
心は あるときは天使であったり
あるときは悪魔であったりする
それは避けられないこと
それは地上の人間の心の自然性だともいえる
天使は善であり 悪魔は悪であると 決めつけるわけにはいかない
天使は悪魔の姿をして現れたり悪魔は天使の姿をして現れたりもする
100%善の世界とか100%悪の世界は考えにくい
なんというか 進化というか成長というのは 一人の心の中でも
右往左往しながら七転八倒しながら起きていくので
なんか どっちを選んだとしても あいこだよねって思ってしまう
いいとか悪いとかの先に何があるのか何がないのかは
生身は好きな方を選択しながら生きていくことになる
内と外は密接に繋がっているし 多分境目はない
いろいろ世に流布されている法則の中で今の自分に心地よいものを
選んでいく他ないのかもしれない
体験していく他ないのかもしれない

なによりも 自分が自分のことを好きでないと 好きになれないと
その分だけ人に負わしてしまうことにもなる
自分のことをちゃんと好きになれば
いろんな真実や法則は別にしても生きていくのが楽になる
亀の自分自身を好きになっていく旅は
人を好きになっていく旅
命を好きになっていく旅
もしその旅の途中でとてつもないアクシデントが起きたとしても
それは自分を更に深く好きになり人を好きになり命を好きになる契機となる
自他を含めどんどん好きになっていけば
いいとか悪いとかではなく
それぞれの命の違い 思いの違い 気持の違いとして入ってくる

許しはどこからくるのか
だれがだれを許すのか
許すも許されないもなく ただ 今を生きるだけ
何かを許せないとき 誰かを許せないとき
それは自分自身を許せないということの写し鏡であるという視点があると
少し楽になる
許しは努力でもなければ頑張りでもなく
事実は事実として違いは違いとして受け容れることを通して立ち現れる
何かを支配したりコントロールしたりすることなく
在るということが実現すればいいなと思う
ほんとうにそう思う
心の旅のトラウマは
そう簡単には解消されはしないので
それはそれでやっていく他ない
大好きだよって叫ぶことは
大嫌いだよって叫ぶことと
同じところからきてるんだよっていうくらいの自覚を必要とするのかもしれない
大好きと大嫌いが溶け合う着地点はそれぞれ違うのかも知れないが
山を下り川を下り海へ辿り着く
そしてまた空へと立ち昇り螺旋を描きながら進んでいく
好きにとらわれることなく 嫌いにとらわれることなく
己を手放していく旅は はるか遠くを見据えている
この大地にこの自然の中で足をふんばりながら続いていく

(神もどきちゃん) 亀ちゃん 他に何かいうことはないの?
(ちゃらんぽらん亀) そ、添い寝しようよ
(神もどきちゃん) 10年早いのよ!
(くろっぺ) 亀ちゃん ぼくが添い寝してあげる 神もどきちゃんも一緒に寝ようよ
(神もどきちゃん) し、仕方ないわね くろっぺが真ん中ね
(ちゃらんぽらん亀) か、亀が真ん中がいい!
(神もどきちゃん) 100年早いのよ!