考えがあちこちで、ぶつかり合って相対立し、争う事になった。

現代人は、考え方の相違によって悩む。

そんな時、相手が自分を思いやって「あんたの考えは、とてもよく理解出来る」と言ってくれたら、どれ程心が明るくなる事か…。

貴方の方でも、相手を思いやって発言すれば、相手が喜ぶのだ。





「競争」から降りてみる

2021-12-15 20:03:15 | 日記
人は生きている限り、何らかの形で競争をしている。

学校では、成績を競いあった。

友情を失って、合格するか否かで、受験の勝負をした。

会社へ入るにも、地獄の争い。

入ってからは、もっとむごく厳しい競争がある。

財産と地位でも、負けたくはなかった。

一生をいつでも競争で悩み、勝負で苦しみ、楽な時はいささかも無かったと、多くの現代人がつぶやく。

孔子は「吾が道は一、以て之を貫く」と、喝破する。

自分が一生を通して行った事は、たった一つであると。

ではその一つとは何か。

曾子(そうし)というお弟子さんは、こう言っている。

「孔子先生が、常に一貫して行っていた事は、忠(人と誠実に付き合う)と恕(じょ・人を思いやる)であった」…と。

自分が富んで豊かな時も、貧のどん底にある時も、貴い地位にいる時も、無位になってしまった時も「忠恕(ちゅうじょ)」のまごころ一つで生き抜く。

競争、競争で打ち勝った人は、四十代を過ぎた頃から、短気になる人が多い。

競走に勝ってきた人は「オレは正しい」という観念が強い。

もう一つ、相手はほとんど自分の敵だと、思ってしまっている。

三十代は体力も能力も優れているから、いわゆる大人の対応をして生きられる。

四十代、五十代になると、急に体が動かなくなったり、忘れっぽっくなったりして、思わぬ失敗をする。

若いうちから、いつも人を思いやって、誠実に仲良く友とつき合う修練をしていないと、そんな時に自分を制御できずにキレる。





生まれてきた「奇跡」に感謝する

2021-12-14 22:28:32 | 日記
生き物の生命は、たった一つの細胞からスタートする。

自分の体は、手かあり、足があり胴体があって、こんなにも大きいが、出発点は父の精子の一粒が、母の卵子にたどり着き結合して、一つの細胞が二つに、二つが四つに、四つが八つに、八つが十六に、次々と倍加して、鼻や目や毛髪や爪を作ってくれたのである。

ケイ君はケイ君の様に…。

さおりちゃんはさおりちゃんの様に…。

「孝慈なれば則ち忠なり」ー孝、つまり、宇宙の生成力くらい優しくて、愛が深く憐れみの深い力はない。

自分の利益は、まったく意識せずにケイ君はケイ君の様に、さおりちゃんはさおりちゃんの様に、忠(まごころ)をもって生成してくれたのである。

一口に親孝行と言っても、決して自分の両親敬い、感謝するのでない。

両親に働いている宇宙の生成力によって、自分が人間として無事に誕生した事に感激し、感謝するのだ。

例え自分の親が毎日飲みほうけて、遊んでばかりいても、両親に働いていた宇宙の生成力に合掌すればよいのだ。

私たちの体は、何と六十兆以上の細胞によって出来ている。

一、十、百、千、万、十万、百万、千万、一億…と数えていって、兆の数がどれくらいか、まったく想像も出来ない。

しかも、その一つの細胞がしっかりと生きている。

皆な宇宙の生命の群れだ。

ここで、よく考えてみなくてはならないのは、この細胞の一つひとつは、ちょっぴりたりとも、自分の利益を考えていないと言う事だ。

お互いにしっかりと手を取り合って、ケンカ一つもしない。

乱れ苦しむ事もしない。

これでも、宇宙に感謝出来ないのか。






迷ったら「本能」に従ってみる

2021-12-14 07:57:00 | 日記
言論の自由は、結構な事である。

が、これを濫用し過ぎると、人間関係がこじれてしまう場合も多い。

言いたい事を声高く撒き散らし、それぞれが自分の権利だけを主張してやまない…と言う事になれば、皆でいくら努力しても、なかなか和やかで、平和な社会は育てられない。

「君子は本を務む」

君子(寛大なる人格者)は、生命の本の働きに、心を向けて生きていく。

私たちが生きている世の中と言うモノは、どこもかしこもゴチャゴチャと
入りくんでいて、何処をどう歩いて良いかよく分からない。

そんな曲がりくねった道を、迷わず歩いて行くのは簡単ではない。

その上、皆から言いたい放題に「いや、あっちはダメ」「いや、そってもダメ」と、チェックばかりされたのでは、にっちもさっちも行かなくなる。

こんな混乱の時こそ、自分の生命の根元をしっかり見据えて、自分の生きて行く方向を決めたいもの。

「手を打てば、下女は茶を汲む、鳥は発つ、魚寄り来たる猿沢の池」

奈良の猿沢の池畔の茶店に休んだ客が、ただ手をパチンと叩けば、茶店の女中さんは「ハイハイ」と言ってお茶を出すし、鳥はパッと飛び立ち、魚はエサを投げてくれると思い寄って来た。

パチンと手を打つ現象が、それぞれの受け取り様によって、こうも違ってくるのだ。

「あっちはダメ」「こっちは良い」がまったくない。

これが本(宇宙・自然)の在り方なのだ。






相手の信じきる

2021-12-12 09:59:46 | 日記
三枚のカルタでやる賭博がある。

三枚の札の合計点で競うのだか、うっかり引いた三枚の合計が、二十点になると無得点になる。

つまり、八・九・三の組み合わせ最悪だった。

八・九・三から「やくざ」の言葉の生まれる。

それで、まともでない者、遊び人、博徒、盗人を指す様になった。しかし…。

桃山時代に釜ゆでになった盗人に、石川五右衛門がいる。

彼は大名屋敷で金を盗んでは、貧しい人や病人に金を配っていた。

やくざ者には違いないが、弱い人や困っている人を思いやる仁の心があった。

「民を利する所に因る」ー村民や困っている人を救う為に、勇気を出して行動するという意味だ。

国定忠治(1810~50)も農民たちを苦しめた悪代官を切った。

彼は言葉の穏やかな優しい人であった。

が、善良な農民たちの貧苦と、役人たちに屈従しているあわれな姿を、見てはいられなかったのだ。

そこにも仁義があった。

深作欣二監督は、思いやる心のない残酷無慈悲なやくざの暴力を「仁義なき戦い」といったが、義理と人情に生きた「やくざ」と、力だけで抗争する暴力団とは、一線を画さなくてはならないだろう。

暴力・暴行は許されないが、当時はそれ以外の方法が無かったのだ。

清水次郎長(1820~93)が、富士川の堤防工事に、罪人たちが足に鎖を付けられて石を運んでいる姿を見て、役人の武士に頼んだ。

「ごらんなせえ。足首から血が流れて、可愛そうだから、あの鎖を取ってくれ」「鎖を取れば、逃げる」「分かりました。一人でも逃げたら次郎長の首をはねてくれ」。

罪人たちは、次郎長に感謝して一人も逃げずに働いた。

結果は三倍の石を運んだのである。